水の如く 10 毛利水軍

文聞亭笑一

日本は島国ですが、その割には…海を舞台にした歴史物語が少ないですね。

民族的に海に対する注目度が低いとも言えます。海があるのは当たり前で、海洋資源が無尽蔵にあったからでしょうか。こういうところが砂漠の民族・中国との違いでしょうね。

彼らは海に対して異常なほどの関心を強めていますね。

日本では水軍と言われる者もそれほど発展していません。海軍が注目されたのは黒船来航で目が覚めた明治維新のころからで、江戸時代には水軍の伝統さえ消し去られています。

古代には、天智天皇のころに、朝鮮との間で白村江の戦という海戦がありました。

その後、平家が瀬戸内の制海権を握り、通商貿易を狙った政権を立てました。この時の主力になったのが村上水軍と呼ばれる一族で、村上、来島、河野、越智などという船乗りたちが瀬戸内一帯の制海権を握っていました。この勢力を傘下に収めたのが毛利元就です。海の道を握っているということは戦略上、実に有利です。兵士の輸送が迅速にできるというばかりでなく、武器、弾薬、食料と言った軍事物資の移動が、大量かつ迅速にできます。戦争と言うのは、こういう兵站と呼ばれる軍事物資の輸送が勝負の決め手になります。

信長が最も恐れていた武田信玄が、京に向かって進軍の途中で停滞してしまったのも、兵站の不足でした。上杉謙信が北陸道を駆けあがり、信長を圧迫しますが、京までは届きません。こちらも補給路が伸び切ってしまったのです。

その意味で信長は水運の大切さを十分心得ていました。琵琶湖の水路を抑え、それを最大限活用しようと築いたのが安土城です。そして、秀吉の長浜城、光秀の坂本城と呼応して琵琶湖そのものを要塞化しようとします。ですから比叡山、三井寺など琵琶湖の周りにある宗教勢力は邪魔者なのです。抹殺してしまいます。

さらに、水運を求めて信長は堺と大阪に着目します。ここにも…本願寺という邪魔者がいます。実利中心の商業主義と、理想を追う宗教勢力…接点を見出すのは大変ですね。

37、毛利軍襲来の報はたちまち播州一円に広まり、毛利の直接攻撃目標でない別所氏や赤松氏までが動揺した。この両氏にすれば、毛利氏がとうとう播州平定に動き出したかと思ったのである。とすれば先に信長に拝謁したことが気まずく、毛利氏にも十分手当をしておかなければならない。この為の使者が、別所氏からも赤松氏からも芸州広島へ走った。

英賀の戦の幕が切って落とされました。毛利水軍が5千の兵で中浜、飾磨(しかま)の浜に上陸してきます。海から、これだけの大軍団が上陸作戦を仕掛けるというのは、おそらく日本史上初めてのことではなかったでしょうか。過去にこのような上陸作戦の例を探せば、蒙古軍の博多湾上陸作戦くらいでしょうか。

毛利の狙いは姫路城です。姫路の黒田の戦力の10倍の大軍団を送りこみ、戦わずして逃げ出させるという狙いだったでしょう。威嚇のための上陸作戦でしょうね。あわよくば織田方への仲介役をしている黒田官兵衛を抹殺することで、やや織田方に傾いた播州の勢力地図に、毛利の影響力を強めようという狙いだったと思われます。

多分・・・ですが、小寺家も抵抗しなければ叩く気はなかったでしょう。姫路城を割譲させて毛利の属国として代官を置く程度の腹積もりだったでしょう。

この作戦は、毛利にしてみれば「飛び石作戦」「落下傘攻撃」になります。姫路という「点」を抑えても、それを維持するためには数千の兵を常駐させなくてはなりません。これは実に不経済な作戦です。毛利にしてみれば播州進出の前に備前、美作(岡山県)を固めなくてはなりません。

38、毛利圏と播州の間に備前がある。ここに宇喜多直家という成り上がりの、渾身(こんしん)奸智(かんち)に満ちたような国主がいる。直家はおよそ情義で物事を考えたことがなく、常に酷薄なほどの計算でもって自分の行動を決めていく男で、今でこそ毛利氏が強大であるために猫のようにおとなしく随順(ずいじゅん)しているが、いつまでも直家がこの姿勢を取るとは、官兵衛も思えない。官兵衛はむしろ直家のそういう性格に期待していた。

宇喜多直家に対する司馬遼の評価は厳しいですね(笑) 渾身(こんしん)奸智(かんち)に満ちたようなとは……凄い表現を使います。渾身奸智と言えば「体中が悪智慧」ということでしょう。

司馬遼がここまで直家を悪く言うのは、彼が毒飼(どくがい)(毒殺)を多用したからでしょうね。

「邪魔者は消す、消すには毒を使うのが最も確実」

…これはオーム真理教の殺人集団と全く同じやり方です。一種の化学兵器ですからねぇ。こんなものが横行しては人類の破滅です。決して許せません。

…といいながら、我々も害虫と言われる蝿、蚊、ゴキブリなどは平気で毒殺しています。雑草と呼ばれる農耕地の厄介者も、除草剤という化学兵器で抹殺します。彼らを相手にした時、渾身(こんしん)奸智(かんち)に満ち、常に酷薄なほどの計算をします。

それはさておき、毛利氏にとってもこの宇喜多直家という得体のしれない随従者の扱いに手を焼いていました。表面では毛利に従っていますが、腹の中では何を考えているかわかりません。だからこそ、毛利は陸路を使って進撃せず、海上からの上陸作戦を取ったのです。

39、官兵衛は敵状を十分に偵察した。彼の得意はむしろ合戦よりも偵察にあったといってよく、この時も十分に敵状を把握した。敵は大軍であることに慢心していて、どの報告も敵の惰気について触れている。
成功するだろう、と官兵衛は思った。

毛利軍の播磨進駐は威嚇が目的です。織田方が荒木村重を一時的に播磨に進軍させたのと同じことです。従って、毛利軍の兵士たちは「上陸演習」のつもりであって、戦闘の気構えはありません。「慢心」でも「惰気」でもなく、「やる気」がないのです。

この作戦に参加したのは瀬戸内の制海権を握る村上水軍と、その傘下の海賊大将たちだったでしょう。彼らの補給港である英賀の支援に、「お付き合い」として参加しています。この演習の目的は播州の支配などではありません。来るべき大阪決戦に備え、大阪湾上陸作戦の演習です。本願寺で苦戦している織田軍の後方から一気に上陸作戦を敢行し、挟み撃ちにし、抹殺してしまおうという作戦の準備だったように思います。

ですから、英賀、飾磨に上陸を終えた時点で、演習の目的は達成していたのではないでしょうか。姫路攻撃などは片手間の「おまけ」といった気分でしょう。

とはいえ、この大軍に戦いを仕掛けていく官兵衛、知恵の限りを尽くします。

40、毛利水軍は、織田方の船を一隻残らず攻め潰してしまった。
「木津川口において敵船切り崩し、千余人を討ち取り、寺内に兵糧を入れ、大勝利を得た」という内容の文書を輝元の名で四方に発した。
天下の形勢は毛利方の優勢で展開しているということを宣伝するためである。

毛利にとって、織田との本命の戦はこの石山合戦です。石山本願寺は籠城して毛利の代理戦争を戦ってくれているようなものですから、食料弾薬などの補給路の確保は生命線です。一方の織田軍も補給路の封鎖こそが本願寺攻略の決め手です。陸上は完全に封鎖し、海上も伊勢、熊野などの水軍を配備して封鎖していました。その数は300隻です。

これに対して、毛利水軍は600隻の輸送船団を、300隻の軍船が守るという布陣で大阪湾の木津川口に近づきます。軍船の数としては300隻 VS 300隻、互角です。

ところが、この戦いは大人と子供の戦ほどの差で毛利軍の圧勝となります。織田方の軍船のほとんどは大阪湾の藻屑に消えました。

何が違ったのか。一つは水軍の統率力、組織力の差です。毛利の水軍は海賊大将と呼ばれた能島の村上武吉が指揮します。船団の組み方、船団の進退、船戦(ふないくさ)用の武器…すべてにおいて源平以来の伝統と、最新の技術を兼ね備えています。織田方の伊勢、志摩、熊野などの水軍は古来の武器しか持ちませんが、村上水軍は海外まで進出して海賊行為を働いてきていますから、中国、西欧の技術も身に着けています。その最たるものが焙烙(ほうろく)玉(だま)でした。

これは一種の手榴弾です。古くは博多に襲来した蒙古軍が使いましたが、要するに花火玉です。打ち上げ花火の中に金属片や石片を入れたものと思ってください。これに口火を付けて敵の船に放り込みます。爆発で兵士が吹き飛ばされます。可燃物があれば火事になります。さらには花火の芯に油紙を入れたものもあったようで、これは焼夷弾ですね。大きな弾にはひもを付けて、ハンマー投げのようにして敵船に放り込みます。

この宣伝の効果は絶大でした。東では上杉謙信が西上を始め、武田勝頼も動きます。

そして、織田方の松永弾正が寝返ります。信長にとって四面楚歌です。