水の如く 07 人間力学

文聞亭笑一

戦国物語は登場人物の多い物語になります。この物語の中心人物である官兵衛と秀吉、竹中半兵衛との出会いを描こうとすれば、話があちこちに飛びます。従って、日本地理と登場する歴史上の人物についての知識がないと、話についていくのが難しいですよね。

今回の大河ドラマの視聴率が出足不調なのは、そんなところに原因がありそうです。

今回も冒頭では秀吉とその妻・寧々が大名に成る話。そして黒田官兵衛の家臣としては母里太兵衛以上に名高い、後藤又兵衛が登場します。従って、姫路と彦根界隈を舞台が回ります。全国規模の話と、黒田家の家庭事情が交差します。

信長の中央での動き、それとは随分と落差の大きい播磨の情勢……。これが同時進行しますから面喰ってしまう人が多いのではないでしょうか。

それにもう一つ、旧国名や地名がたくさん登場します。これが、頭の中の地図帳に、距離感をもって描けるかどうか…です。この当時の距離感は馬の足と人の足の速さですから、新幹線が当たり前の現代人には時間感覚がわからなくなりますね。今回は信長が武田勝頼を破った長篠の戦の頃のお話です。天正3年(1575)頃の話で、関が原の25年前です。官兵衛は30歳でした。官兵衛が播磨から中央に進出する第一歩です。

25、信長は天正元年(1573)に将軍義昭を追放し、幕政を廃絶せしめた。続いて、近江の浅井氏を滅ぼし、また長年手こずった伊勢長島の一向一揆を全滅させたものの、翌2年には四方の諸勢力に包囲され、とりわけ大阪の本願寺に手を焼いていた。そういう状況の中で、武田勝頼の軍が三河長篠城を囲み、信長、家康連合軍と決戦の時を迎える。(略)
御着の小寺氏も、この勝敗の速報を得るべく東海方面に人を出していた。
5月21日、織田徳川の連合軍は、設楽が原での決戦に、得意の火力を前面に出し、決定的な勝利を収めた。織田方勝利の風聞は四方に走った。

前号で触れたように、信長は将軍義昭を人質にして上洛を果たしました。一方の義昭も信長を利用して将軍復帰を果たしました。ここで終わればWin Win めでたし、めでたしですが、そうはいかぬのが人間の欲ですねぇ。どちらも相手を道具としか考えていませんから、破綻するのも早いということです。信長にとって義昭は飾り物・傀儡です。義昭にとって信長は家来の一人です。上手くいくはずがありません。

将軍義昭という人は、今ならツイッターの常連者か、メール大好き人間のような人で、明けても暮れても全国の有力者に手紙を書きます。小寺藤兵衛にまで書くくらいですからいったい何人に出したのか?「御教書」なる物を乱発しています。内容は「信長はわしの言うことを聞かぬ。早く上洛して信長を討て」と、そればかりです。信長が怒って追い出すのは当然ですねぇ。

しかし、当時の情勢としては、信長一人に日本中が包囲網をかけていた環境でしたからあながち世間知らずとは言えません。細川藤孝、和田惟正なども加担していたはずです。

この均衡を破ったのが長篠の戦でした。鉄砲の大量投入でした。日本最強と言われた武田騎馬隊が鉄砲の連射の前に敗れて、再起不能の大敗北を喫してしまいました。武田勝頼の大失策は、第一波、二波の攻撃での失敗を顧みず、拙攻を続けたことですね。

「過ちて改めず、それを過ちと言う」という教訓の実証実験でした。

26、例えば播州最大の勢力は三木の別所氏だが、別所氏が、今後最も有力な大勢力と結んだ場合、その大勢力と連合して小寺氏を討ち、他の小勢力を討ち、瞬く間に播州を平定してその旗頭になるであろう。もし小寺氏の選択が良くて、いち早くその勢力と結合すれば、逆に別所氏その他を滅ぼして播州の旗頭になることができる。

播州と言うのは現在の兵庫県の一部です。この辺りを勘違いされる人が多いですね。

明石、三木から東側は摂津の国です。そして、中国山脈の日本海側は但馬の国です。

現在の兵庫県の主だった都市のほとんどは隣国・摂津ですから国全体がまとまっても、それほど大きな勢力にはなりません。その中で、西から赤松、小寺、別所、明石が瀬戸内海側に並立して、互いの領土を奪い合います。圧倒的力を持つ勢力がありませんから、播磨が一つになって外敵と対抗することは難しく、「誰に着くか」で勢力地図が変わります。

西から、北から毛利が勢力を広げてきています。東は信長の尖兵・荒木村重が虎視眈々と播磨を狙います。言葉は悪いですが「草刈り場」ですね。何もしないでいたら大勢力に踏みつぶされます。ですから、旗色を鮮明にして「織田か」「毛利か」選択せざるを得ません。

小寺藤兵衛(政職)と言う人は変わった発想をする人で、海を越えた四国、阿波の三好氏と連合しようかなどとも迷います。優柔不断だったようで、方針が定まりません。そうですねぇ、私は鳩山という現代の総理だった人が「中国か、アメリカか」と迷走していた姿を重ねて、戦国播磨の状況を理解しようとしています。

27、「毛利氏こそ……」と、御着城の重臣たちの多くがそう思ったのは、毛利氏の富強、前将軍が頼ってきたという威武の重さ、それと情義の厚さという充実した印象があったからに相違ない。

当時の播磨の人たちにとって、直接の脅威は西にありました。目の前の海を毛利・小早川船団が悠々と行き来します。大阪に立て籠もる本願寺勢力を支援するために、軍勢を乗せ、兵糧を運んでいます。あの毛利船団が舳(へさき)を変えて襲い掛かってきたら…という危機感を持ちます。なにせ相手は長門、周防、石見、出雲、伯耆、安芸、備後、備中、美作までを平定した大国です。兵員の数もさることながら、海の道、補給路を制圧していますからその軍事力は当時の日本では最大の勢力でした。更に、石見には金山があります。

戦国大名で、強力と言われた軍団には「金山」という共通項がありましたね。陸奥金山の伊達、佐渡金山の上杉、甲州金山の武田などがそれです。戦争と言うものは金食い虫で膨大な出費を伴います。金のなる木…金山を持つ勢力が、戦国収拾の原動力になりました。

しかし、信長勢力圏の近畿東海には金のなる木がありません。にもかかわらず天下統一に近づいた錬金術は商業でした。ルイス・フロイスなどのこの当時来日していた宣教師が瞠目したのは、金貨もないのに砂金が袋詰めのまま流通していたことです。マルコ・ポーロの言う黄金の国を目の当たりにして、日本征服の夢を広げたことだったと思います。

毛利に靡くもう一つの理由は居心地の良さでしょう。初代の元就は専制君主として強引なこともしましたが、この当時は「三本の矢」毛利・吉川・小早川の合議制です。毛利に睨まれても吉川に泣きつき、小早川に相談すれば何とかなるだろう、という安心感だったと思います。

それに比べて……信長独裁の織田は怖いですねぇ。睨まれたら首が飛んでしまいます。叡山の焼き討ちのように、問答無用と皆殺しにされかねません。更には、長島一向一揆でも皆殺しをしました。「仏敵信長」という印象は、日本全国津々浦々にまで鳴り響いていました。この評判は大阪で信長と対抗している石山本願寺が放送局代わりに宣伝して歩きます。そういう御着城の雰囲気にあって、官兵衛は「織田に着くべし」と説得します。実に論理的ですから、反論できませんが、「信長怖い」という心情は説得とは別次元の話です。

28、「織田家は良い家風だ」と村重が言うのは、家柄を問わぬ能力主義と言う点である。官兵衛が魅力を感じているのもそこであった。天下の人材に対してこれほど開放的な家がどこにあるであろうか。
もっとも人間関係は力学に似ている。力学を無視した急速な出世と言うのは、やがて歪を生み、壊れることが多い。

信長に会うために、官兵衛は岐阜に向かいます。その途中、隣国の摂津を通らなくてはなりません。ここは、荒木村重が将軍義昭の代官であった和田惟正を討って強奪した国です。伊丹に居城を構え、尼崎に城を持ち、茨木の中川瀬兵衛、高槻の高山右近を従えています。村重も、将軍に威を借り、信長の威を借りて瞬く間に出世した一人ですね。

ここで司馬遼が言う力学とは「作用・反作用の法則」のことでしょうか。

村重もそうですし、光秀も反作用を起しました。秀吉も…晩節を汚します。

人間の脳は論理・理性の左脳と、感情の右脳でできていますからそのバランスが大切なんでしょうね。知に走れば角が立ち、情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ、兎角この世は住みにくい。反作用を吸収しつつ、繰り返し、繰り返し改革を進めるのが王道でしょうが、そうはいかないのが人間社会です。

大阪の徹ちゃんが信長みたいな強引さで「都構想実行」をやろうとしています。少数意見横行・民主主義の日本では多数決も通りにくいですしねぇ。心情は理解できます。