「論語と算盤」逐次解説 第17回
文聞亭笑一
65、女性の社会参加
封建時代は「女に教育はいらぬ」などと侮蔑的なことを言っていたが、婦人の天職は子供の育成である。
善良なる婦人からは善良なる子息が育ち、優れた婦人の教育によって優秀な人材ができるのは、統計的に見ても明らかだ。
賢哲の世に出は婦徳によるともいう。
女子教育を重んずべきはそればかりではない。
女子も社会の一員として人口の半分を占めるのだから、十分な教育を積んでいただき、才能知徳を大いに発揮してもらいたい。
男だけで働いている現在の国力が倍になるではないか。
最近は、またぞろ「ジェンダー」などと言う用語を使って女権運動家が騒ぎ、軽率なマスコミがそのお先棒を担ぎます。
ついでに「男らしく」「女らしく」という言葉まで問題にし、差別だ!と騒ぐに至っては屁理屈の極、キチガイ沙汰とも言えます。
誰しも異存のないはずの事として、スポーツ界の男女差別(区別)があります。
女権運動家とて、この区分を問題にすることはできないでしょう。
男と女は体力に差が出ます。生理学的にも男と女の差は歴然としています。その差は自然界の動植物と変わることはありません。
渋沢栄一の時代は江戸時代から近代への転換期です。昭和20年まで「女に教育はいらぬ」と言う風土は続きます。参政権も与えられませんでした。
「働き手が倍になる、国力が倍になる」栄一らしい発想ですね。
66、教師と生徒
古来、師弟の関係は「情誼を厚くし、相親しむ」のが普通であったが、最近の都会の学校においては師弟間の関係が薄くなったようだ。
どうやら寄席に出てくる落語家か、講釈師と間違えているようで「あの人の講義は下手だ」とか、「面白くない」などと批評している。
こうなってしまったのは、思うに、師匠の方に問題があるのではないか。
徳望、才能、学問、人格において、生徒から尊敬される者でなくてはならぬ。
栄一らしくなく「昔はえがったなぁ」というトーンが出ました(笑)。
寺子屋や、幕末の「塾」では情誼を厚くし、相親しむと言う雰囲気で師弟の信頼関係は親子、兄弟のそれに近いものでした。
明治5年に小学校ができ、中学、大学と学校の数が増えると、先生も大量に必要とされます。
その先生たちすべてに知識、人徳に優れたものを揃えることはできません。玉石混淆は致し方のない所です。
とりわけ反抗期真っただ中で、生意気盛りの旧制中学生が先生の品評会をやるのはいつの時代でも変わりませんね。
しかし、先生への尊敬の念は卒業した後に湧いてくるものです。
我々の高校時代は、全ての先生に仇名をつけていました。仇名のない先生は人気がない、特徴のない方でしたね。
高校時代の教師に「チクソン」という国語教師がいました。この人は地方では著名な俳人で「筑邨」が雅号でした。
毎年の試験問題が同じ設問なので、楽に点数を稼げるはずでしたが、我々の年に出題を全く変えました。
慌てる生徒を見渡しながら板書したのが
「山かけて 谷間に落ちる うさぎかな」 うっしっし・・・と云う、笑い声まで覚えています。
67、理論よりも実践
世間一般の教育のやり方を見るに、近ごろは単に知識を授けることのみに重きを置き過ぎている。
とりわけ中学教育などで徳育を省みない。また、学生も学生で勉学への勇気と努力、自覚に欠けている。
こんな風だから世間に出て「役に立たぬ教育」などと言われるのだ。
知育ばかりでなく、人としての徳義であるとか、規律であるとか、人格であるとかにも配慮しなくてはならないし、更に「自由の気」を貴んでもらいたいものだ。
昭和初年の文章です。現代の受験教育、学習塾真っ盛りの状況を見たら・・・何と云いますかね。
詰め込んで、詰め込んで、受験で吐き出して、合格すればやれやれと忘却の彼方に消え去ります。
残るのは最終学歴の「○○大学△△学部卒」と言うレッテルだけです。
ごく少数の、真面目に学問に邁進してきた学生は・・・自分が求めてきた学問と、現実に配属された部署での仕事とのギャップに悩み、研究室に戻る・・・と云うのも珍しくありません。
渋沢栄一は徳育不足を嘆きますが、教師、とりわけ大学の理系の先生方は世間知らずと言うか、実業の社会の経験もなく、研究一筋の方が多いので、徳育を期待する方が無理でしょう。
現代の学生たちが「徳育モドキ」を受けるのはバイト先、部活動などです。そういうところは、徳育のできる立派な教師のいる場所ではありませんね。
最近の私学では「就活担当」と言う名前で、企業のOBが教育に参加し、徳育に当たる部分を担当しているようですが、なんとなく付け焼刃の感じもします。
もっと教育の中核にまで参加してもらい、教授の補助役を務めてもらったら良いのではないかと思ったりします。
栄一の言う「自由の気」は発想の自由さ、頭の柔らかさのことだと思います。
経済界に需要と供給の原則があるがごとく、実社会で働く人材にもこの原則が応用される。
実社会においては、大別すると少数の「人を使う者」と大勢の「使われる者」に分かれるのだが、学生諸君は皆々「人を使う者」を目指している。
詰め込み主義教育で、高尚な学問をしてきたから・・・と気位は高いが、少ない需要に似合う程の能力のある人材は少ない。
68、人物の需要と供給
経済界に需要と供給の原則があるがごとく、実社会で働く人材にもこの原則が応用される。 実社会においては、大別すると少数の「人を使う者」と大勢の「使われる者」に分かれるのだが、学生諸君は皆々「人を使う者」を目指している。詰め込み主義教育で、高尚な学問をしてきたから・・・と気位は高いが、少ない需要に似合う程の能力のある人材は少ない。
栄一が講演をしているこの時代の流行語に「大学は出たけれど…」があります。大学は卒業したが就職先がないと嘆いている時代です。
この時代の大学と言えば旧帝大と伝統私学しかありませんから、現代に比べたら1/1000程度の人数ですが、それでも就職難でした。
「気位が高すぎるのだ。基礎からやれ、現場での下働きを経験せよ」と言うのが栄一のメッセージでしょうか。
若者たちの通弊として自分の知識を過信してしまうことがあります。「大学は最先端のことを研究している場所である」と言う思い込みですが、実はそうでもなく、企業などの実社会の方が進んでいることも多いのです。
また、自分の研究分野と企業ニーズとのミスマッチもあって、思い通りにならぬのが、世の中です。
5月病・・・と云う言葉もある通り、僅かな期間で進路に悩み、転身する若者は現代も後を断ちません。アドバイザーが欲しい所です。
企業OBの出番なのですが、大学はそれを求めませんね。自分らの立場を守ります。