海人の夢 第39回 栄耀(えいよう)栄華(えいが)

文聞亭笑一

この時期、平氏の勢力は急成長していました。それは、単に貿易による利益という、平家だけの経済力だけではありません。全国の武士を組織化し、対立する武力集団を押さえ込んで身動きできぬようにしつつあったからでしょう。藤原家や、その他の公家の荘園も、租税はそれぞれの領主に流れますが、武士団は平家の統制のもとに従っていたのです。

あえて武力の面で対抗勢力といえば、叡山や南都の僧兵ですが、圧倒的な数の差がありますから、自分の権益を守るのが精一杯で、天下国家に野心を持つほどのものではありません。平家の一人勝ちの状況を作り上げていました。

ただ、この時代は現代同様に天候不順が続いたようで、国家としての経済状態は低成長、ないし、マイナス成長に陥っていました。それでも平氏や、武士たちの管理する地方では治安が維持されていますから、暴動や難民の流出は起きませんが、公卿たちの管理する畿内を中心とする都周辺では、飢饉のたびに難民が流出し、京の都に流れ込んできます。

年を追うごとに、都の治安が乱れていきますが、摂政関白の藤原基房には、有効な打ち手がありません。無為無策です。

一方の清盛は、鴨の川原などに難民収容所を作り、炊き出しを含めて難民を保護します。更に、彼らを平家の所領に移動させ、土地を与えて開墾をさせます。「平氏にあらずんば、人にあらず」は、その意味で「人間らしい全うな生活をしたいのなら、平家の庇護を受けよ」と言うことでもありました。

清盛はこのやり方を公卿たちにも要求します。 つまり、「自ら金を出して難民を救え」「難民が自立できるよう、民生に力を注げ」と言う要求です。この時代の福祉政策でしょうか。公卿たちも、しぶしぶ実行しますが、実効が上がりません。公卿にそれが出来るくらいなら、畿内から難民が流出して、京に流れ込むことはありません。難民の殆どは公卿の統治する畿内の住民なのです。公卿には民治能力がないから、少々の不作でも餓死者がでてしまうのです。

52、重盛は、わが子の資盛が摂政に無礼を働いた罪、許すべからずとして、流罪とすることを願い出た。重盛が自らわが子の罪を訴えた以上、宮中でも聞き流しにしておくわけにはいかず、資盛を伊勢の国へ流すことに定めた。

重盛は自ら申し出て、自分の息子に罰を加えます。

が、清盛の報復を恐れた朝廷は、辞令だけで刑の実行をしませんでした。

平安期の政治体制、階級制度を最上のものと考え、法治主義を旨とする重盛にとって、清盛の展開する革新的政治手法と、自由経済政策は腑に落ちません。その意味で重盛は保守主義者でしたね。保守原理主義といってもいいかもしれません。その観点からすれば、後白河法皇と、父清盛が、朝廷をないがしろにして国政を好き勝手をするのは許せないことだったでしょう。悶々と悩みます。

「孝ならんと欲すれば忠ならず、忠ならんと欲すれば孝ならず」

現代でも使われるこの言葉は、重盛の心境を伝えた平家物語の作者の名文です。

まぁ、程度の差こそあれ、サラリーマンにとっては毎日のように味わうストレスが、これですよねぇ。家族孝行をしようと思っても、仕事をないがしろにする訳にはいかず、仕事に精を出そうとすれば、家族の反発に遭います。それを、乗り越えてこそ一流ビジネスマンです。家族を説得し、上司や仲間を説得し、目標に邁進する環境を作り上げるのは、自分でしかありません。自分流、俺流を作り上げた者だけが成功するのは、昔も今も変わりません。そうしないと、重盛のように鬱病に向かってまっしぐらです。

53、公卿たちが噂をしていた通り、改元の前日、基房は太政大臣を辞し、摂政のままで留まることになった。理由は、重い職を重ねるには、自分としても耐えられない、と言うものであったが、その裏で、法皇の力が動いていたのは、誰にもわかっている。

おだて、持ち上げて、落とす、これは他人を虐める際の常套手段ですが、後白河と清盛は、この手で藤原基房を追い込んでいきます。殿下乗り合い事件もそうですが、基房をいい気分にさせてから、虐めの手段を講じます。したがって幸不幸の落差が大きくなって、それだけ神経が参ってしまいます。

基房は、太政大臣になって「位人臣を極める」と言う地位を望みます。摂政関白と太政大臣を兼ねれば、それこそ「帝王」として全権を振るえるはずなのですが、武力を持った清盛と、天皇家の権威を手放さない後白河が相手では、何も出来ません。むしろ、役割が増えた分だけ仕事が増えて、雑務に忙殺されました。それを禿(かむ)髪(ろ)と称する平家の探偵たちが、パパラッチよろしく、付回し、追いかけて、あら捜しをしては噂をばら撒きますから神経が参ってしまいます。

禿髪ですが、14歳から16歳までの少年です。浮浪児を拾ってきて、探偵の技術を教え込み、組織化したものです。髪形をそろえ、制服に赤い直垂を着せ、秘密警察の役割を持たせます。が、いわばハネカエリのチンピラ集団ですよね。彼らは時忠の支援をよいことに、やりたい放題をします。「キチガイに刃物」という通り、警察権限を振り回して暴れまわりました。庶民から嫌われること、この上ありません。この組織が、庶民から嫌われ、平氏離れを加速していきます。

禿髪は、後の世の忍者の祖先ではないかと言われていますが、伊賀忍者の祖先とされているのは、平家貞の血筋です。家貞は清盛の父・忠盛の代からの側近ですよね。

家康の側近として活躍する忍者、服部半蔵はこの家系だと言われています。

54、その席には、建春門院はもちろん、清盛の妻の時子、それから娘の徳子も連なった。徳子は15歳になり、目の大きなところなどは父清盛に似ているが、全体の顔立ちは母にそっくりであった。

後白河上皇は、福原の清盛邸を何度も訪問します。後白河はわがままで、むらっ気の多い人だったようで、思い通りに行かないと政治をほったらかして遊びの世界に没頭すると言うことの繰り返しだったのでしょう。ともかく旅が好きで、熊野参詣、福原下向などを、繰り返しいっています。更に、福原に来れば、贅を尽くした接待と、宋から届く先進文化が待っています。芸能好きな後白河にとって、宋の歌舞音曲は何よりの楽しみだったのではないでしょうか。

1171年10月の福原訪問では、はじめて清盛の娘・徳子が宴席に出ます。清盛の狙いは、徳子を高倉天皇の妃に送り込むことですから、根回しに怠りはありません。とりわけ、義妹で、後白河お気に入りの建春門院・滋子には、平家の狙いを十二分に伝え、協力を約してあります。準備万端、仕掛けは隆々といったところですね。

狙い通り、後白河は高倉天皇の后として徳子の入内を許します。計算高い後白河のことですから、清盛に恩を売る代償として、自らが院政を行うための支援を約束させたでしょう。天皇を擁して、権限を持ったままの藤原摂関家は後白河、清盛にとって共通の敵ですから、その力をそぐことには協力体制を強固にしておきたかったのです。

55、成親は、平家一門に対し好意を持っていないし、機があれば清盛の勢力を覆そうと考えている。それには強力な味方が必要であり、今のところ成親には、協力してくれそうな公卿はいないらしい。それでも清盛は、これまでの経験から、小さな火事が次第に広がって大事になる、と言うようなことも見てきているし、成親から目を放さぬようにしていた。

清盛と、後白河が蜜月状態になることは、側近である藤原成親にとって面白いことではありません。どちらも癖のある政治家で、成親の政治力で自由に出来るほどヤワではないのです。このままでは政治家としての存在感を失ってしまいます。特に、清盛の意を受けた時忠などが表面に出てくると、自分の地位を失いかねません。後白河一党と言う組織の中で、清盛に対抗する派閥を作ろうと暗躍しますが、清盛の情報網はそれを見逃したりしません。しっかりと行動を見守り、動きが発覚すれば、即座に粛清してしまおうと機会を伺っています。

いずれにせよ、経済成長が止まった国難の時期ですが、そんなことはお構いなしに、政争ばかりに明け暮れるのが、公家の公家たる所以です。

現代の公家、国会議員の先生方も国難そっちのけです。与党民主党と、野党自民党が、それぞれ党首選挙をしていますが、どちらも派閥次元で右往左往していますね。尖閣、竹島問題で中国、韓国と熾烈な外交駆け引きの大事な時期ですが、それよりも党内融和が大切のようです。困ったものです。