水の如く 04 天下布武

文聞亭笑一

今週の大河ドラマは官兵衛の結婚が主題ですが、時代の大きな潮流がいやおうなく播州にも影響を及ぼしていく頃でもありました。すでに形骸化していた室町幕府の権威が地に落ち、次なる指導者を求める雰囲気が広がりつつある頃です。

ここに、キリスト教が西洋文化を携えて進出してきます。フランシスコ・ザビエルに始まる布教活動が九州から堺へ、そして京へと広がっていきます。この広がりの特徴的なことは、教養が高い武士層から入信者が増えていったことです。幕府の権威が薄れ、あわせて天皇を中心とする宗教界も堕落していました。とりわけ仏教界が私利私欲に走り、精神世界と言うよりは政治・経済団体へと変質してしまっていたことが、背景にあります。

従って教養の高い層、文化人といわれる者たちは「唯一絶対神」を掲げるキリスト教に救世主的魅力を感じたものと思われます。これは混乱期の共通現象で、太平洋戦争後の社会主義、共産主義の浸透という形で再現していますね。歴史は繰り返します。

唯一絶対神といえば、この当時の仏教の一派である一向宗もそうでした。阿弥陀仏こそ絶対神で、南無阿弥陀仏と唱えさえすれば極楽浄土が出現するという、実に分かり易い教義を掲げました。庶民を中心に、この勢力は近畿からその周辺地域を席巻しています。

後に、信長にとって最大の反対勢力になる石山本願寺、長島一向一揆、一向宗が国を奪ってしまった加賀一向一揆、家康を苦しめた三河一向一揆、…枚挙にいとまがありません。

現代日本人にとって宗教とは縁の薄いものではありますが、アラブ、アフリカ、アジア諸国は宗教と政治の折り合いがつかず、戦争やテロを繰り返しています。決して対岸の火事ではありません。海外進出を図り、通商立国をさらに推進するためには宗教の問題に関してしっかりした認識を持たないと思わぬ事故に巻き込まれます。

私は現役時代「私は八百万教の信者である」と主張して、外国人の宗教的質問に対応してきました。キリストもアラーも<1 of 8M God>だと…。

13、官兵衛が妻をめとるのは22歳の時である。
御着城主小寺藤兵衛の声がかりによるもので、藤兵衛としてはよほど兵庫之助と官兵衛というこの父子を頼みにする気持ちが強かったに違いない。新参の、しかも播州という土地に根がなく、いわば流れ者の子の一家に対し、こうも手厚い態度を見せるというのは、逆に言えば、この父子がいかに人の信頼をつなぐに足る人物であったかを証拠立てている。

司馬遼が「播磨灘物語」という長編小説の中で、官兵衛の結婚について触れているのは、この部分しかありません。その意味では…引用するために結構、苦労しました(笑)

今回NHKの作者は、将軍義昭による招集状が、城主・政職の疑惑を買ったという設定にしていますね。そういうことはあったかもしれません。それは官兵衛が上洛した折に、幕府の側近である細川藤孝や、和田惟正と面識があったからです。この経緯は、別途<15>で説明します。

今まで説明の機会がありませんでしたが、官兵衛が仕えた小寺家の歴史に触れておきます。小寺家は鎌倉時代から赤松家の家臣(与力)として御着にいた一族です。名門赤松家は室町幕府の大臣級の役割を担っていましたが、不祥事を起こして一旦取り潰しになります。その時、家臣団をまとめて幕府に赤松家復興の運動を起し、戦で手柄を立てて赤松家を復帰させたのが政職の先祖・小寺藤兵衛です。それ以降、小寺家の当主は代々藤兵衛を名乗ります。赤松家にとっては大恩人です。が、代が代わると、そういうことはただの歴史の一コマになります。ただ、京や文化人の間では「小寺」といえば忠義の家という評判が記憶されています。将軍義昭から小寺藤兵衛に「上洛を助けよ」という文書が届くのはそういう背景があります。ただの出来星大名とは違う由緒があるのです。

ともかく、櫛橋備後の娘お光を政職の養女とし、官兵衛と結婚させます。父には小寺の名跡を与え、息子には婚姻で繋ぐという信頼関係を築きます。

14、お光は播州志方村を領する小さな城主で、櫛橋豊後守という者の娘である。
櫛橋氏も、播州の豪族がたいていそう称していたように、赤松氏の支流であった。

ここで小寺領の地理関係を説明しておきます。現在の地図で「御着」という場所を探すのは結構大変です。虫眼鏡を持ち出して探すほどの字で、姫路城の東、現在では姫路市内に載っています。距離的にはさほど離れてはいませんが、この当時は御着がこの地方の中心で、姫路は一つの村にすぎません。その西にある赤松勢の侵攻を防ぐための出城の位置づけです。一方、櫛橋氏の守る志方村は御着の北東に当たり、播州平野の東にある別所氏の領土との境界を守る位置づけです。ですから、御着という横綱を挟んでの露払いと太刀持ち…そんな関係ですかね。

ただ、名門意識は強かったようで、赤松氏が隆盛の頃は小寺家とは同格、またはそれ以上の格があったと思われます。赤松家の取り潰し、再興の過程で、小寺がこの地域の盟主になったというでしょう。その櫛橋家から見れば、流れ者の黒田家などは格下も下、相手にするさえ汚らわしい存在だったかもしれません。人間社会は好んで階級を作りたがりますが、それがまた人間関係のトラブルや住みにくさ、煩わしさの原因になります。

かといって、無くしてしまっては組織の秩序が成り立ちません。難しい所ですが、過去は尊重しても現実の判断には使わない方が良いですね。現役を引退し、隠居したら一介の素浪人です。過去の意識などは新しい人間関係に持ち込まない方がいいですね。

15、細川藤孝や和田惟正、高山右近ら幕臣はやがて織田信長の近畿制覇と共にこの家臣団の中に組み入れられてしまうのだが、官兵衛のこの時期には、彼らは将軍義輝の若い側近と言うだけの権力の背景しか持っていなかった。
「播州御着の」「小寺勘(か)解(げ)由(ゆ)の次官(さかん)」と名乗る官兵衛は彼らにとっては眩しい。

堺から京に出た時、官兵衛はキリスト教会を訪ねています。それも、単なる見学というのではなく、何度も足を運び宣教師のビレラから西欧の知識を仕入れようとしています。この時に…洗礼を受けたのかもしれません。

ともかく、この教会には13代将軍・義輝の側近たちが出入りしていました。引用した部分に出てくる3人がその主だった者たちです。細川藤孝は後に幽斎と名乗り、江戸期の熊本藩主、現在都知事選に出ている細川護良の先祖です。高山右近はキリシタン大名の代表、和田惟正は信長から京都の留守を任された近江の名門ですね。

彼らは、氏素性は名門ですが、力がありません。力とは経済力と軍事力です。

その彼らから見たら、播州の小寺は眩しいほどの力があります。その上、赤松家の再興を成し遂げた忠臣の家です。後の世で「播州赤穂の城代家老・大石内蔵助」というほどの響きをもって迎えられたと思います。自分たちの仲間にしたい…そういう思いもあって、官兵衛に将軍への拝謁までさせています。ですから、義昭からの手紙も届くのです。

16、日本の文化は、京を高所とし、低所である田舎へ普及していく。京でキリシタンが隆盛になれば、田舎はその真似をする。…というのがビレラの考え方であった。
だから布教のために京を捨てる気にはならない。

キリシタン、キリスト教の伝来が日本の世の中に大変革を起させました。宗教としてのキリスト教が世の中を変えたわけではありません。彼らの持ち込んだ科学知識と、社会の仕組みについての知識が、信長という天才を核にして革命を起したのです。

科学知識の第一は鉄砲と火薬です。物理学と化学。第二は医学ですね。

文化として持ち込んだのが絶対神の存在です。

信長は、科学技術を貪欲なまでに取りこみました。ありとあらゆる技術を取り込み、軍事力と経済力の発展に使います。楽市楽座、専業武士の創出と能力主義の採用などと言うものもその一つでしょう。

信長のほかに、西欧文化を取り入れた者が本願寺です。本願寺蓮如は絶対神という概念を日本的に消化して「南無阿弥陀仏」の信仰を広げました。来世を信じて死を恐れぬ民衆…まさに現在のアラブの原理主義者たちです。

「文化とは水のようなものである…高きから低きに向かって流れる」

これは司馬遼太郎の史観ですね。官兵衛が後に「如水」と名乗ったのにも、この思いがあったのかもしれません。

さて、現代の日本では、細川幽斎の子孫と、信長的な元首相が組んで、都を乗っ取ろうとしています。都政とは直接関係ない原発反対が旗印です。「都から田舎へ」でしょうか?

果たしてどうなりますか。 東京と原発??? 違和感を覚えますが……。