紫が光る 第10回 右大臣家の陰謀
作 文聞亭笑一
ここまでの物語展開は紫式部、源氏物語の歴史ストーリーというよりは、藤原家傍流・兼家による政権奪取の陰謀物語といった印象ですね。
円融天皇に毒を盛って退位に追い込み、自分の孫を花山天皇の皇太子に立てます。
さらには、自らの利権にメスを入れようとする天皇一派の政治改革を潰すために、天皇を退位させる謀略術数を展開します。
三郎とまひろの恋物語、それの舞台回しとして活躍する散楽の直秀・・・青春物語を交えて物語が展開してきましたが、意外に・・・直秀達の散楽集団が殺されてしまいました。
主役二人の関係に変化が出てくる兆しでしょうか。
そう・・・三郎と源氏の姫君の結婚が近そうです。
寛和の変
主犯・兼家 ・・・実行犯・道兼 ・・・共犯・道隆、道綱
こういう配役で花山天皇を出家させ、譲位させてしまったのが寛和の変です。
この辺りは・・・ネタバレしてしまうより「ドラマ前半の山場」ですからNHKがどう描くのか、お手並み拝見とした方が良さそうですね。
先週の放送では陰陽師の安倍清明が「祟りじゃ~」的な行動、言動をしていましたが、陰陽師や僧侶達が宣伝工作員としてこの陰謀に積極的に関わった可能性もあります。
祟りだとか、呪いだとか・・・心理作戦は宗教がかかわってきます。
そもそも花山天皇と藤原本流が対立したのはなぜか・・・ですが、花山天皇と側近である中納言・藤原義懐は既得権排除に5つの革新的政策を始めました。
1,荘園整理令 闇荘園の認可取り消し、没収など摂関家の利権剥奪
2、貨幣流通の活性化 貨幣価値の保証
3,武装禁止令 盗賊対策
4,物価統制令 投機による価格つり上げの取り締まり
5,地方行政の改革 受領(国主)の汚職取り締まり
どの政策も当然というか、富の偏重にブレーキをかけ、民間活力や地方経済を活性化させようというもので理想的なのですが、摂関家や上級貴族には痛みを伴います。
そこを・・・強引にと言うか「天皇の権威」だけで推進しようとしたところに無理がありました。
そう、十数年前に政権を取った民主党が「改革」と銘打って色々とやろうとしましたが結果的にはすべて失敗し、国力を低下させるだけに終ったのと似ています。
経済の本質、実態から遊離した理論、理屈だけでのごり押しは・・・前に進みません。
道兼を中心とする右大臣家のクーデター? 陰謀劇?
実にお見事でした。具体的にはテレビを見ながら確認してください。
御所から天皇を抜け出させるのにどうしたのか。門の出入管理は厳しく、まして天皇の外出は見とがめられます。
御所から山科の花山寺まで、長い道のりです。
途中で発見され、御所に取り戻されることがあり得ます。
あらゆるリスクを計算し、それへの対策を打ち、クーデターを完璧なまでに成功させます。
右大臣道兼の策謀もたいした物ですが、それを実行しきった道隆、道綱、道兼の息子達、それに皇太子の母である娘の詮子も協力していたようです。
・・・が、道長は?
摂関政治
この時代の政権を「摂関政治」とも呼びます。
摂政と関白が天皇に代わって政権を担当するという意味ですが、摂政が置かれるのは天皇が幼少で元服前のことです。
天皇は政治的には傀儡で、立法、行政、司法の三権は摂政が持つと言う体制ですね。
花山天皇は世を儚んで出家し、花山法王となりました。
先代の円融天皇は退位して、円融上皇として政治を見守っています。
そして、右大臣・兼家の孫である一条天皇が即位しました。
「天皇の御意志である」と、生母である娘の詮子に言わしめて摂政の座につきます。
が・・・このままでは居心地が悪い。
朝廷での位階は
①天皇の元に
②関白-
③左大臣-
④右大臣-
⑤内大臣-
⑥大納言-
・・・と言う序列があります。
兼家は①天皇の代理代行職でありながら④です。
「摂政・右大臣」では宮中ばかりではなく、庶民からも違和感が出ます。
右大臣を辞任して「無官の摂政」になりますが、これも律令の制度に反します。
関白の頼忠を辞任させ自らが関白となりたいのですが、頼忠は関白を辞任した後も太政大臣として政権に睨みを利かせます。
太政大臣というポストは①天皇と②関白の中間・・・そう「1.5」という感じの地位でしょうか。
そこで兼家の取った策は「一座の宣旨」という、ウルトラCの法律でした。
「一座の宣旨」=「摂政はすべての位階より上位に位置する」
こういった強引なやり方で政敵を排除し、一条天皇の回りを一族で固めていきます。
生母である詮子が上皇后となり、御所内の官僚組織を牛耳っていきます。
この世をば 吾が世とぞ思う望月の 欠けたる事のなしと思えば
これはもっと後、道長の時代の栄華絶頂期の歌ですが、兼家も同様な思いだったと思います。
為時の失職
寛和の変(986)、花山天皇の出家はまひろの家には大打撃でした。
父・為時は花山天皇の側近として式部丞(文部省次官)、さらには蔵人(内閣府官僚)と出世していたのですが、天皇の出家で蔵人・内閣府は総入れ替えです。
政権交代ですからね・・・当然です。
ここから10年間・・・道長の時代になるまでまひろの家には陽が当たりません。
為時の失業生活が続きます。
次に日が差してくるのは道長が関白になってからのことです。
為時の漢詩が一条天皇に認められ、越前守として赴任するのは10年後(996)です。
紫式部、まひろがこの間に何をしていたのか、資料が少なくてよくわかりません。
そういうところは小説家、脚本家の出番ですからテレビにお任せしましょう。
この間に、三郎・道長と左大臣家の源倫子が結婚します。
紫式部と言うペンネーム
まひろが紫式部と呼ばれるようになるのはずっと後です。
ずっと後ですが「式部」とあるのは父の為時が「式部丞」であったからです。
式部の娘・・・という感じです。
当初は紫式部ではなく、「藤式部」と呼ばれていました。
藤原の・・・でしょうか。
源氏物語を執筆しはじめて、読者が増えて、主役の光源氏とヒロインの「紫の上」の人気が高まります。
いつしか・・・作者は「藤式部」から「紫式部」へと代わっていきました。
まひろの意思ではなかったようです。