水の如く 11 信長危うし

文聞亭笑一

毛利水軍と織田水軍の戦では、制海権の争いで完敗したという以上に信長にダメージを与えました。まずは、毛利水軍によって運び込まれた兵糧米が2万5千石と膨大だったことです。石山本願寺に籠る者たちが2-3年は食える量です。さらに、大量の武器、弾薬が補給されました。織田軍の攻撃を待ち構えて撃退することに徹すれば、これまた2年や3年戦うのに十分です。つまり、包囲網を敷いているだけでは2,3年は落ちない、膠着状況が続くということです。さらに、しばらくの間は海上封鎖が全くできないということで、包囲にならない破れた網になってしまったことです。毛利だけでなく、南の紀州から雑賀(さいか)一族が自由に行き来します。

これは…攻めている織田軍団にとって辛いですよね。見通しが立たない駐留軍ですから、タリバンと対峙するアフガニスタン駐留の多国籍軍のような気分でしょう。たまに、応援に駆けつける者は良いとしても、石山攻めの責任者である佐久間信盛、荒木村重、松永弾正などにとっては緊張感を維持することすら難しい状況でしょうね。この環境にあっては軍律の維持すら難しく、あちこちで住民との間に軋轢(あつれき)を生じます。

そういうところに、毛利輝元の放った「織田水軍撃滅」のニュースと、毛利に庇護されて鞆(とも)の浦(うら)にいる足利義昭の「織田を倒せ」という檄文が各地の大名に飛びます。さらに、西日本中心に毛利の使僧たちが織田切り崩しの外交を展開します。毛利家が最も得意とするのはこの外交で、安国寺恵瓊の配下の僧たちが足利義昭の「教書」を携えて全国を飛び回っています。将軍…という役職は既に消え去っていますが、そのことを知っているのは織田家の者たちと近畿のごく一部だけで、地方はまだ、足利将軍家の存在を信じています。

まず、敏感に反応したのが上杉謙信でした。足利義昭の斡旋案を受け入れて武田、北条と和平条約を結びます。後顧の憂いなく北陸道を駆けあがる支度ができました。ただし、謙信は門徒衆が嫌いです。この点では信長と共通しています。従って、本願寺勢力と和睦はしましたが連動して動くことはしません。これが信長包囲網の欠点でしたね。

41、官兵衛と言う男は、その点でひどく小心であった。彼ほど世間を手玉に取るという策謀と才能と胆力を持っているしたたか者が、ただひとつ、およそその才能と裏腹に、主家を裏切ることができないという、とびきりの馬鹿律儀さをあわせ持っている。
このことは、いわば官兵衛の父祖の代からの家風と言うべきものなのだが、官兵衛もその中にいた。

毛利の使僧たちがまず目を付けたのは播磨の国です。別所、赤松、小寺、3人そろって信長に拝謁しましたが、その後に英賀に上陸演習をやった後は、そろって広島まで使いを送ってきています。心底から織田方についているのは姫路の官兵衛唯一人…こんなことは百も承知です。ですから水軍大勝利、将軍御教書の二つは三家の当主の心を揺さぶるのに実に効果的なのです。毛利の無敵艦隊が海から攻めてくる…これは恐怖ですね。

小寺政職…この優柔不断な当主が毛利からの脅しと誘いに耐えられるはずがありません。

信長に拝謁したことを猛烈に悔み始めます。自分が播州の代表のような顔をしたことがさらに恐怖に追い打ちをかけます。

官兵衛は必死でいさめますが主君が毛利方に寝返ったら、それを倒してまで織田方を貫くということができません。そういうところを司馬遼は「小心者」と評します。こういう律義さ、忠誠心と言うのはどこから来るのでしょうか。我々の世代は「会社」に対して似たような忠誠心を持っていましたね。これも小心者なのでしょうか?

42、越後の上杉謙信が、織田圏との境界である能登を討ち靡かせるために兵を出してきたとき、北國探題である柴田勝家がこれを防ぐべく出馬した。が、謙信は柴田勝家程度の男の手に合う相手ではなかった。

謙信が越中から能登に兵を進めてきました。これは義昭の仲介…というより毛利の口利きで上杉、武田、北条の相互不可侵条約が成立して後顧の憂いが無くなったからです。

戦国時代の物語では上杉謙信は軍事の天才、最強の兵力と称賛されます。

一方、武田信玄も戦国最強軍団と呼ばれます。

軍隊の強さと言う点では甲乙つけがたいのですが、そのどちらも京への進出ができなかったのは、その後ろにいる北条家の存在があるからでした。上杉が本拠地を留守にすると北条に上州の領地をかすめ取られます。武田が留守にすると、同じく上州や伊豆の領地をかすめ取られます。北条に空き巣狙いをされるため、織田との対決ができなかったのです。その意味では、信長が天下布武に乗り出せたのは北条のおかげかもしれませんね。関東に北条がいて、上杉と武田を牽制してくれたから東海と近畿一円が支配できたとも言えます。

が、今度はそうはいきません。

この時の謙信は能登の七尾城を落としただけで引き上げましたが、次の遠征では手取川の戦でその実力を嫌と言うほど見せつけます。

43、その同じ月に、大和信貴山城の松永久秀が信長に対して叛旗を翻した。それまで松永は本願寺攻めの一翼を担当して、四天王寺の傍の織田方の付城にいたのだが、8月17日、にわかに陣を払って居城の信貴山城に登ったのである。
信長は使者をやって慰撫しようとした。
しかし、松永にすれば、越後の上杉謙信が信長の敵になったと聞いたとき、もはや信長の時代は終わったと見たのである。

梟雄と言おうか、天下の風見鶏と言うか…政治感覚の鋭さでは当代一だった松永弾正久秀が信長を見限りました。この男を理解するには「剛腕」と呼ばれた現代の政治家をイメージしたらいいかもしれません。政権を執る、権力に近づくためなら、なりふり構わずまっしぐら、使える物は何でも使い、用が無くなれば捨て去る、義理も人情もない男…

それだけ政治感覚が鋭敏で、世の中を渡り歩いてきた男が信長を見限りました。

その判断の根拠となったのが上杉謙信と本願寺の和睦です。それというのも、久秀はかつて謙信が上洛した際に、将軍の使いとして瀬田の唐橋まで迎えに出て面識がありました。その時の謙信の印象が強烈だったのです。「国をまとめるのはこの人しかあるまい」という、そんな憧れさえ感じさせる存在でした。

松永弾正の謀反は、その後の荒木村重の謀反へとつながっていきます。

44、秀吉が勝家の傲慢さに腹を立てて近江の居城に引き上げてしまったのも、かつての秀吉から想像できる行動ではない。秀吉は疲れてもいただろうし、何かふっと、自分のひたむきな勤勉さが愚かしく思えるような年齢にもなっていた。

この時の秀吉の心境、なんとなく理解できますねぇ。サラリーマンに共通の悩みですが、いやな先輩・上司という人がいて、どうにも馬が合わないというか、相性が悪い、リズム、テンポが合わない…という悩みに苦労します。そう言う私が…後輩や部下たちにとって、そういう存在だった可能性も大いにありますね(笑)

こういう人と、我慢しながら付き合うのがチームの和ですが…時に、堪忍袋の緒が切れます。疲れた時は勿論ですが、焦りが出た時に爆発しやすいですね。この時の秀吉は、中国攻めに着手したくて焦っていたのではないでしょうか。

「せっかく応援に来てやったのに、なんだ、柴田のこの態度は…」

「のに」が出ましたね。これが出ると…恩着せがましくなって、ひがみっぽくなって、人間関係が壊れます。……というのは相田みつを師の受け売りです。

秀吉の焦りは、以下の部分を早くやりたいからにほかなりません。

秀吉はかつて信長との雑談で、中国攻めを引き受けたい理由を述べている。

中国を切り取ったらすべて上様に献上し、中国で得た兵糧をもって九州を攻めさせていただきたい。九州を討ち平らげた後は、これまた上様に献上し、そのうちの一国を頂戴し、上様の御子一人を奉じて大明国を斬り従えたい。

そのためにも九州の国名、筑前守を名乗りたい。

これが、言ってみれば秀吉の長期ビジョンです。秀吉が筑前守に任官してから10年近くが経ちますので、早く中国攻めにかかりたいのです。

それにしても秀吉のこの大言壮語…その後、次々と実現していきますね。違うのは「すべて上様に献上し、上様のお子を奉じて」というところを、消し去ってしまったことです。

大明国を斬り従える…この発想がどこから出てきたのかが良くわかりません。秀吉の政策はそのほとんどが信長の政策の模倣です。信長が唐、天竺までというビジョンを持っていたのでしょうか。これもよくわかりません。