水の如く 08 信長と秀吉

文聞亭笑一

いよいよ官兵衛が中央政界にデビューするときがやってきました。荒木村重の口利きで信長に対面します。このことで活躍の範囲が大きく広がります。播磨という小さな世界で生きてきた男が、自らの能力を開花させる機会を得ました。

こういうことはいつの時代でもあることで、現に読者の皆さん方も成長と共に活躍する範囲が広がっていったわけで、出身地にずっと縛り付けられていたという方が例外でしょう。農業をするにしても、今や世界の情勢を勘案して判断しなければ、方向を誤ります。先祖伝来の土地や、稲作、伝統技術にしがみついていたら時代に取り残されますよね。

戦国時代に、そういう大技術革新を起したのが信長という革命児でした。信長がどこでこのような革命的思想を身に着けていったのか…歴史の謎の一つですが、こればかりは当人に聞いてみるしかありません。京都に進出した後にヨーロッパ人などとの接触はありますが、清州時代に西欧知識を仕入れるとしたら、堺の商人を経由したルートくらいでしょうか。信長自身の発案とするには独創的に過ぎます。

信長は少年時代から青春期に掛けて傾(かぶ)奇者(きもの)と言われていました。傾(かぶ)くとは常識破りの奇抜なことをする者という意味ですが、新しいもの好きの、実験・実証主義者であったことは確かです。ともかく好奇心の塊のような人だったでしょうね。ですから既成概念、既得権益などと言うものは、すべて破壊していく破壊者の側面を持ちます。

官兵衛にとっては、こういう常識外れの信長との付き合いが始まります。その緩衝材になったのが秀吉ですね。秀吉は破壊者・信長の後始末をしていく役回りでしたね。信長の発想の良い所取りをしながら、時を待ったのでしょう。時を待つという点では家康も同じでしたが、二人の政策は全く違いました。秀吉は信長の重商政策を受け継ぎ、家康は伝統的農本主義に戻ります。経済政策は水と油ほどに違います。

29、天下に武を布く、ということもさることながら、それ以上に天下に商いの道を布くということを、信長は大政策として打ち出していた。信長は一国を攻略すると、直ちに中世経済の約束事を打ち壊した。座という専売制を廃止し、商業の自由という意味の楽市楽座制を布いた。更には関所を撤廃し、通行の自由を与えた。

別の言葉でいえば重商主義、商業における既得権益の打破ということですが…、こんな言い方の方がかえって難しくなりますね。楽市楽座とは、つまり、規制緩和ではなく、規制撤廃です。法概念を全く変えて、商品と金の流れを自由化してしまったのです。関所の廃止もTPPなどと騒ぐレベルをはるかに超えています。要するに…なんでもあり、勝手連のフリーマーケットですよ(笑)

これがあるから、旧勢力はこぞって信長を敵視し、信長包囲網を形成します。下剋上などという生易しいものではなく、社会インフラを根こそぎ変えてしまうような革命です。

専売権を持っていたのは、そのほとんどが寺社でした。宗教勢力がアンチ信長で結束したのは「利権保護」に他なりません。とりわけ京都の寺社は総本山、大社などが多く、その分だけ利権も大きかったわけですから、抵抗勢力になります。比叡山などもその一つですから、信長に対抗し、結果としては焼き討ち、皆殺しという過酷な制裁を受けました。

既得権 対 改革者 この対決が戦国末期の勢力構図です。

30、信長は自己しか信じなかった。少しでも自己の能力に近い者があれば、大いに優遇した。というより、その人物に相応しい地位を惜しげもなく与えはするのだが、ただ台所のすりこ木のように酷使した。織田家の諸将ほど多忙なものはない。

戦国時代の武士は、そのほとんどが兼業農家でした。自分自身の田畑を持ち、農業に従事しながら、いざ戦となれば武器を担ぎ、馬に乗って出陣するという形です。長曾我部の一領具足などが有名ですが、全国いたるところでこのスタイルが普通だったのです。

郷士などという呼称は後世のものですが、いわゆる地主ですよね。何石、何十石、何百石などというのはその土地から採れる米の高ですが、こういう単位が使われるようになったのは江戸期からで、戦国時代は何貫文という単位で実力を評価していました。貫文というのは永楽通宝などの銭の重さです。銅銭が普及していたんですね。

司馬遼は信長の人物評価の基準は自分の能力だったと書きますが、そうとばかりは言えないと思います。信長がすべての面で優れていたわけではないので、信長が過去に会ったことのある最高水準の人を基準にしていたのではないかとも思われます。

そう言う点で官兵衛は「播磨」という、信長にとって未知の世界での最高水準の人と認められたのでしょう。「圧切」という名刀をもらったというのがそれで、信長の意にかなう人物だったということです。

さらに、官兵衛の応対の中に商人的経済センスも見出したのでしょう。

31、秀吉は城について新しい見解を持っていた。城下町を形成して、商業の中心ならしめる方が大事だという思想なのである。商業を盛んならしめて国富を作り上げることが、そのまま防衛力につながると思っており、このためには水陸の交通の要衝に城を設けねばならない。

若い時の秀吉はアイディアマンです。彼の得意とするところは情報収集力で、多彩な人たちとの人脈を作り上げていく名人だったと思います。耳学問…などとバカにした評価もありますが、他人の話の中から有用な部分だけを聞き取り、それを組み合わせて全く新規な物を組み立てるというのは特異な能力だと思います。

学者は基礎技術を探求し、その原理原則を究明しますが、人々にとって有用な道具に替えるのは多くの場合民間企業です。応用研究などともいいますが、どんなに優れた技術も実用に供さなかったら宝の持ち腐れです。

超伝導と言う技術があります。一時期大いに騒がれた技術ですが未だ実用化されていません。唯一、実用化に向かっているのがJR東海のリニア新幹線ですね。その他にも超電導送電という応用分野がありますが、電力各社はあまり乗り気ではないようです。実用化されれば送電ロスがゼロに近くなって、原発数基分の電力が無駄にならずに済むのですが…。

城と言うのは、もともと防衛用の砦でしたが、地方における政治の中心地の意味合いが出てきました。戦国以前は政治の中心である「お館」があり、城は戦時用だけに使われていたのですが、これが一体化してきていたのです。

水路の利用という発想も尾張、美濃育ちの信長軍団らしいですねぇ。船による物流に着目したのは水運を日常的に利用していたものにしか思いつきません。

これからの日本にとっては、海とどう向き合うかが大きな課題でしょう。おかげさまで領海の範囲だけは世界の大国です。地震もある代わりに海底火山が隆起してますます領海が広がります。これを利用しない手はないですよ。

32、秀吉は、彼が天下を取るまでは別の人格だったと思われるほどに人間を愛した。
p欲得や機略で愛する振りをしたというようなものでは決してなく、心から人間が好きという風であった。

西郷隆盛の座右の銘は「敬天愛人」ですが、それを秀吉風にアレンジすると「畏信愛人」とでもなりましょうか、それとも「畏寧愛人」でしょうか。

最初のは「信長を畏れ、人を愛す」 次のは「寧々を畏れ、人を愛す」です(笑)

秀吉にとって、これが天性のものだったかと言うと…どうもそうではなかったような気がします。関白になってからの後半生、とても人を愛するという態度ではありませんでした。「人格が変わった」のではなく、「地が出た」ということだったと思われます。

もともと愛情に飢えていた生い立ちですから、処世術として必死で、懸命に作り上げたものが、他人に対する愛情表現だったと思われます。そういう意味では時代を背負って立つ役者、演技者だったのではないでしょうか。秀吉の物語は「太閤記」などがベースになっています。この作品は大村幽古が著者になっていますが、秀吉が口述し、それを幽古が書き写し、さらに秀吉が自ら校正して作り上げた自分史だといわれています。

外面(そとづら)は良いのですが、心の中は晩年の秀吉のように我が侭で、誇大妄想的なものを懸命に抑えていたのではないでしょうか。それを他人に見破られないほどに隠しおおせたというのは凄い演技者、演技力だったと思います。

これを見破っていたのが寧々であり、竹中半兵衛であり、黒田官兵衛だったと思います。だからこそ、軍師という立場で泥をかぶってきたのでしょう。石田三成や淀君などは、そういう秀吉の性格を利用した一派でしょうね。千利休なども、秀吉の本質を理解していた一人だったでしょう。