明けましておめでとうございます。元日早々からの配信になってしまいました。

NHK大河が5日から始まりますのでそれに間に合わせます。

元日早々からNHKも新聞も予告編をやっていますね。なんとなくスピード感がある物語展開のようでストーリーに沿った話を提供できるかどうか??

まぁ、展開を見ながらボチボチ進めてみます。                       作者

水の如く 01 方々生きられよ!

文聞亭笑一

たまたま、第一回の配信日が元日にぶつかりました。5日が最初の放映ですから、元日の今日、配信しないと間に合いません。新年の初仕事?初荷です。

このシリーズは、基本的には司馬遼太郎の「播磨灘物語」からの抜書きで進めます。

何度目の読み直しになるでしょうか。読んだ傍から忘れます(笑)

テレビ大河ドラマの物語は小田原攻めの場面から始まります。秀吉の天下取りの事業が8割がた終わりに近づき、秀吉に楯突くのは関東の北条と、奥羽の雄・伊達政宗だけになりました。関東に兵を進めた秀吉の威を恐れ、伊達政宗は降参します。従って抵抗するのは北条だけ、四面楚歌の中での戦いです。しかし、その北条も関東に散在した拠点を次々に落とされ、最後の砦となった小田原城に籠城しています。小田原城は武田信玄も、上杉謙信も落とせなかった名城ですが、20万人を超える大軍勢に囲まれ、しかも、向かい側の石垣山・山頂には城内を見渡せる位置に一夜城が築かれ、なすすべがありません。

全員玉砕か、それとも降伏か、二者択一を迫られます。

その切羽詰まった城内へ、秀吉の軍使として黒田官兵衛が乗り込んでいきます。

城門の前で官兵衛が叫んだのが「方々、生きられよ」という言葉でした。

1、播州平野は、上代、秦氏と言われる渡来人がひらいた野で、奈良朝以後の日本史の感覚では得体のしれぬものが残っている。
広峰宮の祭神もそうである。牛頭(ごず)天王(てんおう)と言われる。
日本の神名ではスサノウの尊となっているが、要するに韓(から)神(かみ)であろう。

広峰神社が出てきます。この社は黒田家とは切っても切れぬほど恩のある神社で、浪々の黒田一族が今日あるのは広峰神社のおかげでした。備前から姫路に流れてきて、この神社のお札とセットになって、黒田家家伝の目薬が売れ出したのです。この目薬による富が、父・兵庫之助を土地の城主・小寺家の家老にし、姫路城の城代にしたのです。

御師(おし)…という職業が出てきます。この人たちは神主ではありません。神主の下で布教活動を行う人たちで、いわば広峰社の出張セールスのような役割を担っていました。ですから西日本各地にお札を配りながら遊説に歩きます。こういう人たちの本拠地が姫路の近くにあったというのが、官兵衛にとっては実に貴重なことで、広域情報網を手の内に抱えるような意味合いがありました。

引用部に出てくる秦(はた)一族は、日本に集団移住してきた民族の中では最後発になります。すでに奈良朝の政権が確立していましたから、政権内に割り込む余地はありません。ただ、卓越した稲作技術、農業土木に優れていましたから、過疎の地では大歓迎を受けました。全国に散り、いたるところに田園を開拓しました。秦、波田、羽田などの地名の残る場所や、稲荷社は秦一族が持ち込んだものだといわれています。

2、母親はいちいち古歌に例をひいてその景色を教えた。
このため万吉は10歳前後には諸国の地理や、地理的位置関係を覚えてしまった。
ただ、万吉は10歳を過ぎても、ひ弱で臆病な子であったらしい。ひ弱さは生涯のものになり、臆病ということも、成人してのち屈折して複雑なものになるが、しかし性格の根底に横たわるものとして生涯ぬけなかった。

母は小寺氏の一族出身です。父・兵庫之助職隆はその兵学、学識を御着城主の小寺藤兵衛に高く評価され、小寺兵庫之助を名乗るほどに重用されていました。嫁も藤兵衛の口利きで世話してもらっています。この嫁、つまり万吉の母は歌の才能がありました。

万吉に教えた古歌とは、万葉集ではなかったかと思います。万葉集には全国の歌が集められていますから「信夫紅葉ずり」や「千曲の川のさざれ石」「田子の浦・富士」など、各地の風物が読み込まれています。防人の歌などには九州の地名も多いですね。当時、地図と言うものは狭い範囲のものしかありませんでしたが、万吉の頭の中には「日本全図」が出来上がっていたのかもしれません。これが後々の政略観に繋がりますね。

ただ、文学青年と言うか、学者肌に育ち、子供らしい腕白感には欠けます。腕力、武術にはそれほど自信が持てなかった武将として成長しますから、用心深さは人一倍だったでしょう。司馬遼はそれを「生涯臆病」と表現します。

3、「黒田殿が良き者を集めておられる」
という評判は、官兵衛の幼いころからこの辺りに広がっている

これが、黒田家の一つの伝統でしょう。自分の力を頼む…というより、自分にない能力の者を集めて、集団で事に当たるという態度を貫きます。官兵衛がついに一度も刃物を手にして戦ったことがなかったというのも、祖父以来の伝統のようです。

さらに、父・兵庫之助は「万吉の家臣は、万吉が選び育てよ」と言う態度で接します。

黒田節のモデルとなった母里太兵衛、黒田家の名家老と言われた栗山善助など、幼少のころから官兵衛自身が育てた仲間です。

人は、自分を一個の人間として評価してくれるところに集まります。黒田の家が集めるというよりも、黒田の家に集まるのです。祖父、父、ともに教養溢れ、温和な人格ですから、その評判を聞いて集まってきます。広峰山の御師たちも多種多様な能力者を紹介してくれます。人が人を呼び込み、評判がますます人を集めます。「人の集まる家は栄える」と言う通り、家臣にしろ、出入りの業者にしろ、人が集まれば情報が集まります。居ながらにして世間の動きがわかる…新聞もテレビもない時代、しかも戦国の激動の時代に情報ほど大事なものはありません。舵取りを誤れば大勢力に踏みつぶされてしまいます。

この当時の播磨の国ですが、室町以来の名門であった守護大名の赤松家は衰退し、内陸に一郡を保つ程度になっています。浦上氏の下剋上によるものでしたが、その浦上氏も長くは続かず、そのまた家臣だった者たちが、実力で周辺を抑え、独立した勢力圏を形成していました。その中での最大手は三木の別所氏で、後の単位でいえば20万石程度の規模です。次が小寺兵庫之助・官兵衛親子が仕えた小寺家で10万石程度だったと思われます。

すでに西隣では毛利が10か国を併呑して200万石近い規模に膨れ上がっています。

東国では武田、上杉、北条などが周辺を次々に勢力圏にして大勢力になりつつありますし、東海でも織田、徳川の新興勢力が勃興し100万石単位の力を付けてきています。

つまり、時代は中小企業乱立から、大企業の時代へと移りつつありました。戦争の仕方も槍と刀の一騎打ちから、鉄砲を駆使した集団戦へと移りつつあったのです。

4、彼が20歳のころにすでにのちの官兵衛のかたちができていたが、それよりもおかしいのは、歳を経るごとに若気のようなものができてきて、晩年になると青年のように颯爽としはじめ、しかも最後まで自分の成功に甘んじたことがなく、天下人を志す心は捨てなかった。

NHKは初回放送なので、周辺の情勢を含めて手広く時代背景の説明をやるようですね。

とりわけ、後々の官兵衛の相棒となる秀吉や、主君となる信長の動きを並行して説明しています。信長と秀吉との出会いをはじめ、桶狭間の戦を描きます。桶狭間の戦は…時代が急激に動いていくきっかけになる戦いです。この一戦に勝利した信長が急速に力を付けて、中央への進出を図ります。その動きが、全国の戦国大名を刺激して、戦乱をより一層大規模にします。

現代でも企業合併が進み、群雄割拠から大企業中心に様変わりしています。世界が広がれば、日本国内だけでは生き残りができなくなりました。中小企業の経営ができにくくなって、次々と廃業に追い込まれますが、これも世の流れでしょうか。

農業も同じですね。中小の兼業農家が片手間に生産していては、消費者の希望する商品は提供できないでしょう。大規模化への流れと、差別化による独自性の開発はどの産業でも生き残るために必要なことです。戦後の農地解放で一気に進めた小規模化が、ここにきて振り子が反対側に振れだしました。

戦国時代は「生きる」「生き残る」ということが痛切に感じられた時代だと思います。

現代も、デフレ不況の真っただ中ではそうでした。若者の就職難などはその典型です。

そこに追い打ちをかけたのが大震災で、原発で、生きるということが改めて日本人全体に問いかけられました。私は、生きる鉄則は修身、斎家、治国、平天下の順だと思っています。先ずは自分が生き延びる法を根気よく続けることでしょう。健康寿命を延ばすために、自分でできることをひたすらやることです。次は家内安全。身内に悩み事が起きないよう、見守り支援するのが爺婆の勤めです。そしてご近所との笑顔でのお付き合い、ここまでできれば平和です。歳寄りは分を守って、欲をかかないことでしょうね。