流れるままに(第29回)

文聞亭 笑一(市川 笑一)作

リストラクチャリング…こんな言葉は、当時全くありません。が、豊臣家の経営の基本構造を変える、大方針転換がなされました。一人の子供の誕生が大きく歴史を変えたのです。

秀吉は豊臣家を創業し、拡大していく中で、常に後継者への不安を抱えていました。自らに子供がいないこともさりながら、豊臣家を支える譜代の臣下もないのです。

多くの大名家は、歴史と伝統に培われた家臣団を抱えています。「忠義」という概念はまだ確立していませんが、運命共同体としての家臣団が中核にあって、大名家を支え、その周辺に新規採用者を配するというのが、一般的な戦国大名の家臣団です。

徳川家で言えば、松平党という血縁集団の周りに、大久保党、石川党、鳥居党、酒井党などの古参氏族が取り巻き、その周りに本多、榊原、井伊、菅沼、奥平などという三河出身の面々が控えるという構造で、鉄の団結を誇っています。

それに引き換え、豊臣には血縁者すらいません。弟の秀長にも子がありませんから、血縁としては姉の子である秀次、秀勝、秀保の3兄弟だけです。これでは足りるはずがありませんので、母の血縁をたどって、加藤清正(又従兄弟)、福島正則(遠縁)を親戚扱いします。妻・寧々の縁戚である浅野長政、木下家定などの一族まで肉親の扱いをしますし、 片桐且元などにも豊臣の姓を与えて身内化してきました。<この指とまれ>の流れです。

それが一転して、排除の論理に変わります。邪魔者は消せ、まさしく家臣団の構造改革、リストラです。

90、拾の誕生後、豊臣家の変化には、ある養子縁組も含まれていた。北政所の甥であり、秀吉の養子として長く育てられてきた秀秋が、小早川家の当主・隆景の養子となったのである。

小早川秀秋、寧々の兄の子で、豊臣一族では期待の星でした。姉の子3兄弟が、イマイチ、パッとしない中にあって、秀吉、寧々にとっては期待の星でした。特に寧々にしてみれば、赤ん坊の頃から手元で育てていましたから、実の子、掌中の珠だったでしょう。

それを、惜しげもなく養子に出します。これは寧々と黒田官兵衛の画策ですね。秀吉が拾を溺愛する様を見て、秀秋の危機を察知したのです。<このまま養子であったら消されるにちがいない>と真っ先に気付いたのは、寧々だったのでしょう。

官兵衛は、親交のあった毛利家への養子縁組を画策します。安国寺慧慶、小早川隆景を通じて毛利本家への養子縁組を申し入れますが、これは難航します。結局は、小早川隆景が自分の養子として受けざるをえなくなりました。

かくして誕生したのが小早川秀秋ですが、関が原で重大な局面に立たされる役回りを引き受けるとは…、全く予想していなかったことでしょう。ただ、この話を仲介したのが寧々と、黒田官兵衛であったことは、彼の運命を決定付けていました。

91、その年の夏になり、伏見城が完成すると、淀は妹たちに話したことを実行に移す。
浅井長政二十一回忌の菩提のため、一寺を建立したいと秀吉に申し出たのである。
秀吉はこれを快諾し、土地を用意することまで約束した。

(養源院・京都三十三間堂隣)

この頃から茶々の発言力が増してきます。乳母・大蔵卿局の息子である大野治長が茶々の用人として側に控え、行動半径も広がってきます。三姉妹の兄の浅井喜八郎も、石田三成の手蔓で政権の中に参画し始め、浅井党とも言われる近江出身の面々が、政権の中枢を担いだしました。内政面では石田、増田、長束ががっちりと財布の紐を握り、外交は小西行長、宗教政策は前田玄以と石田三成の息の掛かった者たちばかりが秀吉の周りを固めます。浅井内閣とも言えます。

豊臣家筆頭家老とも言うべき浅井長政は甲斐の国主として地方に追われ、五奉行筆頭の立場は形だけ、名誉だけに過ぎません。加藤清正は熊本、福島正則は尾張と、従来の豊臣家の身内は政権から外れて、朝鮮半島で苦闘しています。浅野長政に代わって片桐且元が家老職に任じられていますが、彼にしても近江浅井家出身という立場と、清正、正則の七本槍仲間との板ばさみになり、動きを封じられています。この頃から且元の長い、長い心の葛藤が15年間に渡って続きます。それを主題にしたのが平行して書いている「篤実一路」です。暇があったら読んでみてください。

いずれにせよ、政権が成熟期から衰退期を迎える頃になると、政権内の葛藤が起き、概して理論理屈に勝るものが政権を執るようになります。成長期には陰に隠れていた間接部門(本社部門)が力を持ち、現場無視の理想論を振りかざします。この物語の中でも、マニフェスト、大地震…、現代に良く似た状況が、間もなく襲い掛かってきます。

92、嵐はある日、前触れもなく聚楽第に襲い掛かった。
7月3日、三成をはじめとする奉行たちが秀次の屋敷を訪れ、秀吉に対する謀反の疑いありと糾弾したのである。

秀吉の意を受けて…ということになっていますが、その実、石田派の画策によって秀次追い落とし作戦が開始されました。リストラの幕開けです。これは用意周到でしたねぇ。

この仕掛けは秀次の追い落としだけではありません。金銭の貸借関係を証拠に、石田派の反対勢力の追い落としまで含めています。怪文書を捏造して、反乱計画まで仕組んでいました。狙われた大名は、東北の伊達、最上を始め、細川、浅野まで入ります。とりわけ、小早川を標的にしていた節もあります。目の上のタンコブである小早川隆景を排除したい、更には秀秋も始末してしまいたいという意図がミエミエでした。近年でも特捜部によるでっち上げ事件というものがありましたが、それ以上に悪辣でしたね。

秀次の罪状とされたものを、一つ一つ検証していけば、その殆どはデッチアゲかヤラセです。禁猟区での鷹狩り、妊婦の腹裂きなどは、具体的な証拠もありません。

今回のドラマでもそうですが、秀次を低脳で、暴虐な男と描きますが、事実に反しています。秀次の領地は近江八幡を中心とした滋賀県なのですが、ここでの秀次の評価は非常に高いのです。名君とすら言われていました。

秀次の後に領主になったのが石田三成、更にその後を引き継いだのが井伊直政、彼らにしてみれば前任者が名君であっては、やりにくくて仕方がありません。勢い、前任者を悪く書き残します。悪事だけを記録に残し、良かったことは葬り去ります。ですから、現存する史料だけを金科玉条の如く、大切にする歴史学というのは眉唾でもあります。

93、京で初めて会ってから5年、あれきりになるはずであったが、そのぶん印象は、くっきりした輪郭で残っていた。
気が強く、口うるさく、すぐ噛み付く女、信長公の姪御、あの女子が、おれの妻になる?  …先のことは、先になって考えよう。秀忠は、生暖かいあくびをかみ殺した。

江に、三度目の結婚話が飛び込んできます。今度の相手は家康の後継者、秀忠でした。

江にしてみれば、7歳も年下の17歳の相手です。現代人からすれば「え、高校生と!?」という感じですが、当時の17歳は立派な大人です。7歳の年齢差も、現代人が思うほど開きはなく、そういう面でのプレッシャはなかったでしょうね。

秀忠にしてみても、取り立てて違和感はなかったはずです。NHKでは結婚以前に出会って喧嘩をした仲ということになっていますが、実際は口をきいたこともなかったでしょう。

「綺麗なお姉さん」くらいな、憧れに似た感覚だったと思います。そうでなければ、いくら恐妻家といえども、将軍にもなって妻以外と浮気するのを怖がるなどということはありえません。

憧れて、惚れて、首っ丈で、周りに目が向かなかったのでしょう。

この結婚を一番喜んだのは家康です。

家康は松平、徳川と言う血統に、大きな劣等感を持っていました。特に、大阪に出入りするようになって、北に境を接する佐竹義宣から徹底的にいびられていました。家康は、自分の始祖を上州得川村の徳阿弥とし、新田源氏の流れだと主張していました。が、新田源氏の正当な流れが常陸の佐竹なのです。「そんな者は新田の家系には見つからぬが…いつの時代に分かれたのでござるか」などと大勢の前で質問されたり、「我が家の傍流でござるか」などと皮肉られたりで、面白くなかったのです。

が、ここで江を迎えると、織田信長の末裔につながる孫が出来ます。江は豊臣家の養女でもあります。信長、秀吉と続く流れを、正当に受け取る大義名分が出来ます。

信長が搗き、秀吉丸めた天下餅、押し頂いて食らうは家康…という流れができます。

関が原後の後日談ですが、家康は佐竹に対して仕返しのイビリ、イヤガラセをしています。常陸50万石を没収して出羽・秋田に国替えにし、封を与えませんでした。

いずれにせよ、今年のNHKは、家康の美点凝視をしすぎています。(笑)