水の如く 12 人質騒動

文聞亭笑一

秀吉と官兵衛の関係を「水魚の交わり」と讃える史書が多いのですが、この時期の二人の関係はまさにその言葉の通りでしたね。織田家の中で、秀吉が頭角を現そうとすれば、中国攻めをスムーズに始めることが不可欠です。そのためには道案内として黒田官兵衛の存在は、まさに成功への鍵です。

そういう思惑を含め、官兵衛に精一杯の心情を吐露します。本心か、営業トークか、それは秀吉自身しかわかりませんが、以下、原文を引用してみます。

天正5年7月23日付で「小官どの」から始まる秀吉の有名な手紙がある。

なおなお、その方と我らの間柄の儀は、他所人と蔑(さげす)みもあるまじく、よそよりの非太刀(ひたち)あるまじく、人、もはや見及び候と存じ候。我ら憎み申す者は、その方まで憎み申すことあるべく候。その心得候て、用心あるべく候。再々、御ねんごろには申されず候間、ついでをもて、ねんごろに申し入れ候。

その方の儀は我ら弟の小一郎め同然に心安く存じ候間、何事を皆々申すとも、その方、直談を以て、諸事、御さばきあるべく候。

世上からは、ご両人の御馳走のように申しなし候まま、ぜひ、御心がけ候て、御馳走あるべく候。

「小官」とは小寺官兵衛を略した呼び方で、親しみを込めてこのような呼びかけをします。

前半はわかりにくいと思いますが、要するに

「他人が何と言おうと俺たちは一心同体だ。俺のことを憎む奴は、お前も憎むだろうからくれぐれも用心してくれ。俺はお前のことを弟の小一郎同然と考えているから、世間の噂や評判などに惑わされず、お互いに直談判で物事を進めていこうではないか」

と、言っています。電話もメールもない時代に、安土と姫路の間で情報のやり取りをするのは大変です。善意、悪意の間接情報が飛び交って、織田家内部の情報といえども信用ならぬ…とも読めますね。

今、国会では機密情報の扱いについて与野党が喧々諤々(けんけんがくがく)と意見を戦わせていますが、「全ての情報をOpenに」などという主張は国家間、企業間でも絵空事だと思いますよ。東芝の機密情報が韓国企業に流れた事件にしても、情報の扱いに関して、日本人の倫理観が危機的状況にある表れではないでしょうか。機密、秘密はあって当然です。尤も、機密が多くなるとマスコミは商売あがったりでしょうね。だから反対します。

45、官兵衛は、播州へ兵を入れてくれとばかりせっついているのだが、織田家としては播州の諸豪族の随順を確実に見極めてからでないとうかつに出兵できない。それには人質である。人質は勢力の大きなものと同盟を結ぶ場合、勢力の卑小な側が差し出す。

Give and Takeはいつの世でも常識です。同盟、臣従、いずれの場合でもその裏付け、担保が必要になります。この時代、最も重要な担保物件は人の命でした。現代でも、高額の借金をする場合には生命保険に入らされて、その受取人を債権者に指定させられます。

命を担保にするという点では人質と変わりありません。

さて、小寺家の場合ですが、人質として最も値打ちのあるのは藤兵衛・政職の一粒種である斎・氏(うじ)職(もと)です。ところが…この氏職、TVドラマでは病弱と描いていますが、司馬遼は軽い精神障害、発達障害ではなかったかと推理しています。14歳で、すでに元服していますが、人質として安土に送るのにふさわしくなかった可能性があります。

人質と言っても、牢屋に監禁されるわけではありません。信長の小姓として、他の人質たちと一緒に織田家の内閣官房を務める役回りです。なまじ能力が劣れば、小寺家の評価を落とすことにもなりかねません。ましてや相手は人に厳しい信長です。はたして信長の苛烈なまでの厳しいメガネに耐えられるかどうか…。そちらの方が心配だったと思います。

官兵衛の一粒種・松寿丸のほうが、その意味では適任だ、と判断したのは正解だったと思います。人質というのは、一種の寄宿舎型学校ですからね。

46、藤兵衛は、なおも、織田家を一途に頼むという気がなく、毛利家へも色気を残している。両方を天秤にかけているというより、物事に煮え切らないのが藤兵衛の性質であり、もしいま人質を安土へ送るとなれば、一方に決しなければならない。藤兵衛は理性として運命を賭けることを危ぶむのでなく、ただの感情であった。感情として不安なのである。

ドラマの中では小寺政職役の片岡鶴太郎がなかなか良い味を出しています。鼻の頭を赤く塗ったのは御愛嬌ですが、Mr.優柔不断…を上手く演じます。

藤兵衛・政職だけでなく、小寺家の幕閣も毛利贔屓が多かったのは事実で、官兵衛一人でよくぞ持ちこたえたものだと感心しますが、官兵衛が織田方で動けたのも、藤兵衛の優柔不断さのお陰であったといえます。現代の民主主義のように多数決の世界なら、間違いなく小寺家は毛利方に寝返っていましたね。

藤兵衛は戦国大名家の経営者としては失格ですが、平和な時代なら無難に過ごしていたでしょうね。生まれてくる時代が悪かったといえます。ともかく、事なかれ主義で安全第一を基本に据えています。ただの感情であった。感情として不安なのである。とはいっても、不安なのは誰でも感じることです。織田か毛利か、どちらに決めてもリスクがありますが、二者択一の状況に追い込まれたらどちらかに決めなくてはなりません。

こういう上司を持ったら、部下は大変ですよね。独断専行するよりほかないでしょう。

47、官兵衛は、松寿丸を連れて安土城へ上った。信長は折よくこの居城にいた。
信長はひどく喜び
「一人っ子か。一人っ子を預けるとは、官兵衛の心の証(あかし)を表すものだ」と言い、この子を羽柴秀吉に預からせた。松寿丸は以後、近江長浜城に起居することになる。

信長が官兵衛を見る目は以前から好意的でしたが、この人質の件でますます信頼度が高まります。安土において、自らの小姓にするのでなく、秀吉に預けたというのが信用の表れでしたし、そのことが、のちのち松寿丸・黒田長政の命を救うことになります。

松寿丸は秀吉の長浜学校で、加藤清正、福島正則、石田三成などと一緒に育ちます。

賤ヶ岳の7本槍と言われた連中と仲間になり、自由奔放に成長していきます。母親からは離れましたが、秀吉の妻・寧々、天下の賢妻と言われた人が寮母代わりですから、恵まれた環境といえますね。

48、秀吉は信長という気難しい大将に仕えるのに、様々心を砕いていた。
彼は常に功名を独占することを憚った。功名を独占すれば、我一人偉くなったという印象を信長に与え、信長の心に自然疑惑を生じさせることになるであろう。他の者の名前を挙げてその実力や功を讃えておけば、いかにも謙虚に見え、信長から増上慢とみられずに済む。秀吉は、できすぎるという印象を与えることをそれほど怖れていた。なおかつ、出来ないという印象を与えることも、信長には拙いのである。

信長・・・こんな難しい上司はいませんね。こんな人が上司だったら、私などは三日も持たなかったかもしれません(笑)まぁ、部分的に似たところのある人はいましたが、これだけ我が侭で、疑い深い人も稀でしょう。一種の精神異常という風もありますよね。

そういう上司の下で、耐え凌いできた秀吉という人物は実に凄いと思いますよ。人(ひと)誑し(たらし)の名人などともいわれますが、秀吉が一番、誑し込んだ相手は信長ではなかったでしょうか。信長を誑し込んだら、他の人を誑し込むのは朝飯前というか、赤子の手を捻る様なものだったでしょう。天下一のセールスマンであり、詐欺師でもありますね。

能力は見せなければならない。かといって出る杭になってもいけない、雉も啼かずば撃たれまい、などといいますが、啼いてもいけない。なんともはや、困ったもんです(笑)

現代ではマスコミ記者が信長的ですね。警察以上に執拗に人のあら捜しをして断罪し、再起不能になるまで叩きます。たちの悪い週刊誌などに狙われたら一巻の終わりで、何を書かれるかわかったものではありません。

余談になりますが、理化学研究所の小保方さんが気の毒ですねぇ。悪気があったわけではないと思うのですが、論文や、検証実験の不備で叩かれています。「世紀の大発見」と持ち上げておいて、今度は「偽論文」と叩きますから、これでは再起不能になりかねません。信長型の革命児を歴史上でどう評価するか、難しい問題ですが…。ヒトラーもどちらかといえば信長型ですし、スターリンも信長型です。こういうタイプの人たちは、あまり歓迎できませんねぇ。

北の若い将軍様は、果たしてどのタイプなのでしょうか。