次郎坊伝11 三河の薫風

文聞亭笑一

義元が亡くなってから、三河、遠江の周辺はにわかに騒がしくなってきました。前号でも述べたように今川家の後継者である氏真が、政務に関しての知識、素養に不足があるのです。突然のことですから同情する余地もありますが、駿河、遠江、三河を統べる太守としては、心構えと言うか、やる気が欠落していたようですね。急に舞い込んだ太守の座ですが、そういう状況になれば「やるっきゃない」と……普通は考えます。努力します。そういう意味ではボンボンだったのでしょう。感情ばかりが先に立ち、具体的な施策、政策に手が付けられません。

義元に対して後世の評価は手厳しく、馬鹿殿扱いする者もありますが、それは多分、間違いだと思います。義元は法整備に熱心で、幾つかの法度類(法体系)を整備していました。雪斎禅師との共同作業でもありましたが、政治、軍事、税制などに限らず、民亊の事細かな部分まで詳細に法を設定してありました。万一のことがあっても、たとえ氏真が凡庸であっても、この法体系さえ守っていれば、成長はなくとも 現状維持は可能になる…と言う深慮であったろうと思われます。

その法体系を丸ごと受け継いだのが家康です。歴史書では「家康は鎌倉の頼朝施政、東鑑を手本として…」と書きますが、それはカモフラージュで、実は今川の法度を受け継いで法体系を作ったのではないでしょうか。三百年前の法体系を復活させるより、実態に即した物が目の前にあるのですから、それを援用した方が実用的です。ただ、「今川からもらった」「真似をした」では征夷大将軍、神君としての権威付けに都合が悪いですね。今川は倒産企業ですから縁起も悪いですよ。

かくして徳川幕府は今川家を「公家ボケした気位ばかり高いアホ集団」というレッテルで抹殺します。抹殺しながらも、今川家の遺産をベースにして自家製、創作品として公表します。事実、徳川家の内務官僚には、今川出身者が多数入りました。小碌の旗本として内務官僚機構に入っています。

三河という所

今回は独立して、成長著しい徳川(松平)の動きを追ってみたいと思います。その目覚ましい躍進ぶりに、直親の心が動き、小野但馬との確執が起きます。それがまた…小野但馬の密告、讒言を引き起こすのですが、今回の脚本の作者は「幼馴染 三人の友情」を物語の主題にしているようですから、歴史事実から離れた筋書きにしています。まぁ、小説ではよくやる技法ですが、小野但馬・政次を悪者にしたくないのでしょう。

ただ、「次郎坊伝」では事実に近い方を優先します。事実は但馬の讒言で、井伊家、小野家ともに先代と全く同じストーリを辿ることになります。・・・小野が讒言、井伊が処刑される・・・このパターンが二代続いてしまいます。なんとも・・・無惨と言うか、やりきれませんね。

三河の話題に戻ります。三河と名が付いたからには、大河が三つあるに違いない・・・と地図を眺めてみました。東には豊川があります。現在の都市名でいうと、新城、蒲郡、豊川、豊橋ですね。この川の流域を中心にし、渥美半島を加えた地域が東三河で、井伊谷と低い山地を挟んで隣接します。人質交換のために家康が落とした鵜殿長照の上之郷城、牧野成定の牛久保城…、いずれも東三河の今川勢力の要でした。

川の話を続けます。二つ目の川は矢作川でしょう。三河では最も大きな川です。信濃や美濃などの山中に源を発し、高山の隙間を縫うように蛇行しながら三河湾に注ぎます。その中流から下流域が西三河です。今や世界のトヨタの本拠地ですね。岡崎、豊田、西尾、安城、刈谷、知立、高浜、碧南、みよし市などが該当します。

そして三つ目の川を探しましたが…多分尾張との国境を流れる境川でしょう。それ以外に大河と呼べるものがありません。焼き物の里・瀬戸の近くから三河湾に流れ、河口は矢作川に隣接します。

徳川家臣団

徳川の家臣団は、血縁の松平一族が中核で、それを岡崎衆の大久保党、本多党が旗本的に支えます。

更に安城を基盤にする石川党が家老の立場で支え、川筋党(多分矢作川下流域)の鳥居党が支えます。

この辺りが初期の勢力で、織田信長との和睦・清州同盟が成立した頃から、境川の酒井、矢作川下流域の水野、渥美半島の戸田、今川から鞍替えした牧野などが加わりますが、それぞれに一郡一城の主で、徳川の家臣と言うよりは協力者といった立場でしたね。

中核は石川党と大久保党でした。江戸期になって大久保彦左衛門が「三河物語」という草創期の徳川家を書いた長編の書物を書きましたが、彼からすれば新参の者たちばかりが四天王などと褒め称えられて脚光を浴びるのに腹を立てたのでしょう。「大久保党、かく戦えり」といった論調で、詳細に草創期の徳川軍団を描いています。大久保党があっての徳川家であるといった筋立てです。この物語をベースにしたのが宮城谷昌光の「風は山河より」です。徳川草創期の内情を知るのには面白い小説です。

この家臣団を第一期とすれば、井伊直政が加わる頃は第二期でしょうね。遠州、さらに駿州の者たちや武田の残党などが加わります。三河軍団が三遠軍団に成長し、さらに中部軍団として成長していきます。

それはずっと先の話ですから、三河一国の内部を固めているのが1562年の今回の場面になります。

岡崎での瀬名

岡崎で家康と瀬名は再会します。九死に一生を得た…という思いでしょうから、家康の活躍や数正の助けに感謝します。今川の姫・・・と云うプライドを脱ぎ去って、三河の地に新しい王国を作る夢も思い描いたでしょう。

しかし、しばらくすると父母の自決の知らせが入ります。自決の理由が、元をただせば家康の謀反にあることを思い、複雑な気持ちになります。

さらに、岡崎城に迎えてもらえません。城下の寺の仮住まいのままです。これにも腹が立ちます。

正妻であり、岡崎城に入って奥の取り仕切りをするのが普通なのに、城に入れないとはいかなることかと、疑心暗鬼になります。一説では家康の母・お大が瀬名を嫌って城に入れなかったと書きますが、それは誤りだと思います。お大は尾張の国、知多半島・阿久利城の久松家の奥方です。家康の異母兄弟も数多くいます。岡崎に戻っているはずがありません。

実はこれは家康の思いやりで、岡崎城の本丸は田舎臭さ丸出しの構造なのです。百姓家の囲炉裏の間と言った感じで、都会人の瀬名が済めるような場所ではないと考え、少しでもみやびさが残る寺の本堂に仮住まいしてもらっていたのでしょう。

都市と地方の文化格差というのは現代でも夫婦生活に影を落とすことがあります。常識が違いますね。高度成長期に地方の若者が大量に都会に流入しました。彼らはあか抜けした都会の娘に憧れます。同様に田舎から出てきた娘たちはスマートな都会の男性に憧れます。現在の後期高齢者とその予備軍、団塊の世代と言われる辺りの人々は、こういう取り合わせで家庭を作るケースが多かったですね。家康と瀬名もそのパターンであっただろうと思います。田舎者の家康が、都会っ子の瀬名に憧れて一緒になった…と言うことです。生活の場が駿府であれば何の問題も起きませんが、家康の実家、三河の田舎に戻りましたからさぁ大変。瀬名がその生活に馴染もうとすればまだしも、三河を今川文化に、都市文化に教育してやろうと考えましたから、家康の家臣たちと軋轢を起します。

「駿河御前」「築山御前」と呼ばれたのもそれが原因です。二言目には「駿河では…」と来て「何と粗野で無作法な」で終わります。毎度これをやられたら堪りません。「郷に入ったら郷に従え」と忠告したいのですが、相手が大将の奥方様ではいうことを聞くしかありません。

築山御前と呼ばれたのは、家康が瀬名の要望を受け入れて、奥御殿に築山のある庭園を造営したからです。造営はしたのですが、田舎の庭師が見たこともない庭園を造るのですから、立派なものができるはずがありません。瀬名が陣頭指揮します。あそこに池を、あそこには築山を…といった塩梅だったでしょう。築山に植える名木や名石を家臣や寺の庭から調達してしまいます。いや、強奪に近かったようで、これまた評判を落としました。「築山御前」と言うのは尊称と言うよりは仇名、怨嗟を含んだ蔑称だったかもしれません。

直親と家康の接近

ドラマでは、今川の忍者・・・と云うか、策略にかかって徳川への接近を知られてしまった、という設定ですが・・・これは脚本家の創作でしょうね。「徳川に付いたらどうか」という話題は井伊家の会議でも話題になっていたと思います。とりわけ祖父の直平など今川嫌いの者たちにはその想いが強いでしょう。直平にとっては娘の佐名を殺されてしまいましたから、その恨みもあります。

関口親永と共に佐名まで自害させてしまったのは今川家の失策でした。佐名が井伊家からの人質でもあるということを理解していなかったか、無視したかです。井伊家にとって人質を殺されるということは宣戦布告でもあります。当然、報復行動を準備します。単独では戦えませんから、後ろ盾に徳川を選ぶのは当然で、何某かのルートを使って家康に近づいたでしょうね。おそらく、瀬名や竹千代を連れて井伊谷と通過していった石川数正のルートでしょう。

南渓和尚が動いたとも考えられますが、岡崎とのつなぎには少々無理があります。東三河は南渓と同じく禅宗の臨済宗、曹洞宗の寺が多いのですが、岡崎の周辺は浄土宗や浄土真宗の強い地域です。寺門を通じてのパイプがありません。いかに僧侶同志と言っても、このような重要課題を相談するのは無理です。

直親自身が伝令を使っての直接やり取りでしょうね。どこかで会っているかもしれませんが、会うとすれば家康が東三河に出陣している時でしょう。野田城の菅沼、長篠城の奥平・・・この辺りを包囲、説得している時かもしれません。家康には東三河で狩りをする余裕はなかったと思いますね。

讒言か 問い詰められての自白か

今川に「直親謀反・松平に内通」と告げたのは、小野但馬・政次です。これはどうやら正しいようで、どの記録にもそう書いてあります。

しかし、井伊家・家伝や、その他の後世に多く残っている記録では讒言・・・即ち積極的に通報したということになっています。父親の小野和泉が直親の父・直満を密告した時と全く同じパターンであったと伝えます。また、それを知った氏真が激怒し、軍を井伊谷に出すよう指示したとも伝えます。その出陣命令を何とか抑え、「召喚して取り調べる」というところまで漕ぎつけたのが新野左馬之助だとも伝えます。

一部の郷土史には「政次は謀反を否定したが、問い詰められて白状した」とあります。今回の作者は、どうやらその記録を採用したようですね。証拠を突き付けられてやむなく…は、ちょっとオーバー。

召集令状が届きます。拒否すれば戦闘は避けられません。戦争して勝つ見込みは全くなく、徳川の援軍は期待できません。こうなれば家と領民を守るために出頭するしかありませんでした。しかも、政次が白状してしまっていては、生還の期待はかなり低いと言わざるを得ません。しかし、行くしかありません。

なんとも・・・辛い話です。