水の如く 02 播磨の風

文聞亭笑一

今回は官兵衛が生まれ、育った頃の、播磨の国(兵庫県南西部)に蟠踞(ばんきょ)する豪族たちの勢力関係がどうなっていたか、整理してみます。

室町幕府の最盛期は3代将軍義満の頃ですが、近畿から中国地方は将軍家を支える重臣たちの所領で、対中国貿易の道筋として最も栄えていた地域でした。金閣寺に代表されるようなきらびやかな時代です。近江には近江源氏の佐々木家が勢力を張り、東の守りを固めます。その反対側・西には赤松家があり摂津、播磨、備前、美作という4か国を持つ大大名が瀬戸内の本州寄りを固めています。さらに西には大内家があり中国朝鮮への玄関口として豊かな財政基盤を固めていました。

北には山名、一色などと言う大大名家があり、細川家も京にあって将軍家を守ります。

これらの大名が、将軍の下で結束していれば問題なかったのですが、政権というものは、そのほとんどが内部から崩れます。室町幕府は内部も内部、足利家自身の跡目争いから乱れ、それに諸大名が就いて党派に分かれ、結局は応仁の乱に繋がってしまいます。ここからは戦国の始まりですね。各地でタガの外れた勢力が独立し独自の勢力圏を持ち始めます。

戦国時代…と一口で言いますが、戦国時代は二つに分けてみるべきでしょう。核分裂を起し、次々と独立勢力が誕生していた時代が戦国前期です。バラバラになった勢力が互いにつぶし合い併合していった核融合の時代、これが戦国後期です。

官兵衛の生まれたころ、1545~50年あたりが微分から積分への転換点でしたね。ちょうどその頃に、種子島に到来した鉄砲(1543)が実戦配備され始めました。

播磨の国に目を移します。名門赤松家は、その重臣・浦上家の謀反(むほん)により備前、播磨の海岸線から追われ、播磨の内陸に逃げ込みます。主家を倒した浦上家ですが、赤松家の抵抗もあって旧領すべてを引き継ぐことができません。摂津は三好一党や本願寺勢力に簒奪(さんだつ)され、播磨東部も別所、小寺が独立してしまいます。さらに美作(岡山北部)は出雲から勢力を伸ばしてきた尼子家に半分、後藤家に半分奪われます。分裂がピークに達していた状況と見ていいと思います。

一方、東国ではすでに核融合が始まっていました。北条が南関東を固め出し、武田、長尾(上杉)、今川なども国の単位を統合し、他国へと統合の手を伸ばし始めたころです。

5、万吉は14歳で元服し、官兵衛孝高と名乗った。
16歳で小寺藤兵衛の近習になり、御着の城に起居するようになった。この当時の慣習で、重臣の子を近習として召し出すのは人質としての効用もあったからである。

母を失ってからの万吉は、母が好きだった歌の道にのめり込み、文学少年というか世捨て人のような時期を過ごします。これを心配した父が、姫路の僧・円満に預けて再教育します。円満は三国志を教本に、万吉の関心を武略に変えていきます。孫子、三略などの兵法書を読みだしたのはこの頃からですね。

子供に対して、ある方向に関心を持たせようとすることは実に難しいことです。親も教師も、そして会社の上司もそのことで大いに悩みますが、なかなか旨くは行きません。強要すればますます関心が離れ、悪くするとトラウマになって、拒否反応を起します。

辛抱強く待って、関心が向いたときに、すかさず褒めるのが一番なのですが、なかなかそうはいきません。どうしても「褒める」という手を使うのにためらいが出ます。評価の基準が掴めないからでしょうが、子供が初めて挑戦したときには結果にこだわらず褒めてやりたいですね。「初」というのは誰にとっても印象に残るものです。

人質…いやな言葉ですが、人間関係においては現在でも使われます。信頼関係を強固にするためで、提携企業への出向などはその要素を含んでいますね。一方、留学ととらえれば、勉学にはまたとない機会です。官兵衛にとっては、母の死の痛みから抜け出すための気分転換というか、飛躍のチャンスになったのではないでしょうか。

6、その年に小さな合戦があった。これが官兵衛の初陣になった。しかし、槍を取っての働きはしていない。彼はそういう不得手なことをしようとも思わなかった。

赤松勢と小寺勢の小競り合いは年中行事です。さらに、もともとは赤松家の家臣として同じ釜の飯を食ってきた者たちが敵味方に分かれているのですから、政略や縁戚づくりによる懐柔などもあって複雑です。ドラマでは櫛橋氏を小寺家臣団の代表のように描きますが、そのほかの家とて同様です。そう…、家臣と書くのが間違いでした。寄騎と書く方が分かり易いでしょう。現代でいう契約関係の代理店、特約店、協力工場という関係です。主家が気に入らなければ、契約関係を解消して他家に移ることも自由ですが、当然、報復を受けますから損得勘定ですよね。

赤松勢は衰退していましたが、代が変わってから勢力を盛り返し、反攻に出ています。南の小寺、西の浦上に奪われた旧領回復の動きです。

官兵衛が出仕した年にも赤松勢の攻撃がありました。それが、官兵衛の初陣です。年中行事とは言え、武器を振り回し、命のやり取りをするのが戦ですから怖いでしょう。目の前で血が吹き、人が死んでいったら恐怖で足がすくみます。16歳といえば高校一年生、野球やサッカーの試合ではありませんからねぇ。

7、官兵衛は主人藤兵衛の床几の傍に控えていた。ただ、進んで使番(つかいばん)を務めた。
使番とは伝令将校のことである。普通は老練の武者が選ばれる。馬上の槍働きにおいて強(したた)かな者が選ばれたりするのだが、役目そのものは直接腕力に関係ない。

使い番、大将の指示を前線に伝えにいく役割です。それに大将の指示で、戦況を確認しに行く偵察の役目です。これは戦のベテランでなくては務まりません。指示を鸚鵡(おうむ)返しに伝えるだけでは、戦況の変化に対応できません。さらに、戦場の動きを観察し、敵味方の強点、弱点を見抜く洞察力も求められます。いわば情報将校ですよね。

初陣の官兵衛を使い番に残したのは父・兵庫之助の親心でしょう。初陣の若者は実戦の場に立つと、恐怖心から体が凍り付いて身動きできなくなり敵の標的にされるか、それとも、やたらに興奮し突進して敵中に孤立するかのいずれかです。どちらも前線での足手まといです。まぁ、新入社員を初めて営業に出すようなものです。何をしでかすかわかりません。戦ですからね。大型商戦の営業には出せません(笑)

これで失敗した例が、川中島合戦での武田信玄の長男・太郎義信です。圧倒的な上杉勢の攻撃に対し、「専守防衛せよ」という父の命令を無視して、敵に突撃してしまいました。その結果「御曹司を守れ」と、周りの軍勢が無理な突撃をすることになり、叔父の信繁など多数の戦死者を出してしまいました。このことが、結局は武田内部の跡目争い、親子付和の素になり、勢力を弱体化させる遠因になりました。

実戦能力は経験を積むことで向上していきます。早いうちから経験させたい半面、大失敗をして、挫折感から臆病にさせてしまったら…後々まで使い物になりません。ここらですよね、ご同輩の皆さんが苦労してきたのは…。

8、官兵衛はお城にあるときは老巧の士から経験談を聞くことを好んだ。その相手は騎乗の士に限らず、黒鍬者にまで及んだ。
更に、広峰の御師の供に化けて、播州一円を歩き回ったこともある。
これによって兵要地誌の感覚を豊かにした。また、播州の他の大名や豪族の人物や、実力について関心を持ち、彼らの能力や性格を知ろうとした。

どの小説を読んでも、官兵衛が机に向かって本を読んでいる場面と言うのが出てきません。もう一方の軍師・竹中半兵衛は常に書に向かって沈着に構える場面が多くみられますから対照的です。官兵衛は、書物からの知識よりも耳学問と、見聞によって知識を得ていたのではないか…という気がします。耳学問と言えば秀吉が有名ですし、信長は自分が目にし、確かめたものしか信じないというタイプだったようですから、この三者は似ています。そんなところが、後々に気が合い、馬が合ったのではないかと推察したりします。

司馬遼は「播州」の範囲での歩き回りと書きますが、吉川英治の小説では20歳になるまでに二度も官兵衛を上洛させています。そのうち一度では13代将軍義輝に拝謁し、将軍家直参の和田惟政、細川忠興とも面識を得ていることにしています。

まぁ、いずれにせよ、官兵衛自身の目と耳のほかに、広峰山の御師による情報網は官兵衛の情報網を西日本全域に広げていたことでは間違いないでしょう。

そして、京の八坂神社は広峰山の分社なのです。その意味で、京都と姫路間の民間情報パイプは相当に強く、太かったと思われます。情報を選び、使う。その巧拙によって優劣が定まる。戦国大名も現代企業も、要点は同じですね。