流れるままに(第27回)
文聞亭 笑一(市川 笑一)作
愛児を失ったショックもありますが、秀吉が関白の位を投げ出したのは、自身の健康不安があったように思います。関白太政大臣という最高位に上り詰めるまでの間、秀吉は動きまわり、働きまわり、休む間もなく活動していました。エネルギッシュというより、信長が「はげ鼠」と名付け、周りが「猿」という通り、実にまめに神経を使い、独楽(こま)鼠(ねずみ)のように、体を動かしてきました。
それが…大阪城に入り、家康を屈服させてしまった頃から、運動量が大幅に減りました。
自身が動きまわるというより、部下や、諸侯を使って「やらせる」という行動パターンになって、足腰を使うことがなくなってしまったのです。馬に乗ることすら少なくなり、歩くなどというのも、御殿の中に限られてきます。権威を示す意味で、今までの様に、気楽に歩きまわれなくなってしまいました。
それだけではありません。食事の中身が劇的に変化しています。一汁一菜の粗食で過ごしていた中年期と比べたら、美食ばかりの大名料理に代わります。美食と運動不足…これが重なれば体に変調をきたすのは当然で、糖尿病にしろ、癌にしろ、内臓疾患にしろ、成人病の発生確率は飛躍的に高まっていきます。さらに、鶴松が生まれたことで、秀吉の好きだった香りのきつい食品(ネギ、ニンニクなど)が敬遠されたのではないかと思います。これらの食品は強壮剤などとも言われる通り、体の芯に効きます。
多分、このころから自身の健康に不安を感じて、後継ぎのことを考え始めたのでしょう。
ライバルの家康も食事には随分と気を使い、漢方薬を自分で作っていましたし、老後は、鷹狩りに精を出して、運動を欠かさないようにしていました。鷹狩りというのは、現代のゴルフに良く似ています。山野を歩きまわります。
82、陽気で気の会う夫のいる二度目の結婚生活は、気楽で楽しいものだった。けれど、夫婦としての足場をこれから固めようかという翌三月、結婚生活は遮断を余儀なくされた。秀勝が、朝鮮出兵に駆り出されることになったのだ。
秀吉は関白の地位と、京の聚楽第を秀次に与えて公家としての活動から引退します。
が、政治権限、軍事権は一切渡してはいません。つまり、秀次には関白の尊称を与えただけで、何も譲ってはいないのです。
秀次は、どの能力をとっても秀吉には及びませんでしたが、唯一、文学、芸術などの分野では秀吉に勝ります。歴史や小説では良く書かれませんが、それなりの知識人、文化人ですから、現代なら評論家などとして活躍したタイプかも知れませんね。
そういう秀次が心配、というより信用できないので、秀吉は自身が信頼している前野将右衛門を目付、家老職として秀次につけます。つまり、監査役です。
前野将右衛門は蜂須賀子六とともに秀吉の若いころからの仲間で、元は野武士の頭目です。特に将右衛門は乱破(らっぱ)、つまり隠密などの元締めでした。この人事配置を見ても、秀吉が、秀次を信用していなかったことが分かりますね。
他には木村常陸介、浅野幸長、山内一豊などが配されますが、どちらかといえば不器用で豊臣政権の本流から外れている人たちばかりです。
朝鮮出兵については前回触れましたので、今回は割愛します。が、秀勝が招集されたのは、秀吉の渡海を阻止されたからです。秀吉の代理が必要になったのです。
秀吉はもともと好奇心旺盛な男ですし、現場を駆け回って、現場で判断をしてきた男です。後方陣地で采配を振るタイプではありませんが、家康、前田利家などの主だった大名たちばかりか、三成、官兵衛などからも反対されて、陣頭指揮を断念しています。
ここらにも…戦略の不一致がありますが、内部での調整が全くなされていなかった証拠でしょう。秀吉の思いは神棚に祭られて、三成の策略が前面に出ていたのだと思います。
83、淀は良く笑った。愛児の鶴松を失ってから半年、心の痛手から立ち直ったようにも感じられるが、姉があえて自分を励まし、明るく振舞っているのが見て取れた。
淀・茶々は晩年、宗教に凝り、占いに凝り、他人の意見に耳を貸さなくなりますが、鶴松を失った頃からその傾向が出てきます。無理もありません。8歳で父を失い、16歳で母を失い、妹二人を守って生き延びてきたのです。頼る者もないなかで、唯一、秀吉だけが盲愛してくれて愛児まで授かったのですが、それすらも失いました。宗教の力に頼っても不思議ではありません。
ただ、この頃はまだ「鶴松の冥福を仏様に祈る」という程度で、病的ではありません。
そんな中で、江は子供を身ごもります。
茶々は九州名護屋にある秀吉の下に出発します。頼りにするものがいない中で、一人で、大阪にいるのは寂しかったのでしょう。
名護屋城の建つ呼子の浜は、玄界灘に突き出したリアス式海岸の高台にあります。狭い湾が内陸にまで入り込み、平坦な土地などは殆どありませんし、付近の海岸は断崖絶壁を日本海の荒波が洗っています。景勝地には違いありませんが、人が住む場所としてはあまり良くありません。
淀城、大阪城の暮らしに慣れた茶々にとっては、初めて経験する厳しい環境だったでしょうね。玄界灘と琵琶湖とでは比較になりません。その分だけ秀吉に頼る気持ちが強くなり、第二子の懐妊につながったかもしれません。
84、布団から出ている皺だらけの手を江はとった。肉はまだしっかり厚い。
来る日も来る日も野良仕事に明け暮れ、四人の子供を成長させた手。そしてほかならぬ天下人を育て上げた手だ。
戦嫌いで、朝鮮出兵にも終始反対していた大政所が発病し、臨終を迎えます。
秀吉には、当然急使が走りましたが、間に合うものではありません。船の便がうまくつながっても、7日は掛かります。
大政所「豊臣なか」という人の人生は、ある意味では母親として最高の幸せを手に入れた人です。が、女流作家(永井路子、田淵久美子、諸田玲子)はあまり良く書きません。
終生、農婦であり続けたところが、女性的、美的価値観に合わないのでしょうか(笑)
なかは百姓の家に生まれ、百姓の家に嫁に行き、二人の夫との間に二男二女をもうけます。卑賤な家…と書かれますが、当時の庶民の家からしたら普通の家です。尾張の平原ですから、信濃や奥羽の百姓に比べたら、豊かだった方ではないでしょうか。少なくとも、餓死するような環境ではありません。
そして、働きに出た息子たちはどんどん出世していきます。長浜で城持ち大名になって、大名の母になり、姫路では国主の母になり、大阪ではついに天下人の母になりました。
なかが、どこに行っても畑仕事を続けている間にです。そして、天寿を全うします。
好きなことをしていたら、いつか天下人の母になっていた。こんな幸せがあるでしょうか。
85、赤子は臨月を待たずに生まれた。よく笑い、泣く、元気な女の子だった。名は完子(さだこ)。約束したとおり、北政所が名付けてくれた名前だった。
江の最初の子、完子が生まれます。淀に鶴松が生まれた時と同様に、口さがない京雀はその親を疑います。というのも、秀勝との結婚生活が短期間であったことと、早産だったことが憶測の元です。約8カ月…これが疑いの要因です。しかし、十月十日は月経周期を基準にしていますから、かなりの個人差があります。江はそのサイクルが短かったようで、妊娠期間を310日も必要としなかったのではないかと思われます。その後も次々に子供を産みますが、みな、標準より早かったようですね。
京雀も、疑いは口にしますが、鶴松の時に懲りていますから、目立ってからかうことはしません。乱暴者と噂のあった秀勝だけに、秀吉よりも警戒しましたね。
完子、その後、江の再再婚で親から引き離され、茶々の子として育てられます。つまり、後に生まれる秀頼の姉としてです。利発で器量も良く、人柄も良い娘だったようで、完子を悪く言う記録は全く残っていません。のちに、九条関白家に嫁入りし、平穏な一生を送ることになりました。母系の妹、千姫に比べたら、どれだけ幸せな一生だったか…。人の幸不幸は、棺桶に入るときにしか分かりません。
ついでに、秀勝の兄弟ですが、三人とも気の毒な一生でした。
兄の秀次は、大阪官僚族にいびられ、嵌められた結果、自暴自棄に陥っての罪死です。
秀勝自身は、朝鮮で喧嘩の仲裁をしていた時の怪我に、破傷風菌が入っての事故死です。
弟の秀保は、吉野に視察に行ったときに、谷底に転落しての事故死です。いずれも「?」マークの付く死に方ばかりですねぇ。誰が、何のために、……推理小説の分野です。