水の如く 09 三者三様

文聞亭笑一

信長と言う人は「啼かぬなら殺してしまえホトトギス」と伝えられるとおり、冷血酷薄な人と思われがちですが、必ずしもそうとばかりは言い切れません。彼は、彼なりに外交、調略、戦闘の三つの手段を使い分けています。ただ、信長の要求に絶対服従を要求しますから最後は戦争になり、大殺戮と言う結末になります。

例外として三河の徳川家康が生き残りますが、家康に対しても妻と嫡男を抹殺せよという過酷な要求を出し、それに従ったからこそ、家康が生き延びたのです。

このやり方は、古代から中世にかけて日本を除き世界共通で専制君主たちが行ってきたことです。だからこそ皆殺しを怖れて古代中国から人々が各地に移住していきました。

その一部が危険を冒して海上に逃げ、東方の島にたどり着き、原住民と混血して出来上がったのが我々日本人でもあります。その意味で信長は先祖がえりをしたというのか、野蛮な世界に戻ってしまった特異な人ですね。

北朝鮮に似たような親子がいます。「殺してしまえホトトギス」と、恐怖政治をやっています。先祖がえりですかねぇ。国連もついに見かねて「人権侵害報告」を出しましたが、遅きに失した感がぬぐえません。

そういう国を、安保理事会の拒否権まで使って擁護する隣国も危ない国ですよね。華僑的仮面の下に鎧がのぞきます。南沙諸島、尖閣諸島…彼らの支配欲はどこまで広がるかわかりません。水際で、しっかり食い止めないと、次の狙いは八重山諸島、沖縄へとエスカレートしてくるでしょうね。ともかく、中国にとって太平洋への出口をふさぐ日本列島すべてが目障りなのです。このことは地図を左に90°回してみればすぐわかります。中国の海洋進出は日本とフィリピンによって頭を押さえつけられているのです。

脱線しました。官兵衛の時代に戻ります。

33、別所、小寺、赤松という播州における三つの勢力が、長い戦乱の中で争闘を繰り返してきた。それが、中央における織田勢力の急成長という状況変化に刺激され、急に仲良く京へ上ることになったのである。
行列の人数も互いに申し合せて50人ということにした。
待ち合わせる場所は明石である。

古代から中世にかけて、文明は川筋を中心に広がります。川が国境になることはほとんどなく、国境は交通に不便な山で分かれます。

播州の三つの勢力の根拠地も大きな川を中心にしています。加古川を擁する別所氏。

揖保川を擁する赤松氏、そして市川を擁する小寺氏。川は命の水であり、稲作の基盤であり、そして水運の道です。大河を擁する勢力ほど強い経済圏を形成し、富を蓄え、大きな人口を抱えることができます。濃尾三川(木曽川、長良川、揖斐川)、日本でも有数の大河を3つも抱えた信長が強力な経済力と武力を持ったのは、ある種当然です。

「信長に就く」という旗を共通項にして上洛する三者ですが、それぞれに思惑が絡みます。別所は「播州一の勢力」という力を盾に盟主役をしたがります。赤松は鎌倉以来の名門という歴史を楯に盟首顔をします。そして小寺も「信長に話を付けたのは我が家である」と別所と赤松を引き連れていく…という気分です。俺が、俺がの三人組ですから、司馬遼が言うように仲良く京へ上るなどという行列ではありません。けん制し合い、先になり、後になり、互いに火花を散らしながらの上京です。さらには、三者とも毛利の目を意識しています。信長に就くと決めはしたものの、気持ちは6:4ほど信長に寄ったというだけですからね。毛利へのパイプは大切にしておかなければなりません。

事実、別所家の家老・別所賀相は上洛と同時に毛利家に言い訳の使者を立てています。あちらも、こちらも顔を立てておく、弱小勢力の生き残りの方策です。良い悪いとか、卑怯とか、そういう問題ではありません。現代の商社が、ライバル同士のメーカのどちらにも良い顔をするのと同じことです。つかず離れず…ですよ。

34、播州三木城主別所長治は、いかにも涼やかな若者である。
彼が少年のころに相続したこの別所家は、後の数え方でいえば20万石ほどの領地を持っている。その居城の三木城は釜を伏せたような丘の上にあり、要害で知られていた。兵は強く、府庫は富み、その威勢は播州を圧していた。

三木城は北から流れ下る加古川と、東の丹波篠山方面から流れ下る美嚢川の合流点近くに立地しています。釜を伏せたような丘の東と北を川が流れ、西には加古川が流れ下ります。山と川を利用した要害に違いありませんね。中世の城と言うのは、たいがいこのような地形を利用して作られています。浅井の小谷城、信長が居城にした岐阜城など、この種の城塞は枚挙にいとまがないほどです。

別所家と毛利家はこの時点で実に良く似た政権構造をしていました。幼君を二人の叔父が支えるという構図です。毛利は良く知られているように吉川、小早川の二人が互いに役割分担をしながら当主・輝元を支えました。有名な三本の矢の訓えの通り、一糸乱れぬ上層部を形成していたからこそ元就の残した版図を守り、さらに拡張中でもありました。家族の絆が実に強かったのです。

ところが別所の方は、叔父の賀相と重棟兄弟の仲が悪く、互いに主導権争いをしています。賀相は毛利派、重棟は織田派と意見が割れます。今回は官兵衛の説得で長治が上洛を決めましたが、事あるごとに対立を繰り返していました。今回の上洛も重棟は随行しますが賀相は城に残って、毛利とのよしみを続けます。そんな中で、長治は時に応じて自分の決心をします。決断力、判断力とも毛利輝元よりは優秀だったのですが、それが、後々の判断において、かえって災いしたかもしれません。

さらに、彼の妻は丹波の波多野氏からきていました。波多野が反信長に就き、明智光秀の軍と対決に及んで明確に毛利方を表明することになります。

35、彼ら播州の三人お大名は、10月20日に信長に拝謁した。
信長の祐筆の太田牛一が書いた日記風の「信長公記」には、京洛におけるこの前後の毎日の賑わいに多くの筆を割いているわりには、このくだりは、ひどくそっけない。
「播州の赤松、小寺、別所、其の外、国衆参洛候(そうろう)て、御礼有之(これあり)」
と、書かれているだけである。

まぁ、こんなもんでしょうね。信長にとって当面の敵は北陸の上杉であり、さらには、長篠で一度叩いたとはいえ武田勝頼の領国は健在です。そして足元の石山本願寺は頑強な抵抗を続けていますし、その南には雑賀一族を中心とする紀州の一揆衆が控えます。領土的野心の薄い毛利勢と言うのは、信長からすれば優先順位が一番低いのです。

更に悪いことに、播州勢の対面の前日に奥州の伊達家からの使者が名馬二頭を贈ってきていました。馬や鷹、茶器などは信長の大好物です。それにひきかえ…播州の大名たちの献納品はかなり見劣りしたようです。信長は「なんだ、この程度の財力か」と、失望したかもしれません。伊達には舶来の虎や豹の革を返礼していますが、播州の三人には御礼有之(これあり)程度だったでしょう。ともかく三人がけん制し合いますから…信長も退屈した対面だったでしょうね。これが…後々別所、赤松の離反を招く伏線になります。

36、姫路城の官兵衛が英賀(あが)城を欲しがるように、英賀城の方でも姫路城を欲しがった。英賀城と姫路城を合わせてはじめて一つの強力な経済圏ができるのである。

英賀は港町です。いまでは姫路市の一部ですが、ここには古くから海人たちが住み着き、漁業と流通を生業にして栄えてきました。瀬戸内の港町ですから、源平のころから村上水軍に属し、そして現在は毛利家の海上勢力下にあります。この当時の瀬戸内海の制海権は完全に毛利水軍の支配ですから、英賀城の者たちは毛利親衛隊と言っても良いですね。

一方、姫路の黒田官兵衛は播州第一の親信長派です。この二つの勢力が狭い姫路の中で同居していますから、いずれは衝突します。とりわけ、本願寺への食料輸送が盛んになると、英賀勢は姫路界隈の米が欲しくなります。

官兵衛にとっても英賀への水運、流通経済力は垂涎の的です。にらみ合いから実力行使へ…一触即発ですが、最初に仕掛けてきたのは毛利でした。

地図を見ると、姫路も、御着も、英賀も…現在の姫路市内にかたまっています。「随分と狭い所でごちゃごちゃやっていたんだなぁ」とあきれるほどです。それだけ、町の規模が小さかったんですね。

我々現代人は世界遺産の姫路城をイメージして都会、大城下町を想像してしまいますが、官兵衛の姫路城は、丘の上の大農家の屋敷程度だったのでしょう。