水の如く 03 広い世界

文聞亭笑一

歴史を理解するには、人間社会を形成する3要素を勘案せよ…という人がいます。

食料、燃料(エネルギー)、そしてその双方にかかわる水です。日本という島国の場合、主たる食料は米でした。主たる燃料は薪と炭でした。米も、薪の素となる森林も水がなくては育ちません。従って、人は水の豊富な場所を選んで住み着き、集落を作っていきました。このことは、弥生以来の日本史を探る上で、最も重要な要素だと思います。

その一つの例として、平安遷都があります。桓武天皇はなぜ「青丹良し」の奈良の都を捨てたのか? 燃料不足を上げる説があります。都会に人が集まれば、食料とエネルギー、それに水を大量消費します。古代でも一人につき燃料として年間20本の樹木を消費したであろうと推測すれば、2万人ほどの平城京でも40万本の樹木が伐採されます。近隣の森林は荒廃し、洪水の度に奈良盆地の中央にあった湖沼が埋まり、さらに下水で腐り、疫病が流行します。更に、湖沼が浅くなると物流の中心だった船便が使えなくなり、食料燃料の流通が滞ります。都市機能がマヒしてしまうのです。平安遷都より前にも天智天皇が近江遷都をしましたね。問題はその頃から発生していたのではないでしょうか。

それはさておき、播磨の国の青年官兵衛の頃の3要素はどうだったのでしょうか。

都市を形成するほどの川は三筋流れています。東の加古川、ここには別所家が三木城を築き勢力圏を固めます。その西側が市川です。この川を支配していたのが御着城の小寺藤兵衛政職です。官兵衛の主君ですね。そしてその西側に揖保(いぼ)川、この川を支配するのが龍野の赤松家です。川は飲料、米作、森林の源で、物流の根幹です。戦国の世はこの川の支配権を奪い合う戦いで、川が大きいほど、支配する勢力は大きくなります。濃尾三川(木曽、長良、揖斐)を支配した信長の経済力が台頭してきたのは、その意味で当然です。

播磨の三川は、大きな規模の経済力を生み出すには水量も不足でしたし、耕地も小規模でした。豊富だったのは山陽道を行き交う情報でしたね。この情報を使うことに気が付いた官兵衛、やはり田舎武士とは一味違いました。

09、室町幕府に詰めている武家たちからすれば、播州小寺家の成り上がり家老の分際などは、応仁の乱のころに横行した足軽のようなものだ。足軽とは農村から出てきて武家に奉公し、氏素性なくして武事をなすものである。応仁の乱のころは正規の武家が戦をするのではなくて、実際の戦闘はこの足軽がやった。
栗山善助は、姫路近郊にある手柄山の麓の農村から出てきた…足軽である。

黒田官兵衛にとって終生側近として付き合った相手に栗山善助がいます。後に、黒田家筆頭家老として備後守を名乗る名家老です。更に後の話になりますが、栗山備後は官兵衛が愛用した有名なお椀型兜を拝領します。この兜、実は福岡でも姫路でもなく、盛岡にあります。官兵衛の死後、後継者の長政と対立して、備後は盛岡藩に流されたからです。

それはさておき、鎌倉・室町と武家政権が400年も続くと、社会システムは形骸化してきます。現在ほど変化が激しくはありませんが、それでも400年は長いですよ。

室町幕府は、京という、公家と同居した政権であったため、儀礼重視の傾向が強く出ます。いわば形式主義、手続き重視で貴族化(公家化)します。そうなると、戦などという殺し合いは、アウトソーシングですね。家来の内の武芸達者が、乱暴者を集めてきて戦争請負をやります。これを足軽と呼んでいました。この下請け企業が主家に反抗し、乗っ取ってしまったのが戦国大名です。この辺が、英国の騎士道と日本の武士道の違うところで、氏素性などと言うものは、戦国の世で消滅したといってもよいと思います。

信長も、秀吉も、家康も、皆々足軽身分です。徳川家は林羅山を雇って、懸命に系図を捏造しましたが、たとえ源氏であったとしても傍流の傍流ですよね。それでも権力と、時間が源氏の正統と信じ込ませます。系図を大切にするのは、いつの場合も平和な時代です。安定の時代です。さて、現代が安定と平和な時代なのか、それとも実力主義の戦国なのか、

はなはだ判断に迷うところですね。

10、村重の案内で堺に着いた官兵衛たちは、賑わう堺の町に目を輝かせ、目の青い南蛮人に驚きを隠せずにいた。

NHKのストーリでは「鉄砲買い付けの役割を持った公務出張」の扱いになっています。

が、司馬遼も吉川英治も気ままな「留学」として描いています。京に上った時期も、三者三様の描き方です。まぁ、小説ですからね。どうでも良いことでしょう。

ともかく、印象は鮮烈だったでしょうね。私も高校生の時に、初めて目にした東京は鮮烈な印象でした。行き交う人々が異人種に見えたものです。とりわけ、女性が皆皆美人に見えましたね。「おら、東京さ、行くだ」となりますよ。(笑)

ただ、官兵衛にとって「町人が仕切る街」というのは、さして驚くことではなく、当然と言おうか、してやったり…という感覚だったと思います。自身が御着の城内では「目薬屋」とバカにされていますから、自信にこそなれ、違和感にはならなかったと思います。むしろ、外国人に驚いたと思います。とりわけ、その服装でしょうね。

日本の着物は布地を左右から体に巻き付けます。西洋の服装は上から被ったり、下から履いたりします。上下と左右の違い、こんなことが、意外に大きな驚きだったと思います。引き戸とドア、車を引くか押すか、肉を食うか食わぬか…、数え上げればきりがありませんが、そういうことが「文化」社会システムの違いを生みます。社会をシステムとして捉え、科学する心…、そんなものが官兵衛の頭の中にあったように思います。

その感性はどこから来たのか? やはり、祖父の重隆、目薬屋といわれながらも財を成し、部下を抱え、黒田の家を再興した人の影響だったように思います。

隔世遺伝などと言いますが、子供は親には反抗しますが、爺婆にはなつくものです。

そこの所をわきまえて孫と接しなくてはいけませんね。

11、官兵衛は地理や世間の好みの変化にも興味があったが、世の中の仕組みの変化にも、ほとんど打ち込むような関心があった。木曽の檜が京まで運ばれてくる輸送の仕組み、馬借が使う馬や牛、そして馬市、牛市に集められた数百頭の馬や牛、そして…、空前の賑わいを見せている大商業都市の京の町や人・・・
奥州馬は流石に見事だ。が、値が高い。それを良い馬だけ選んで7頭も買っていくのが織田家の武士である。官兵衛が信長に注目したのはこの時からだった。

官兵衛、善助の一行は堺から京に向かいます。政権は13代将軍・義輝が三好一党に討たれて機能不全ですが、町の機能は変わりなく動いています。京は日本一の大都会、商工業の中心地です。更に、皇居があり、寺社の本山があり、精神文化の中心であることに変わりはありません。地方では司馬遼が言う「足軽程度の者たち」が城を構え、群雄割拠していますが、やはり、日本の中心は京都でした。

ここで官兵衛が目を見張ったのは尾張・織田の侍でした。服装がひときわ目立ちます。その上、高価な奥州馬に金を惜しげもなく使って買います。その経済力…これに驚くと共に、その財力の源泉に想いを馳せます。「経済」「流通」これが富の源だと、強く意識したのではないでしょうか。官兵衛の織田への傾斜は、ここから始まります。

12、官兵衛はかねてより、キリシタンのことをしばしば耳にし、その噂を、耳を研ぐようにして聞く傾きがあった。
「今までの日本は狭かった。広い世界が日本にやってきている」
官兵衛は物事の理解がすばやすぎるところがあり、それが彼に終生付きまとう欠点でもあったが、その素早さのために二十(はたち)頃には人の世のことが、ほぼわかり始めていた。

官兵衛の生い立ち、学習は母から教わった和歌の道がベースです。理屈から入るのではなく、情から入って感じ、それに理屈を付けて納得していくという学習スタイルではなかったかと思います。つまり、右脳で全体をパターン認識し、論理は後から…というやり方です。これは信長、秀吉、家康に共通します。理詰めではありません。ですから学者からは嫌われ「ヤマ勘男」などと揶揄されますが、このタイプの方が戦争などの体育会系では良い結果を生みます。長嶋茂雄…この人はまさにこのタイプの天才でしょう。

官兵衛はいつキリシタンになり、洗礼を受けたか?

よくわかっていないようで、作家により諸説があります。吉川英治によれば、熱烈なる信者であった和田惟正に勧められて入信したとあります。和田惟正は13代将軍義輝の側近で、その彼の紹介で将軍に拝謁したとあります。

ともかく、義輝は松永弾正によって暗殺されます。14代足利義栄傀儡政権の京の町、混乱も頂点に達していました。その様子を見れば、官兵衛ならずとも「なんとかせねば」と天下を想う気持ちが湧いてきたでしょうね。