乱に咲く花 16 乱に咲く花

文聞亭笑一

15号までは、NHKの筋書きのネタ本がありましたので比較的楽に描いてきましたが、ここからは暗夜行路、一寸先は闇です。今週の放映とマッチするネタを探せるかどうか?  手探りで進めます。先走りをすることが多くなると思いますが、あしからず……ご容赦をお願いいたします。

末期の松陰は、まさに狂人・狂信家でした。オームの麻原やビンラディンと変わりないと思います。「目的のためには手段を選ばず」というところまで達してしまうと、手の下しようがありません。ISとか言う面々も同様だと思います。

キリストは「信じる者は救われる」と言いますが、信じる者は説得できません。

松陰が門下生に要求したことは「破壊工作」だけに偏ってきています。その一環としての暗殺まで含めて、常軌を逸します。いかに松陰を尊敬し、信奉していたとしても、理不尽な要求は心の呵責に耐えません。「諸君!狂いたまえ」とは、宗教家の使う言葉で、これに反応できるのは世間知らずの若者たちだけでしょうね。オーム真理教の事件も、多分にその要素があったのではないかと推察できます。

振り返ってみると、安保騒動の時がそうでした。訳もわからず「攘夷だ」「反米だ」と叫びましたが、熱が冷めてみたら…当時は狂っていた、としか言いようがありません(笑)

宣伝、煽動というのは怖いものです。何となくその気になり、気が付いたら渦中に巻き込まれ、行くもならず、戻るもならず、ただ流れに乗って騒ぎまわるだけですね。そのリスクを抱えながらも、その自覚がなく、騒ぎを大きくすることが自分たちの使命だと勘違いしている多くの報道関係者の皆さんはインフルエンザウイルスかスギ花粉のような存在です。

こういう黴菌マンとは、用心して付き合いましょう。

松陰は革命の何者かを知っていたに違いない。
革命の初動期は詩人的な予言者が現れ、「偏癖」の言動をとって世から追い詰められ、必ず非業に死ぬ。松陰がそれにあたる。
革命の中期には卓抜な行動家が現れ、奇策縦横の行動をもって雷電風雨のような行動をとる。高杉晋作、坂本龍馬がそれに相当し、この危険な事業家もまた、多くは死ぬ。
それらの果実を採って、先駆者の理想を容赦なく捨て、処理可能な形で革命の世を作り、大いに栄達するのが処理家たちの仕事である。伊藤博文がそれに当たる。
松陰の松下村塾は、世界史的な例から見ても極めてまれなことに、その三種類の人間群を備えることができた。
 (司馬遼太郎)

司馬遼史観と言われる代表的な一節ですが、革命、改革の何たるかをよく示しています。これは幕末を模していますが、戦国末期の信長、秀吉、家康をこの文章の中に当てはめても通用しそうです。

信長が 蒸して搗きたる天下餅 秀吉丸め食らうは家康

松陰が 育てし芋を晋作が 石焼にして食らうは博文

まぁ、こんなところが世の常でしょう。時代と適性、これがマッチしたればこそ成功があると思います。誰しも家康や博文のように最後の役回りになりたいのですが、家康型、博文型というのは運の勝負です。♪ウサギ転げた木の根っこ・・・のような幸運は、数兆分の一でしょうね。待てば海路の日和あり…なら数日間の忍耐ですが、英雄になるチャンスは……?

おさらいになりますが、幕末維新の先駆者は「攘夷」を唱えた水戸藩の藤田東湖であり、そのスポンサーであった徳川斉昭です。そして全国を遊説して歩いた水戸藩の脱藩浪士たちでした。それに呼応したのが、大名では四賢公と言われた松平春嶽、島津斉彬、山内容堂、伊達宗城でしたし、思想家では吉田松陰、橋本左内などです。

安政の大獄で引っ張られた梅田雲浜などは、どちらかと言えばマスコミ的人物で、煽動家にすぎません。井伊直弼のやった安政の大獄はこれら煽動家を根こそぎ粛清しようとしたもので、松陰などは当初、幕府の眼中になかったのです。「松陰の落とし文」と言われる嫌疑は、実は、雲浜の偽証を証明するためのもので、松陰は証人として江戸送りになりました。

間部暗殺の話には、久坂も高杉も驚いた。皆自重論を説き、松陰を諌止した。
「僕は忠義をなすつもり、諸君は功業をなすつもり」
という有名な言葉を吐いて、松陰は殆どヒステリックになった。
前記の革命人の種類分けでいえば……、忠義は第一期人のことであり、功業は第三期人の人々の役回りをさす。
(司馬遼太郎)

この分類は…なんとなく現代にも当てはまり、自分のやってきた企業改革のような仕事を思い出して、複雑な気持ちになります。我々世代のしたことは、規模が小さいだけに死罪になるほどの罪でもなく、定年まで生きながらえましたが、辞職願を懐に入れて談判に臨んだことは何度かありました。まぁ、退職とは企業人として死罪相当でしょうか。クビですね。

改革は危機感がないと始まりません。大企業病というのは「少しくらい損をしても潰れることはない」という安心感が病原菌です。この菌、伝染力が強く、あっと言う間に社内に広がります。だいたい…持ち込むのは新入社員ですね(笑)「良い会社に就職できた」とルンルン気分で入ってきますが、先輩たちはそれほど「良い会社」とは思っていないのです。

・・・が、新人たちが「良い会社」と喜んでいますから「そうかなぁ」という気分になります。これが、下から上へと感染してきて、問題意識の薄い管理職などは、大した能力もないのに「俺は偉いんだ」という気分になります。

これに喝を入れるには危機感をまき散らすしかありませんねぇ。

「会社がつぶれる」「攘夷だ」と…悪い数字だけを並べて脅かします。

が、これを上から下へと広げようとしても、下痢と便秘で広がりません。下痢とは上からの指示をそのまんま垂れ流すことで、多くの管理職、リーダのやることです。現場では全く実感が湧きません。便秘とは、「脅しだな」と感づいた管理職が、指示を握りつぶしてしまうことで、知恵の働く人がやります。指示、方針が伝わりませんから…何も変わりません。

大企業になるほど消化器系統が長くなりますね。長くなる分だけ下痢や便秘が起こって、司令が伝わりにくくなり、気が付いたときには手遅れになりやすいのです。

現実認識から言えば、毛利元就以来の長州藩の「勤皇」というのは、多分に儀礼的なものであった。更には家名を修飾するだけのものにすぎなかったが、しかしそれをそう認識せず、この儀礼的事実を革命的思想にまで大転換させたのは、何と吉田松陰という青年であった。思想とは、一つの巨大な虚構であるだろう。

少し解説が要りますね。毛利家は鎌倉幕府の官房長官的役割を担った大江広元を家祖としています。これは昨年の「官兵衛」でも触れました。戦国期に毛利がのし上がっていくために、元就は天皇家とのつながりを強調し、自らが中国の覇者としての正統性を主張しました。

関が原の敗戦で防長2国に押し込められましたが、「朝廷への直接献金」という儀礼だけは特別に幕府に認めてもらい、江戸期を通じて続いていました。これは長州藩だけに認められた特例でした。幕府の管理外の扱いです。

引用した部分はそのことを指します。長州が京都人に人気があった…というのは事実で、多分にこの献金が京の経済を潤してきていたのです。その後の朝廷工作でも長州が一歩抜きんでるのは、元就以来続けてきた金脈の影響も無視できません。

そういう意味では水戸藩も勤皇の家ですが、こちらは水戸光圀(黄門様)が、大日本史を編纂する中で思想的に朝廷を尊崇するだけで、実利と言う点では貢献していませんでした。

幕末の政権争いで慶喜派と紀州派が対立した際にようやく賄賂を贈った程度です。やはり政治には金の力ですかねぇ。

事実認識の合理精神から革命は生まれない。
思想という虚構は、正気のままでは単なる幻想であり、大嘘にしか過ぎないが、それを狂気によって維持する時、初めて世を動かす実体になりうる。
  (司馬遼太郎)

戦国末期に徹底した合理主義から政権を握ったのが織田信長でしたが、どうやら司馬遼太郎の世界で信長は革命児ではないようです。確かに、古来の政治体制を維持したままでした。明治維新と言うのは社会制度の改革を民衆レベルにまで及ぼしたという点では革命的です。とりわけ固定化していた身分制度を破壊したと言う点で評価されますが、その改革が不十分だったがために西南戦争をはじめ、初期の内乱を各地に発生させました。

松陰の狂気が久坂玄瑞に乗り移り、禁門の変(蛤御門の変)を引き起こし、高杉晋作に乗り移って外国船砲撃や長州戦争になります。松陰に討幕の意志があったかどうかは実に疑問ですが、久坂、高杉などは明らかに討幕の方向で動いています。「幕府を倒し、徳川を政権から追い出して毛利がそれに代わる」というのが松陰の構想で、現在の民主主義とは全く考え方が違いますが、それはそれで…知らなかったのですから仕方ありません。

松陰の狂気は「間部老中暗殺の為、人数分の武器(鉄砲)と大砲3門を貸してくれ」と藩の役所に届けているあたりにもうかがえます。毛利藩そのものを討幕戦争に駆り立てようと計画していました。そういうところが…狂気でもあります。

今週はまだ、松陰の取り調べまで行くまい…と見込んで、司馬遼の革命論に終始しました。

取り調べの御白洲は、次回あたりでしょうね。