水の如く 06 魔王・信長

文聞亭笑一

今週のドラマは信長の動きが中心になりそうです。将軍義昭との確執、浅井・朝倉との姉川合戦、さらには叡山の焼き討ち、本願寺蓮如との争い、そして信玄が上洛してきます。四面楚歌と言う環境の中で、信長の軍勢は死に物狂いに暴れ回ります。ここら辺りが戦国物語の最も面白い所ですが、官兵衛の播磨では高みの見物です。というより、信長は潰されるであろうと観測するのが常識的ですね。賭けの倍率でいえば1:9くらいな確率で、信長は敗退するところです。ですから、播磨の大名たちが日和見を決め込むのは当然で、織田軍に魅力を感じていた官兵衛とて、傍観者の立場だったでしょう。

ところが、信長は強引に、力でこの包囲網を突破します。

信長が戦略的に重視したのは近江の国、琵琶湖を取り巻く諸勢力の掃討です。東の浅井朝倉、北の比叡山、西の将軍・義昭。この三つを潰してしまう手を打ちます。近江こそ、京の都と畿内制圧の鍵だと認識していたものと思います。

姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍を湖北に追い返します。これで東海道、東山道の補給路が確保できました。物流ということに、信長ほど重要性を置いた戦国大名はいなかったと思いますね。輸送路の安全確保…これが信長の狙いです。

ところが、京へ入る道は逢坂(おおさか)越え、山中越がともに比叡山に扼(やく)されています。信長軍が京に入ろうとすれば、逢坂越えは比叡山の山頂から丸見えです。しかも、峠道は長蛇の列で通るしかありません。これって…信長が今川義元を討ち取った桶(おけ)狭間(はざま)と同じ地形です。信長が峠の真ん中にかかったところを、その首を狙って僧兵たちが集中攻撃をかけたら、信長の運命は今川義元と同じになります。信長から見たら、比叡山は京への輸送路に立ちはだかる難敵、魔物、疫病(やくびょう)神(がみ)なのです。

叡山との同盟の道があったか…、答えはNoですね。叡山は信長の重商主義的流通改革によって大津、草津などの「座」による既得権益を奪われています。信長の勢力が広がれば、財源を失うわけで、死活問題です。反信長勢力に味方します。妥協はないでしょう。

「敵対するものは討つ。根絶やしにする」これが信長の基本姿勢です。「啼かぬなら、殺してしまえホトトギス」です。仏教の聖堂であろうと、神社の元締めであろうと、信長の方針は変わりません。徹底的に叩きます。皆殺しにします。叡山、長島一向一揆……

皆その方針の下に行った軍事行動です。

今、世界を騒がせているイスラム原理主義者とアメリカとの戦い…こういう目で比叡山、本願寺と信長の戦を比べてみたらどうでしょうか。私にはよく似ているように見えます。

現代には皆殺しはありませんが…、それでも空爆という皆殺し作戦がありますねぇ。

21、仏教の堕落と破壊がキリシタン信仰を盛んならしめ、さらには信長のような、頭から神仏を信じない壮烈な無神論者が、神仏以上の力をもってこれに大鉄槌を加えざるを得ないのである。山門は山門によって滅びた。誰を怨むこともない、と官兵衛は一面ではそう思っていた。

引用しているのは司馬遼の「播磨灘物語」ですが、この引用部分に司馬遼の仏教に対する思いが現れています。実は私も同じで、心の根底には仏教に対する思い入れがあります。宗教らしくしてくれ…、釈迦の教えの原点に戻ってほしいという思いです。外人から宗教を聞かれて、素直に「仏教徒だ」といえず「八百万教だ」などと答えているのは、仏教界が現代人の心の悩みから乖離してしまっているからです。葬式仏教などと揶揄されますが、銭金の世界に浸かりすぎた結果ではないでしょうか。山門は山門によって滅びた。誰を怨むこともない…と、私も思います。

無神論者とは、政治に関していえば無党派層になります。時々の風次第で動く日和見の風見鶏です。この人たちが政治を動かしているのが現代で、こういう人に限って「政府は我々にビジョンを示せ」などと要求します。

信長は、無神論者と言うより自己中心の独裁者でしたね。スターリン、毛沢東と同類の信念の人だったでしょう。だからこそ、晩年に安土城に自分を祀った総見寺を建て、臣下大衆に自分を敬わせようとしました。自分こそ神である…という教祖を目指しました。

小泉純一郎、石原慎太郎、橋下徹…若干似たところがありますね。一種のカリスマ性を持ちます。カッコいいですが、神様になってもらっては困ります(笑)

22、書写山(しょしゃざん)円(えん)教寺(きょうじ)は、この地方では古くから「そさ」と呼ばれていた。
西の叡山と呼ばれるほどの規模を持った別格本山の寺で、言うまでもないが、叡山と同様、天台宗である。書写山は叡山に酷似している。山上に、多くの堂塔(どうとう)伽藍(がらん)や僧房があり、多数の僧が住み、山上ながらも宗教都市をなしていた。

書写山は姫路の西北にあります。当時の赤松氏の所領になりますかね。

信長の叡山焼き討ち、皆殺しは、書写山にとっては驚天動地、明日は我が身のことですから、反信長の大運動を展開します。

赤松にも、小寺にも、別所にも、そして備前の宇喜多にも、アンチ信長のアピールを繰り返します。宗教的権威と、マスコミ的伝播力で、播州一円は「信長は人の心を持たぬ鬼である。魔王である」と思い込みます。ですから、播州の民意が信長に対して冷ややかであるのは当然です。信長贔屓(ひいき)の官兵衛が、浮いた存在になるのも当然です。

23、信長が叡山を焼いた元亀二年から三年にかけて、時勢に鋭い折り目ができている。
戦国は後半期に入ろうとしていた。この折り目を、同時代の人はどの程度に気づいていたであろう。戦国期における天才的独裁者が、相次いで死んでいるのである。

誰が死んだか? まず、関東の北条氏康が死にます。北条家は北条早雲が小田原に進出して以来、相模から武蔵、上総、下総、安房、上野、下野と関八州と言われる関東平野を席巻していきますが、その勢力拡張を成し遂げたのは3代目の氏康です。謀略も軍事も、ともに優れ、民政にも卓越していました。

同じ時期に死んだのが毛利元就です。一代で、広島の山中・吉田の小城から尼子を倒し、陶を倒して中国地方を席巻しました。この人は謀略の天才でしたね。謀略とは聞こえが悪いですが、交渉術のことです。脅し、すかし、利益誘導と手段を選ばず勢力を拡大します。

そして、武田信玄が死にます。信長包囲網の中心人物で、当時の日本中の注目の的だった実力者です。軍事的才能もさることながらカリスマ性と言う点では、若造・信長の及ぶところではありませんでした。

この年を境に、時代の潮流は信長に追い風になります。

それを司馬遼は時代の折り目と表現します。

24、義昭は「信長を滅ぼすべし」と、御教書を発した。
この御教書は官兵衛が仕える播州御着の小寺氏のもとにも来た。
「御教書ぞ」と、小寺藤兵衛は討つ、討たぬよりも、御教書が舞い込んだことにやや驚き、やや感激し、しかし何もしなかった。信長が岐阜から疾風のような速さでやってきて宇治槙島城を包囲して義昭を追放してしまったからである。

信長は、足利義昭を上洛の大義のために利用しました。上司として敬うなどという発想は最初からありません。もっと言えば、上洛の途中で比叡山から襲われないための楯として利用しました。そのことは、義昭も感づいたはずです。ですから、信長が京から去ったら、すぐにアンチ信長連合の当主になります。義昭にしても、将軍になるために信長を利用したのです。狐と狸の化かし合いですよ。

播州の大名たちが将軍義昭からの動員命令を受けて、何もしなかったのは当然で、権威と実力とを見比べていたのです。

その点、信長の動きは迅速でしたね。反対勢力の放送局である足利義昭を一気に包囲し、降参させ、追放してしまいました。宣伝効果の高い叡山と将軍、この二つを電撃的に潰してしまったのです。

このやり方、世界のあちこちで起きる軍事クーデターにそっくりです。マスコミを封印してしまうというのは専制君主の常とう手段で、北朝鮮も、中国も、そして軍制支配の国々も、今でもやっていることです。

最近の日本のマスコミはちょっと危険です。中立を旨とし、政策などには不偏不党でなくてはいけないはずが、反政府に偏ります。対中韓、憲法、沖縄、原発に関していえば、批判的トーンが強すぎるのではないでしょうか。とりわけ外交問題については自虐的論調が目立ちすぎます。多分、国民の理性、良識を信用していないんでしょうね。

大衆は馬鹿ばかりで、政府の言いなりになると舐めています。「舐めんなよ」ですよね。