海人の夢 第42回 鹿が谷(ししがたに)

文聞亭笑一

気の早い話ですが、再来年の大河ドラマが「黒田官兵衛」に決まったと報道がありました。来年は明治維新の会津ですから、大河が取り上げるテーマは源平、戦国、維新と順繰りに廻ります。人々が躍動した時代なんでしょうね。更にいえば、人々が自由に解放されて、無秩序な時代だったということでしょう。

混乱と安定は時計の振り子ですが、人間の欲望が無軌道にほとばしる時代でもあります。現代はまさにその時代に似ています。自由を謳歌しています。が、そこに流れる基本倫理まで外れてしまうと、戦争の時代が待っています。欧米にはキリスト教の道徳律が根強く存在して秩序を保っていますが、日本にはそれに相当する宗教的道徳律がありません。

私のような「八百万(やおよろず)教」の信者が大半で、マスコミがその宣教師の役をしています。

ところが、この宣教師がかなりいい加減で、スタンスがふらつきます。宣教師として、社説でお説教したかと思えば、野次馬よろしくミーハーと騒ぎ立てます。女性中心とした、このマスコミ教信者が世の中の中心ですから、政治も経済も安定しません。目下のところは「平和」「安全」と「健康」がお題目で、すべての価値観の元になっています。健康、健康と騒ぎ立てながら、世界一の長寿国で、年金のために国家が破綻しそうだというのも妙な話ですが……、宗教ですからね。こういう矛盾は問題にされません。

さて、「清盛」です。建春門院が亡くなって、駄々っ子・後白河法皇のブレーキが外れてしまいました。陰謀、策略のやりたい放題になってきます。

64、平家一門が高位高官についたら、それを機会に宮中から古い考えを持った公卿たちを一掃し、法皇が安心して院政を布(し)けるように力を尽くそう、と清盛は心の中で誓った。
はたして正月24日、宮中において除目が行われた。それまで左大将であった重盛は、左近衛大将に、右大将であった宗盛は、右近衛大将に引き上げられた。

後白河が最も得意とした策略は「位討ち」です。標的を高位高官に就けて、あら捜しをし、僅かな失態を暴いては葬り去るという手法です。近臣にはYes−manばかりをそろえ、やりたい放題に浪費するというのが後白河の理想だったようです。つまり、典型的な暴君のスタイルですね。そのために障害になる藤原摂関家の勢力を、平家を使って追い出します。その後は…用済みになった平家を追い落とす、という筋書きです。

清盛にとっては、いわば読み筋どおりの展開ですが、あえてそれに乗ります。自分の孫が天皇になれば、武力によって天皇親政を布いてしまうという奥の手があるからです。

重盛、宗盛の兄弟が左右の近衛大将に任じられたということは、法皇の側近である藤原成親にとっては衝撃でした。彼は既に法皇から「次の左近衛大将」の内示を受けていたのです。成親が左、妹婿の重盛が右であれば、兄貴風を吹かせて国政を自由に扱うことが出来ます。成親はその日に備えて、気の合う仲間たちと幻の「成親政権」の組閣までしていたのでしょう。「清盛にしてやられた」と、平家憎し、の情に駆られます。

このころから、園城寺・三井寺の俊寛との密議が始まります。場所は東山鹿が谷、俊寛の山荘が舞台です。密議といっても、集まっては平家の悪口を言うガス抜き会のようなもので、我々が赤提灯で上司の悪口を言い合うのに似たようなものです。禿童に聞かれないようにと、目立った動きはしません。俊寛の法話を聞きに行く…というお忍びです。

平家物語に出てくる場面は、この会に後白河法皇も参加して、「瓶子(平氏)が転んだ」「瓶子(平氏)の首をとれ」などと悪ふざけをした場面ですね。この時点では、まだ、平家を倒そうなどという計画はありません。悪ふざけの延長です。

65、萌え出るも 枯るるも同じ野辺の草 いずれか秋にあわで果つべき(祇王)
祇王は清盛と仏御前の前で、今様を舞った
「仏も昔は凡夫なり、我らもついには仏なり、
いずれも仏性具せる身を、隔つる身こそ悲しけれ」

「ちやほやされたのも私なら、捨てられたのも私、

どうせ老いて死んでいくのだから、恨み言など言っても仕方がないわよね」

「お釈迦様とて、悟りを開くまでは私と同じ、ただの人。

どうせ死んだら仏になるのだから、栄枯を分け隔てするなんて馬鹿馬鹿しいわねぇ」

などと、勝手な解釈をします。

英雄色を好む…といいます。英雄でなくても好みますが、金と権力が手に入ると常軌を逸してくるのが、困ったところです。蝸牛庵先生が「大奥」シリーズで紹介していた通り、江戸時代の大奥でも、英雄でもなんでもない只のどら息子、11代将軍家斉が30人を越える子供を生ませています。

清盛もご他聞にもれず、派手な女遊びをします。岩清水八幡宮で見初めた白拍子の祇王を手始めに、その妹の祇女、そして仏御前と次々につまみ食いをします。正妻の時子は、ヤキモチを焼くどころか「元気な証拠、男の甲斐性」と、歓迎するくらいですからブレーキは全く利きません。清盛に捨てられた祇王、祇女、その後を追って出家した仏御前・・・悲劇の女として語り継がれ、嵯峨野の祇王寺は、現代女性の人気観光スポットになっています。嵯峨野を訪れるなら、これからの時期がいいですねぇ。紅葉の庭はなんとも言われずに美しい。できれば、ここに掲載した歌の草草を口ずさんでみれば、より、風情が出るのではないでしょうか。

66、東山、鹿(しし)の谷(たに)といふ所は、後は三井寺に続いて、由々しき城郭にてぞありける。
それに俊寛僧都の山荘あり。かれに常は寄り合ひ寄り合ひ、平家亡ぼすべき謀(はかりごと)をぞめぐらしける。(平家物語原文)

東山鹿が谷は、銀閣寺から法然院、青蓮院へと続く哲学の道の山手一帯を差します。

私はこの辺りが大好きで、よく散策に行きました。一人で、物思いながら歩くには、実に心静まる場所なのですが、すれ違う人たちは殆どが二人連れです。そうすると、だんだんに心が乱れてきて、寂しさに耐えられなくなってきますね(笑)「半日ほど…」と思って出かけたのに、自然に足が速まって、早々に家に帰ります。こんな繰り返しでした。

物語の当時、この辺りは山と森しかありません。寂しい場所です。

前掲のガス抜き会が、徐々に具体性を帯びてきました。「平氏がいなくなればいいなぁ」というWhat to beが成長して「どうやって倒すか」というHow to議論になってきたのです。こうなれば、回数も増えますし、集まる関係者も増えます。目立ちますから、平氏の監視の目が届きだします。最初にこの動きに気付いたのは5男の重衡(しげひら)でした。兄の重盛に相談します。が、「成親卿に限って・・・」と、一蹴されてしまいます。これが、結局は、謀議を加速させ、平氏を武力討伐する計画にしてしまいました。事を荒立てず、やんわり忠告してやめさせよう、という重盛の親切心が仇になったのです。

67、福原の清盛の下に摂津の豪族、多田蔵人(くらんど)行綱が訪ねてきた。
「実は昨日、洛外の鹿が谷において、平家に対する謀叛(むほん)が企てられました」

多田行綱は摂津源氏の一族です。正五位の下、伯耆守に任じられていますから、生き残った源氏の中では三位伊豆守源頼政に次ぐ勢力です。成親一派は、この武力を使って平家を倒そうと考えたのでしょうが、実力的に見て横綱と幕下ほどに差があります。奇襲作戦を取ったとしても、とても勝負になりません。

この陰謀に巻き込まれた多田行綱は、謀議の翌日、直ちに福原の清盛のもとに密告に駆けつけます。謀議に加わったもの全員の名前、計画のあらましを、洗いざらい告げ、証人としての役割も買って出ます。

こういう人を謀議の実行部隊に選んだということは、机上の空論まで行かない戦争ゴッコ・レベルの計画だったんでしょうね。かつて、三島由紀夫が市谷の陸上自衛隊に立てこもってクーデター騒ぎを起こしたことがありますが、あれと似たレベルだったようです。茶番劇、寸劇のレベルです。

ではなぜ、これが教科書に載るような歴史上の事件なのか。

一つは、平家物語が出来た時代が鎌倉幕府、北条執権時代だからです。平家の悪逆非道を宣伝し、源氏の正しさを際立たせるために、最初の反乱事件として取り上げたのでしょう。ここから源氏の勢力が息を吹き返し始めます。

二つ目は、この事件を境に、平家の棟梁である重盛がうつ病状態に陥ります。妻の兄である成親を救おうと精一杯努力しますが、ことごとく清盛に拒否され、自信を失ってしまったのでしょう。結局、その後、宗盛が棟梁を継ぎますが、文武、リーダシップとも兄に比べて凡庸でした。平家の亀裂、衰退が始まります。