海人の夢 第40回 宗門騒動

文聞亭笑一

この時代の物語を読むとき、年号が頻繁に変わりますので、何が何だかわからなくなってしまいます。何か不吉なことがあると、年号を変えて出直しを図る、という縁起担ぎでしょうが、変わりすぎて時間間隔がわからなくなります。さらに、除目という、役職の任官も頻繁に行われます。誰がどの職位か、これまたわからなくなります。

現代の内閣改造のようなものでしょうか。野田内閣も1年しかやっていないのに3回目の内閣改造ですからねぇ。大臣乱造ですよね。部下の官僚たちは迷惑しますよね。

清盛が生まれてから、死ぬまでの間に何回年号が変わったかを整理してみました。

元永(1118)、保安、大治、天承、長承、保延、永治、久安、仁平、久寿、保元、平治、永暦、応保、長寛、永万、仁安、嘉応、承安、安元、治承、養和(1181)清盛の一生、64年のうちで22回です。

ともかく、今、TVでやっている場面は、承安元年(1171)あたりです。

「1192作ろう鎌倉幕府」まで、まだ20年の歳月があります。鞍馬山にいた牛若丸が、活躍を始める1184年まで、まだまだ間がありますが、今週あたりに牛若と弁慶の出会いが出てくるようですね。

京の五条の橋の上 大の男の弁慶が 長い薙刀振りあげて 牛若めがけて斬りかかる

こんな童謡がありましたが、昔の物語では運命的な出会いを「橋の上」で演出する技法が多いようです。平家物語では五条大橋が舞台ですが、後の太閤記でも、日吉丸と野武士団蜂須賀小六の出会いは矢作川の橋の上でした。

現在の五条大橋は、国道9号線が鴨川を渡る場所ですが、牛若と弁慶が戦ったのは、もう一本上流の松原橋あたりだったようです。が、観光資源としては、名の通った五条大橋でなくてはならないようで、国道の真ん中の分離帯に、牛若と弁慶の像が建っています。博多人形のような石像で、思わず微笑んでしまいそうな可愛さがあります。京都時代、文聞亭はその像のまん前に住んでいましたから、会社の行きかえりに眺めていました。懐かしく思い出します。

が、このあたりは六波羅の平家の本拠地と至近距離です。禿(かむ)童(ろ)がウロウロし、平氏の武者が門衛を立てているど真ん中で、弁慶が刀狩などしてはいられなかったはずです。

まぁ、平家物語の作者のフィクションでしょうね。これを下敷きにして…太閤記もフィクションを作ったのでしょう。「君の名は」の出会いも橋の上でしたね。どうも、日本人は橋の上で運命的出会いをするのが好きなようです。

56、宮中へ女御として上がった平徳子は、幼少の頃から詩歌の道にも明るく、学問にも優れているので、11歳の帝からたいそう気に入られたようであった。

徳子を相手に、帝が詩や歌を作っておられるところは、ちょうど姉と弟が睦まじくしているように見える。

高倉帝と徳子は、母方のいとこ同志です。15歳と11歳、中学三年生の女の子と、小学五年生の男の子ですから、まぁ、ここに書かれている雰囲気だったでしょうね。憧れと競争心が入り混じった甘酸っぱい雰囲気が醸し出されていたものと思います。大人たちの政争の道具にされてはいますが、二人にとっては気の休まる関係だったでしょう。男の子の方が性的には遅いですから、しばらくは姉と弟の関係が続いたことでしょう。

「姉ちゃん、歌が出来たぞ。これどうだ」

「あら、いいわねぇ。でも、ここを、こうしたら…、ほら、もっと良くなるわよ」

「そうかぁ、うん、うん、なるほど。姉ちゃんありがとう」

こんな会話をしていたのではないでしょうか。

57、「叡山や園城寺、それに南都の寺々の申し分を、いちいち聞き入れていては、かえって、彼らが騒ぐことになる。それよりも、平家の力をもちって抑えてしまうことが第一、この後も二度や三度、法皇の院宣を奉じて、僧兵と戦うことがある。と覚悟せねばならぬぞ」

寺社は年中行事のように騒動を起こします。言ってみればヤクザの縄張り争いのようなもので、それぞれの利権が対立する場所で事件が起こると、互いに僧兵を繰り出して喧嘩を始め、そして、朝廷に敵方の処罰を要求してきます。これが強訴ですが、もともと宗教的対立に起因する理不尽な要求ですから、理性で裁くわけには行きません。

そうですね、中東で頻発しているイスラム原理主義集団を想像していただければわかりやすいと思います。「話せばわかる」は理性の判断ですが、理性を超えた神の世界は理屈ではありません。話しても決してわかることはないのです。

イスラムまで行かなくても、日中韓の歴史問題、こんなものも「話せばわかる」ものではありませんね。国際法を無視して、信じ込んでしまっているものは、いくら話してもわかるものではないでしょう。

引用した部分は「話せばわかる」と仲裁に乗り出そうとする重盛を、清盛が諭す場面です。

清盛は、「力を背景にしない外交は無意味だよ」と言っています。はて、さて、平和憲法を金科玉条とする民主党政権に、この言葉が理解できるでしょうか。「攻めなければ、攻められない」と信じている方々には、理解が難しいと思います。

58、興福寺の僧侶としては、熊野湛宗を罰してもらえば、それで自分たちの意地は立つ。延暦寺の座主を流罪に処してくれるよう、と言ったのは、ただの意地なので、それほど固執しているわけではない。

寺社同士の争いが、あちらこちらで起きます。比叡山と園城寺(三井寺)は、朝廷の権益を争う積年の仇敵同志です。南都の興福寺も藤原家の財政が逼迫してくると勢力にかげりが出ます。叡山にとってはライバルの南都勢力を叩くチャンス到来です。一方、熊野大社は後白河法皇の信心が篤く、かつ、平氏とは友好関係にありますから勢いが出ます。勢いのあるほうが、落ち目の勢力にちょっかいをかけるのは世の習いですねぇ。熊野社が興福寺の領土を荒らしました。中韓が日本にいたずらを仕掛ける尖閣、竹島のようなものです。

興福寺に対して無法を働いた熊野の湛宗を罰せよと、興福寺が実力行使にでました。興福寺の強訴は、神輿ではなくご神木を担いでの武力デモです。それを見た叡山は、興福寺を叩き潰すチャンス到来とばかりに、僧兵を繰り出して迎え撃つ体制を取りました。叡山にしてみれば、京の都から清水寺、宇治平等院などの南都勢力を一掃してしまいたいのです。まさに縄張り争い。宇治川を舞台に、宗教ヤクザの出入りです。

ついでですから、政治勢力と宗教勢力の相関を、整理しておきましょう。

後白河上皇・・・園城寺、      熊野社

平清盛・・・・・比叡山(明雲座主) 熊野社 厳島神社

藤原家・・・・・南都(興福寺)

清盛が熊野や厳島と関係を結ぶのは、まさに「海人」なるが故の海神信仰です。

宗教ヤクザの出入りは、大兵力をもって宇治川に展開した平家の軍勢を見て、すごすごと退散していきました。それはそうです。河原を取り囲んで、数万の平氏の軍勢が弓に矢を番えて睨んでいるのですから、「騒いではならぬ」と言う法皇の院宣を無視したら、たちまち射倒されてしまいます。命知らずの山法師といえども、身に十数本の矢を受けたら生きては帰れませんからね。

59、清盛は、去年の末、洛中に不穏な噂を流したのが何者か、はっきりとわかっていた。三十八年前、袈裟御前を斬った遠藤盛遠、僧籍に入って文覚は、諸方で僧侶としての苦行を積み、今は高尾山神護寺の再興に力を尽くしている。毎日、洛中を勧進して歩き、再興の費用を集めようとしているが、時々、検非違使の役人から咎められていた。

比叡山の僧兵たちは、帰りがけの駄賃と清水寺に火をつけて退散しました。これが洛中に燃え広がり、御所を含めて大火災となりました。ただでさえ治安が悪いところに、焼け出された難民が溢れて、京の町は大混乱に陥ります。そこへ…「祟りじゃぁ」と噂を流せばどうなるか。まぁ、放射能汚染の不安心理を想起いただければお分かりのとおりです。

これを、すべて、平氏のせいにする煽動家が現れました。疫病が流行るのは、外国と取引して黴菌を持ち込んだからだ、天候不順なのは平氏の台頭に神が怒っているからだ…

などなど。インタネットほどの速さはありませんが、それでも噂というのは瞬時に広がっていきます。三日もしたら京の町中に広がり、消しようがありません。

遠藤盛遠、文覚は、佐藤義清(西行)と同様に、清盛が若い時分に北面の武士として一緒に過ごした仲間です。人妻に恋をして、亭主を殺すつもりが、その恋人を間違えて斬ってしまった過去の持ち主です。昔の仲間だけに…清盛の対処は甘くなります。