水の如く 13 中国討ち入り

文聞亭笑一

秀吉の播磨出陣は、繁忙を極める織田軍団にあって新規事業に当たります。織田家の本拠である東海地方は武田の矛先を長篠で潰したことと、家康の忠実な従属があって安定していますが、近畿、北陸は問題だらけです。

信長にとって幸運だったのは、上杉謙信という人の性格でしたね。清廉潔白(せいれんけっぱく)というか、聖人君子というか、天下(日本国)への意欲がないことです。謙信にとって重要なのは、天下よりも関東で、「上杉」の名跡を受け継いだことへの義理、関東管領の地位を確立することこそがすべての戦略の目的でした。従って、第二次上京作戦の手取川の合戦で柴田勝家以下の織田軍を徹底的に叩きのめしましたが、上杉軍の強さを見せつけたところで矛を収め、さっさと越後へ引きかえします。

「西は織田でも、毛利でも、勝手にせよ。俺は関東に覇を立てる」

これが上杉謙信の目的だったと思います。それもあって、信長は長篠の戦で勝利した後、武田軍に追い討ちをかけていません。武田を壊滅し、信濃を手中に収めて謙信の本拠地・越後に近寄ることは、謙信の戦闘意欲をそそってしまうからです。このあたり信長の戦略眼は天才的ですね。信玄、謙信、北条氏康という天才的軍人が死ぬのを待ちます。

この3人に毛利元就と長曾我部元親を加えれば、戦国の5傑でしょうね。 政治、軍事、外交…どれをとっても傑出しています。

ただ、惜しむらくは天下、国家・・・いいかえれば国際感覚が不足していたことでしょう。

民主党政権の鳩、菅、野田、それに剛腕小沢を含めて、現代の政権交代派にも欠如していたのが「それ」だと思います。吉田茂、佐藤栄作に比べて小粒でした。安倍晋三が果たして吉田、佐藤の後を継げるかどうかは…、まだ、未知数だと思います。信長の真似をして国内をまとめたものの、朝鮮出兵の愚を犯した秀吉の真似をしないことを望みます。

49、「北国での事、西国にて償い奉ります」
と、秀吉が信長に大声で誓った言葉を、信長の祐筆の太田牛一は永く記憶していた。秀吉の意気込みが、想像できるようである。

太田(おおた)牛(ぎゅう)一(いち)は信長の祐筆(ゆうひつ)ですが、それ以上に「信長公記」「太閤記」の執筆者で、戦国物語の筋書きはその殆どが彼の記録をもとにして書かれています。どちらも、秀吉が監修し、自らを飾るように書き直させていますから「歴史的事実」とは言い難いのですが、他には大局的にこの時代を伝えた文書が少ないので、第一級の歴史文書として現代に伝えられます。今回のNHKは「黒田家家(か)譜(ふ)」をベースにしているようですが、これもまた黒田官兵衛、長政親子を英雄に仕立てた物語です。その意味では眉唾(まゆつば)でもあります。

ともかく、秀吉の姫路入りが実現しました。上杉上洛を当てにして反乱を起こした松永弾正の信貴山城が落ちて、2週間後のことです。秀吉はこの攻撃に参加していましたから、わずか2週間で長浜に帰って兵をそろえ、播磨へと遠征の軍旅にかかります。石田三成、片桐且元などの経済官僚が必死で準備したのでしょうが、準備不足は否めません。

兵数4千。中国偵察隊というのが実態で、秀吉が言う中国討伐軍とはほど遠い陣容です。

司馬遼は「進駐部隊のこの貧弱が、官兵衛や秀吉の播州工作を困難にする結果となった」と書いています。その通りだと思いますね。

50、名もなき足軽上がりであるそうな…。
であればこそ秀吉の能力に感嘆すべきところを、凡庸(ぼんよう)な土豪たちというのは人を見る価値基準を素姓におくのが普通だった。例えば三木城の別所氏などはこの秀吉の素姓に驚き、ついにはそれだけが理由でなかったにせよ、それを理由の一つに建てて従属する気持をなくしてしまうという事態にまでなるのである。

4千という軍勢が播州の諸豪族に与えた「貧弱」という印象は拭いようもない現実でした。しかも、その大将は草履(ぞうり)取りからのし上がった軽輩者です。一方の毛利は英賀(あが)の戦の折に、5千もの大軍をいともたやすく上陸させるだけの実力があることを、つい最近目にしていますから、不安の方が先行します。司馬遼は「凡庸な土豪たち」と結果論を言いますが、普通は…心配になりますよね。毛利と比べて強弱を判断します。

別所氏は城主の別所長治ではなく、叔父の別所重棟(しげむね)が出迎えに出ます。ほかの豪族たちもNo1ではなく、No2か3というところがあいさつに訪れます。「お手並み拝見」という態度ですね。

それに対して、秀吉は張り切っていますから尊大な態度をとります。「やぁやぁ我こそは織田家第一の武将なり」という態度ですから、思惑がすれ違って滑稽(こっけい)な挨拶になります。猿芝居…そんな感じでしょうか。

どっちもどっち…なのですが、秀吉の播州入りは最初から躓(つまづ)きます。

こういうことは我々の世代でも、日常の出会いに起こりがちな現象です。ミスマッチなどといいますが、お互いの期待がすれ違って、失望ばかりが増幅する現象ですね。期待が大きければ大きいほど…悲劇の素になります。

51、秀吉が、信長の代官として播州平定に乗り出すにあたって、その策源地としての城がなく、軍勢を収容する場所もない。官兵衛は思い切って自分の城をくれてしまえと覚悟した。異常なことと言わねばなるまい。武将にとって城とは自分の組織の肉体化した物というべきであり、敵が攻めてくればそれを死守するというのに、それを他人に遣るという。自分たちは裸になってしまう。

なんとも思い切ったことをしたものです。姫路城はその所有権の、法的根拠からいえば黒田家の財産ではなく、小寺政職のものです。いわば借地ですね。それを、一存でまた貸し・・・というより、秀吉に無償で譲ってしまうのですから常識外れも良い所です。

城に対する執着は、司馬遼が引用部分で説明する通りで、自分の血肉です。真田太平記での真田一族などの上州沼田城がまさにそれで、武田、上杉、北条を手玉にとりながら守り抜きますし、そのために家康とは終生争います。城を枕に討ち死に…というのは、自分の血肉そのもの、命の象徴だからです。ただ、このDNAが近世にまで残ってしまって、太平洋戦争ではガム、サイパン、硫黄島、沖縄へと玉砕の悲劇が連鎖しました。

官兵衛の判断は凄いですね。当時としては常識破りです。これは、官兵衛の思想として天下国家が中心にあったからでしょう。「姫路なんぞ、ちいせぇ、ちいせえ」という感覚ですね。事実、当時の姫路城は小さな砦にすぎません。

ただ、この決定には領民たちが大反対します。黒田家は家業の目薬の利益で税金が異常に安かったのです。それが普通水準になったらたまらんと、抗議に押し寄せます。

余談になりますが、世界歴史遺産になった姫路城は官兵衛よりかなり後で作られた城郭です。黒田から秀吉が譲り受けて拡張し、それを徳川の代になって池田輝政が大修築して出来上がったのが現在の姫路城です。

52、藤兵衛・政職にとって、いよいよ新事態を迎えてみると、官兵衛の存在が、播州の一角で奏(かな)で始めたリズムと自分の音階が、微妙に合っていないことに気が付く。
理屈でなく、感情と言っていい。が、感情と言うものを嗤(わら)えないであろう。理屈などというものは単独で存在するものでなく、感情の裏打ちがあって初めて現実化する。というより、理屈など、感情によって時に白から黒に変化するものに相違ない。

天下国家を想定した官兵衛の生き方と、お家第一・自己保全に執着する藤兵衛で音階が合うはずがありません。「どこか違う」とお互いの感情がすれ違います。とりわけ藤兵衛・政職にとっては、後継者・斎(いつき)のことが心配でたまりません。優秀な政治家・武人の素養があればまだしも、司馬遼が推察するように病弱・精薄ぎみであればますます不安になります。小寺家がスターダムにのし上がれば、かえって小寺家は窮地に陥るのではないか…。信長の苛烈さ、さらには秀吉のような氏素性のない者を抜擢する能力主義が、不安に輪をかけます。

日本企業はバブルの後、年功序列という人事政策を捨て、能力主義に転換しましたが、あの時もそうでしたね。年功を期待して、「事なかれ主義・安全第一」に徹していたベテラン社員は恐慌に陥りました。戦国末期によく似た現象が起きたのです。

人間社会における理と情の使い分け、実に難しい所です。組織が若いうちは理が優先しますが、固定化し、安定化するにしたがって情の世界が幅を利かせます。これを、私がお世話になった会社の創業者は「大企業病」と名付けました。中小企業でも同じです。組織の新陳代謝が無くなると、この病気に罹(かか)ります。日本経済のデフレ現象…新人採用の見送りによるリストラ風邪の蔓延(まんえん)が引き起こした人事病だと思いますよ。