海人の夢 第37回 嘉応の強訴

文聞亭笑一

先日、テレビの討論番組に名古屋の河村市長が出演して、「今の政治家は政治を家業にしている連中ばぁかだで、ダメだがや」と発言していました。家業としての政治家??どうやら地盤、カンバン、鞄を代々受け継いだ世襲政治家のことを言うようです。

政治を家業にしている一族と言えば、奈良町から平安朝、そしてこの清盛の時代まで、藤原一族ほどぴったりと当てはまるものはいません。政権の中枢ばかりでなく、中央官庁はもとより、地方の代官まで、すべて藤原家の藤色に染めていました。

そこに現れたのが平氏で、忠盛が道をつけ、清盛が開墾し、重盛の世代になると平家の赤で上層部を埋め尽くしてしまいます。忠盛から始まった三代、平家も政治が家業になってきました。忠盛から数えて四代目の惟盛の代になれば、もはや「生まれながらにして公卿政治家」です。創業者である忠盛、清盛の理想とは大きく外れて、政治技法ばかりに関心が向いてしまいます。

世襲政治家がダメだとは言いませんが、世襲政治家を安易に候補に選ぶ政党、それを当選させている国民も反省しなければなりませんね。平家は、代を重ねるごとに、その資質が劣化していきました。苦労知らずが権力を手にすると、理想も理念もなしに権力をもてあそびます。永田町を舞台に、政局ゴッコをやっている現代の政治家も、河村市長の言う家業政治家ですね。理念なき政治家に権力を与えてはいけません。野田さんは「健全なる財政基盤作り」を理念に頑張っていますが、身内が全く無理解ですから野垂れ死にするしかないようです。

F77、清盛は福原の別邸に後白河院を招いて、千僧供養を行うことにした。千僧供養とはその名の通り、大勢の僧を集めて行う法要で、功徳(くどく)が大きいとされている。
……福原別邸の庭に大きく立派な護摩壇(ごまだん)がしつらえられ、僧たちが海に向かって経を唱え始めた。僧たちの中心に、導師を勤める明雲がいる。

これは、清盛の政治的大イベントですね。福原(神戸)の新しい町で、万国博覧会をやったようなものでしょう。町の設計も、建物も、内装も、調度も、万博のパビリオンよろしく、時代の先端技術を取り入れていたはずです。宋からの輸入品も、「これでもか」というほど陳列し、贅を尽くした企画を次々に披露したものと思います。

政敵である上皇の招待、比叡山の招待……これらは「清盛の夢」を見せ付けるためです。日本的伝統の良さと、宋の先進的技術を融合して、これから国が進むべき道を、具体的に実現して見せたのでしょう。

この当時、藤原一門は影が薄くなり、上皇に擦り寄る姿勢に転換してきていました。

高倉天皇を平家に抑えられてしまいましたから、頼るものは上皇しかありません。

その分だけ、京都における上皇の勢力は強まっていました。

比叡山も、山門生え抜きの明雲が座主になってから、結束が高まっています。

これに、昇り龍の勢いの平氏が加わりますから、京都政界は三代勢力のせめぎあい、凌ぎあいの政争の坩堝(るつぼ)となっていました。だからこそ、清盛は京都を避けて、福原での政治サミットを企画したのでしょう。平家と、叡山の良好な関係を演出するのが清盛の狙いです。

余談ですが、万博ですから一般市民も大勢訪れます。彼らは、斬新な構造物、輸入品にも驚きますが、清盛が福原に持ち込んだ、宋銭による貨幣経済に驚きます。商いの常識を大きく変えるものですから、商人たちにとって実に魅力的だったでしょうね。

46、皇太后の滋子が号を受けて建春門院となると、その兄の平時忠は、ますます態度が傲慢になり、平関白と呼ばれ、宮中でも目に余るような振る舞いが多かった。
妻の兄ではあるが、清盛は平時忠を信用していない。これまで何べんも苦い思いをさせられているし、いつまた自分を裏切るかわからない。

自分では何もしなかった、出来なかったのに、イザ政権が手に入ると、勝ち誇ったようにはしゃぎまわるタイプの人がいます。いつでも、どこでも、こういうタイプの人が問題を起こし、「九仞の功を一揆に欠く」という失態を演じます。

鳩山由紀夫さん、あの人がその典型ですね。「天下を取った」と大喜びして、あれもやる、これもやると、大盤振る舞いをしましたが、金もないのに使うことばかりでは干上がります。同盟国からも顰蹙を買い、「学べば学ぶほどわかった」としおらしく反省し、「引退する」と引き下がったのですが、引退どころか…ゾンビの如くに居座り、後輩の総理を虐めて悦に入っています。鳩山さんは、取り巻きにあおられて天才バカボンを演じていますが、平時忠は自作自演します。その分だけ悪質です。

宮中を引っ掻き回します。官僚たちには、最高権力者の立場で接しますから平関白などという仇名をつけられますが、本人がこの仇名が気に入り、仇名どおりの権勢を振るいますから鼻つまみですね。行動は鳩山、菅。考えることは小沢一郎…そう思いながらテレビを見ると平時忠という男が、よく見えてきます。

F78、後白河院が出家を決めたのはこの年の6月だった。以後、後白河院は法皇と呼ばれるようになる。
その戒師に選ばれたのは、比叡山延暦寺ではなく、園城寺の僧たちであった。
これは極めて異例のことで、日頃から仲の悪い比叡山への挑発といってもよかった。

後白河法皇のこの行動は、まさに政局的判断です。法皇、平氏、叡山という三頭体制での主導権を握るべく、平氏と叡山との間に楔を打ち込もうとします。

園城寺…テレビでは殆ど取り上げていませんでしたが、当時の三大仏教勢力の一つです。

比叡山延暦寺は、天皇家の守護として官営寺の格式を持ちます。仏教会では一目置かれる存在ですね。そう、現代で言えば東京大学でしょうか。

次に南都の寺があります。興福寺、東大寺など。これは私学の雄、早稲田、慶応、同志社などといったところでしょうか。藤原家の菩提寺、興福寺を中心に奈良朝以来の伝統を誇り、藤原一門の学問所の位置づけです。

園城寺は…そう、京都大学、大阪大学をはじめとする地方国立大学の位置づけです。

比叡山にはむき出しの対抗意識で臨みます。

このほかにもう一つ、お大師様の高野山がありますが、政治活動には無関心で、ひたすら庶民の近くで活動していますから、政治勢力ではありません。

後白河が出家の戒師にを選んだというのは、明らかに叡山、東京大学へのイヤガラセです。「清盛と手を結んだ叡山は二流である」と挑発しました。「今まで通りにやりたいなら、清盛と手を切れ」という脅迫でもあります。

この狭間に立って、懊悩したのが、平氏の棟梁を引き継いだ重盛でした。

なんとなく…野田総理を重ねて…気の毒です。

46、「叡山の宗徒との間に血を流しては、すなわち南都の寺々にも及ぶことと相成ろう。既に明雲座主よりの使い、これに参ったれば、わしの考えを伝えておいた」

清盛と明雲の間には相互不可侵条約が結ばれていましたが、それはあくまでも密約です。政治的にも、宗教組織でも三つの勢力が互いに多数派工作を展開し、にらみ合いの状況になりました。

そんな中で、叡山の領地で、訴訟沙汰が起きました。これを裁いたのが後白河の側近、成親でしたが、後白河の意向と、成親の私情が絡んで不公平判決になりました。叡山の僧兵が騒ぎ出します。清盛と明雲の密約以来、僧兵のエネルギーが有り余っていたんでしょうね。法皇への不満もあります。些細なことが大事件になりました。

神輿を担いでのデモ行進です。このデモに、警視総監だった時忠は「軍事力で制圧する」と高飛車に出ます。これが、火に油を注ぎ、叡山の僧兵は「やるんなら、やってみろ」と、ますます行動が激化します。

引用した部分は後白河の裁断ですが、要するにデモ隊に全面降伏です。

成親を備後へ、時忠を出雲へ島流しにすることで決着を図ります。叡山にとっては全面勝訴ですから、文句は言いません。叡山に引き上げます。が、この後が…ずるい。

成親にも、時忠にも、配所への出立指図をしません。自宅謹慎のままです。

こういうところが後白河の汚いところで、小細工を弄します。本人は政治的テクニックを駆使したとご満悦ですが、汚いですよね。道義に反します。

この伝統でしょうか。永田町では、いまだにこの種の鵺(ぬえ)のような政治家が暗躍します。小沢一郎、輿石(軽石)、森喜朗…、いわゆる豪腕、黒幕、キングメーカです。

間もなく総裁選ですが………、やっぱり首相公選ですかねぇ。