流れるままに(第28回)
文聞亭 笑一(市川 笑一)作
朝鮮への侵略戦争の失敗原因をたどれば、その最大のものは語学力の不足にありました。
そもそも、開戦のきっかけが相互の文化の差を無視したことから始まっています。秀吉がそれを無視したというよりは、間に立った小西行長、宗義智、神屋宗堪などが情報を捻じ曲げた結果とみるべきでしょう。いずれも沿岸航路での中国貿易で利権に絡む連中です。
彼らは、朝鮮王朝が明国の属国であり、外交主権を持っていないことを重々承知しています。承知していながら、秀吉には主権国として紹介しているのですから、嘘ですよね。
嘘を、公用語では「外交機密」というのだそうですが、交渉の主権者である秀吉にまで使うのですから、話がこじれて当然です。しかも、その嘘は、秀吉政権の官房長官である三成まで巻き込んでいますから複雑怪奇、魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)の世界です。
不思議なのは、曲がったことの大嫌いな三成が、なぜこの大嘘話に乗ったかです。
一つには秀吉の後継者が秀次になってしまったことにあります。政権が交代すれば、三成の握っている権力は、秀次の側近である前野、木村などに奪われます。
二つ目は、秀吉政権内の派閥争いで、三成の率いる奉行派と、清正を中心とする軍人派の政権内主導権争いですね。いずれにせよ政権内、与党内の勢力争いが、対外戦争という重大問題よりも、優先度が高まってしまったのです。
国際情勢よりも、選挙公約が大事になってしまった鳩将軍の沖縄問題、震災対策よりも自身の延命工作が大事になってしまった菅将軍、この時の三成に似て世界観、戦略眼が欠落しています。政治目的がずれています。
秀勝の死も、多くの将兵の死も、そして朝鮮人民の苦難も、戦略なき戦争の犠牲でした。
86、心の傷が癒えるには、時を待つしかない。けれど、時を早めるものがある。人の心――痛みをともに分け合おうとしてくれる、いたわりと思いやりに満ち溢れた心だ。
NHKのドラマでは秀勝の戦死を、随分と大仰に扱っていますが、この当時の常識としては江の受けた傷が大きすぎます。武士の家に生まれ、育った女で、父も母も戦争で失った江ですから、もっと早く切り替えができたと思います。
今回の震災で、マスコミはしきりに「東北人の強さと秩序正しさを世界が称賛している」と伝えますが、一番びっくりしているのはマスコミ記者本人や、日本の都会人ではないでしょうか。平和に慣れ、仮想現実を常態だと信じていた連中ほど、自分の常識と違う現実に驚くのです。現代の日本人は7割の都会人と、3割の田舎人で構成されていますが、江の時代の日本人は1割の都会人と9割の田舎人です。心の傷の深さ、回復の遅さがあるとすれば、都会人ほどその傾向が強かったでしょうね。
温室育ち…確かに、テレビの江にはその傾向がありますが、現代の若い女の子がこの時代に紛れ込んだら、こうなるのは分かります。
87、男とはわけのわからない生き物だ。江は改めて思った。そういえば絵師にも茶の湯の匠にも、全くといっていいほど女の姿はない。二人の言う、役に立たないことに命を賭けられるのが、男という生き物なのだろうか。
長谷川等伯という当代一流の絵師と、利休死後の茶頭、古田織部との会話を聞いていて、江が感じた男と女に関する部分を抜き出してみました。
「命がけで事に当たる」というのは何も男の専売特許ではありません。女でも妊娠、出産、育児というのは命がけでしょう。役に立つか立たないか、それは結果であって、やっている時は「役に立つ」と信じているからやるのです。少しでも疑念が湧いたら…命がけにはなりません。我々の仕事とて同じことです。
長谷川等伯は桃山時代を代表する絵師の一人です。この時代には狩野永徳を筆頭にして海北友松、雲谷等顔などの絵師が輩出していますが、下は、長谷川等伯の代表作のひとつでもある「松林図」という屏風画の一部です。
狩野派とは明らかに違う墨絵の手法が多用されていますね。派手な彩色が好きな秀吉の趣味で、常に狩野派の後塵を拝していました。
しかし、利休などのわび、さびと通じるところがあり、古田織部などとは親交がありました。「命がけ」絵師の世界でも、新築される建築物の入札では、それこそ死に物狂いの商戦を展開します。この時は鶴松を供養する寺の新築工事の内装ですから、半端な金額ではありません。謀略渦巻く世界です。この商談で等伯は負けてしまいました。等伯以上と言われた息子も、狩野派に謀殺されてしまいました。
傷心…という意味では、江と同じ心境でしたね。
男という生き物について、作家の池波正太郎は、以下のように言います。
「男というものは、それぞれの身分と暮らしに応じ、ものを食べ、眠り、かぐわしくも柔らかき女体を抱き…こういうことが滞りなく享受出来ればそれでよい」
まぁ、一部真理ですが、それだけではみっともないので、理屈をこねます(笑)。
88、そして8月、淀は無事に第二子を出産した。産声を上げたのは、このたびも男児であった。秀吉は子の名前を「拾」とするように命じてきた。
運命の子、秀頼の誕生です。生まれたときから関白という立場を期待され、そうなるべく路線を敷かれた赤ん坊です。人権、自由、という概念からすれば、不幸な生まれです。
同様に、後に江が産む家光も、生まれたときから将軍でした。
何も知らない赤ん坊が、回りの期待と思惑の中で弄(もてあそ)ばれるのですから、気の毒です。
鶴松のときもそうでしたが、秀頼にも出生の疑惑が付きまといます。成長した秀頼が秀吉に似ていなかったのです。「誰の子か?」推理小説的材料にされます。ましてや、後の徳川政権は、太閤人気を打ち消すために、間男説を吹聴しました。
が、秀頼は浅井家の血を多く受け継いだということでしょう。よく言われる通り、男の子は母親に似ます。女の子は父親に似ます。しかも、隔世遺伝などとも言われますから、秀頼は浅井長政に良く似ていたのでしょう。後に立派な体格になるのも、美男子になるのも、長政の孫と見れば全く不思議ではありません。ただでさえ生殖能力の弱い、秀吉の遺伝子が子供に強く影響するはずがありませんよね。
89、ここで戦地へ渡ったのが石田三成である。惨状を見て取った三成は和議に持ち込むしかないと判断。この提言を秀吉は嫌々ながら受け入れ、明の使節に講和の条件を示す。しかしいまだ回答が得られぬまま、自然停戦の形になっていた。
当初こそ快進撃を続けた遠征軍ですが、明軍が出動するに及んで、苦戦になります。
さらに、制海権を朝鮮海軍に奪われて、兵站の補給がままなりません。日本の遠征軍というのは、いつの時代も同じことをします。太平洋戦争でも全く同じ事をしました。
「喧嘩や交渉ごとを始めるときには、落し所を準備しておく」というのは当たり前で、それすらなしに始めたら無制限一本勝負しかありません。そういう喧嘩を始める奴は馬鹿で、相手にされません。いくら耄碌(もうろく)しても、秀吉がそのような子供の喧嘩をしたとは思えませんから、情報網のどこかが狂っていたのです。命令も、報連相も、捻じ曲がっていたのでしょう。その…捻じ曲げている張本人・三成が現地へ監査に行くのですから…事態はますますおかしくなります。原発事故に安全保安院が調査に行くようなものです。
「拙い!」三成は無条件撤退しかないと判断しますが、それでは企画した自分や小西行長などの仲間の責任が問われます。罪を誰かに擦り付けなくてはなりません。報告は…
「失敗したのは、清正をはじめとする軍人たちが命令を聞かなかったからである」となります。これを伝え聞いた遠征軍の武将は激怒します。ならばと、働いた証拠として、敵の耳をそぎ落とし、成果として報告を始めます。すると官僚は、「耳は二つある」と、話半分にしか評価しません。「ならば鼻だ」…殺戮はエスカレートします。
韓国から京都への観光客が、必ず立ち寄るのが東山の、豊国神社の前にある耳塚ですが、日韓の不幸な歴史を残す遺跡として悲しいですねぇ。韓国の人たちは実行犯として清正を憎みますが、真犯人は三成を筆頭にする嘘つき官僚団でした。
更に、この講和交渉では小西行長の父、如安が明に渡り、「日本は明の属国になる」という条約に調印しています。ムチャクチャです。
やはり、秀吉自ら現地に乗り込むか、三成派以外の監査団を派遣すべきでした。