次郎坊伝12 井伊家壊滅

文聞亭笑一

徳川家康(松平元康)が今川家から独立し、織田信長へ接近したことは、周辺の豪族たちに様々な余波を浴びせてきます。井伊家だけではありません。三河・遠江国境地帯は言うに及ばず、信濃、甲斐、伊豆などの今川と国境を接する勢力が、それぞれの思惑で動き始めます。カギを握るのは、やはり大勢力である甲斐の武田、相模の北条で、当面の仕事が一段落したら三国同盟を破棄して領土拡大に野心をむき出しにしてきます。とりわけ武田信玄が欲しいのが海の道です。古代から東西の交通路として発展している北の海・日本海航路に乗りだしたいと北進を続けていたのですが、上杉の手ごわさに手を焼いていました。穀倉地帯の信濃は大方手に入ったのですが、物流ルートを確保しなくては、積年の夢である上洛への道が拓けません。いかに強力な騎馬軍団を擁していても、兵員の食料、馬の餌など大量の荷を運ぶ補給路がなくては遠征を続けられません。

「義元死す」の情報を確認してから、信玄の動きは明らかに変わってきました。北に向けては海津城を防御拠点として上杉に備え、上洛ルートを意識した戦略に切り替えます。まずは、海の道を手に入れるために駿河に侵攻します。その後は東海道を尾張に出て、木曽から南下する部隊に食料の補給を受けます。海上、陸上、東海道、中仙道、二系統のルートで補給しながら織田、斎藤といった勢力を蹴散らして京の都に武田菱の軍旗を掲げたい…そういう戦略です。

ただ、そのためには三国同盟を破棄して、今川氏真の守る駿河を落とさなくてはなりませんが、それには成算がありました。駿府には自分が追いだしましたが父親の信虎が健在です。信虎をしたって甲斐から脱出した黒鍬組をはじめとする旧臣たちもいます。彼らの罪を許し、帰参を認め、それなりの処遇をすれば寝返らせるのは容易でした。この黒鍬組というのは忍者部隊、兼工兵部隊のような存在で、今川義元も諜報活動では大いに活躍させています。井伊家への工作なども、山伏や僧侶、商人などに変装させて、情報収集と宣伝、霍乱(かくらん)に使っていました。その彼らの働きを、氏真は軽蔑し、疑い、無視します。当然のことながら、四囲の情報に疎くなりますね。

企業経営でもそうですが、情報源は多岐にわたることが大切です。組織を経由して上がってくる情報は、大組織になればなるほど、内部の思惑で汚れて、白も黒くなります。だからこそ会食、ゴルフなどの私的(?)付き合いが必要になり、生情報が必要なのです。組合員や若手との付き合いなど、気軽にしておかないと、とんだ落とし穴にはまります。

直親処罰

直親に裏切り、謀反の意向あり…と、今川氏真に報告したのは小野但馬です。

自らのサバイバル・生き残りのためか、井伊谷の支配権を我が手に収めるためか、それ以外の別の目論見があったのか・・・、本人の意図を示すものは発見されておりません。殆どの記録は「井伊家・家伝」を筆頭に、後に徳川政権の重鎮になる彦根藩主・直政(虎松)がまとめさせたものですから「但馬守直次の野心」ということになっています。結果的に一時期、小野直次が政権を取っていますから、井伊家に格別の忠誠心を持たなかったことは事実でしょうね。

今回のドラマは「幼友達3人・・・おとわ、直親、政次の友情」と云う設定で始まりましたが、その設定に無理がありそうですね。とりわけ直親が隠れ住んだ信濃・市田の里は、陰謀や政治とは縁の薄い長閑な里です。先日現地を訪ねてきましたが、直親が青春を過ごした松岡城は、実に風光明媚な天竜川河岸段丘の崖の上に建ちます。こういうところで育った者と、東西の情報が行き交う東海道の傍らで過ごした者が幼馴染の友情を保てるとは思えません。価値観が相当ずれるはずです。

小野但馬は井伊谷の政権奪取を画策したと思いますね。次郎を還俗させ、嫁にすれば万全の筋道が通りますが、次郎に拒否されたら、井伊一族を皆殺しにするしかありません。井伊家の後継候補をすべて抹殺すれば、小野家が今川の庇護のもとに井伊谷の当主になる筋道が出来上がります。地域の民政に関しては完璧に掌握していますからね。経理担当専務が、社長一族をすべて辞任に追い込み、会社を乗っ取るようなものです。内政、特に財政に関して井伊一族は殆ど掌握できていませんでした。

直親は危ない橋を渡っても、氏真に会えば生き残る可能性はあると踏んで、駿府に向かいます。武力攻撃を受けて、井伊谷から井伊一族が追放されることの方が重大事との判断です。既に氏真は「井伊を討て」との命令を発していました。

通過していく経路の掛川城は、氏真の執政・朝比奈の本拠地です。井伊谷攻撃のための兵も準備していましたから、何もせず直親を通過させるわけにはいきません。「謀反人の処刑」の名目で、直親一行に襲い掛かります。19人vs数百の兵・・・皆殺しです。感情的には桶狭間の鬱憤晴らしもあって、凄惨を極めたようですね。感情が高ぶると、人間は考えられないほどの残虐行為をします。子供の虐めもさることながら、戦争中の大虐殺に至るまで、信じられないような悪魔の仕業をやってのけます。

理性より感情を揺さぶる政治家、そして、それを煽るマスコミ、この二つがセットとなると危険です。今、世界中で過激政治家とマスコミとネットの連携プレーが進行中です。実に危ない・・・と思うのは私だけでしょうか。

直親が殺された場所は、掛川市十九首塚町と地名に残っています。ただ、首の数が一致しますが、平安末期に「平将門の乱」で処刑された将門以下の首の数も19です。将門の首塚は関東の至る所にありますからあまり信用できませんが、それでも「掛川で、将門の家臣十九人の首実験をした」という記録は複数あります。さらに、その首を都の持ちかえると祟りがあるから…と、この地に葬ったと伝えます。

偶然の一致かもしれませんが…十九首塚町、どちらの首でしょうか?

直平毒殺

放置されていた遺体を持ち帰り、晒されていた首をもらい受けて帰ったのは南渓です。直親は無言の帰国をし、近くの都田川の河原で荼毘に付されます。現在残っている直親の墓は、この場所です。大きな石灯籠があるのは、幕末に井伊直弼が寄進した物だと伝わります。

直親が処刑されたことで、今川の追及の手は一旦緩みます。一段落といったところですが、今度は氏真が父・義元の弔い合戦を企画します。自らも重い腰を上げて、三河・吉田城(豊橋)を取り返すべく進軍してきました。当然、井伊家にも出陣命令が下ります。次郎坊の祖父・直平を大将に出陣します。

ところが、氏真に追いつこうと進軍し、野営した白須賀で失火事故を起こしてしまいました。風向きも悪く、町中に飛び火して大火事になります。

これを、氏真は「井伊の謀反(むほん)」と勘違いします。前には織田・松平の連合軍、後ろから井伊に攻められたら危うい…と、情報も確認せずに掛川まで逃げ帰ります。これまた軽率と言おうか、情報不足が否めませんね。取巻きの武将たちも腰が軽すぎます。

後に、失火事件であったと判明しますが、氏真には井伊家への不信と、自分に恥をかかせた恨みが強く残りました。大将自らの敵前逃亡ですからねぇ…、みっともない話です。

この恨みか、氏真は井伊直平に「磐田の天野を攻めよ」と命令します。

直平は白須賀から井伊谷に戻る間もなく、天野攻めに向かいますが、途中の曳(ひく)馬(ま)(浜松)で休憩します。75歳ですからねぇ。休み休みいかないと身が持ちません。浜松城内か、それとも休憩地で城主・飯尾豊前の奥方・田鶴から茶の接待を受けます。これが毒入りのお茶でした。出立して、しばらくして毒が回り、落馬して死んでしまいます。天野氏は田鶴の実家です。実家を守ろうという田鶴の判断か、それとも氏真からの差し金か、はっきりしません。

遠江の地侍たちは、氏真の敵前逃亡と直平毒殺事件を機に、形の上では今川に従っていても、心情的に今川離れが加速します。離反のチャンスを窺うようになります。内側から崩れ始めます。

三河一向一揆

松平にとって遠江侵攻の、またとないチャンスです。織田の援軍がなくとも、天竜川の西岸までは一気に版図が広げられます。が、それをしませんでした。しないというより…できなかったのです。

この当時、三河では一向宗(浄土真宗=本願寺)の勢力が家康の施政に反旗を翻し(ひるがえし)、各地で一揆(いっき)を起していました。しかも、西三河の地侍には一向宗信徒が多く、家康に公然と反旗を翻す家臣が続出しています。後に、家康の知恵袋・政治顧問になる本多正信は、門徒勢の総大将のような役割を担っていますし、家老である石川家も祖父と息子の数正は家康派、父親は門徒派と一家がバラバラになっています。更に、新参の地侍たち、酒井、水野、戸田などは日和見します。三河・松平軍団といっても、中はバラバラで、しかも三河国内が内戦状態ですから、外征などできるはずがありません。

この時期、大阪石山本願寺の蓮如(れんにょ)は、各地の信者たちに「戦闘指示」を出しています。現在のISのような感じですね。「武士の支配から脱して宗教王国を築く」という旗印を掲げます。有名な越前の一向宗国家を手本に、加賀、伊勢長島、そして三河と一向宗の強い地域は、門徒信者による軍事蜂起が相次いでいました。三河は、現代のシリアの内戦のような混乱状態でした。

直由、左馬之助討死

氏真の命令で、磐田の天野を討ちに行った直平を殺害した、曳馬城の飯尾豊前は、今川氏真に反旗を翻したことになります。この家は元々、三河の吉良家の家臣でしたが、義元の時代に今川に臣従した新参の家です。その意味では井伊家と同様の立場でした。

今川から「曳馬を討て」の命令が井伊に飛びます。「直平の弔い合戦をさせてやる」と恩着せがましく命令してきます。幼少の虎松を除けば、井伊家は既に直系の男子総てが死に絶えています。傍系の中野直由が大将となって、曳馬攻めに向かいます。井伊勢に、援軍として今川から千人の兵が着き従いますが、戦の先陣は井伊家がやらざるを得ません。

直由の指揮で、城攻めが始まります。かなりの激戦になりましたが、戦の最中に直由は鉄砲に撃たれて戦死します。直由の副官として従っていた新野左馬之助も、同じく鉄砲でやられます。井伊の兵士たちの半数以上が戦死したとも言われています。

これで・・・井伊谷から、主だった男たちは・・・すべて消えました。

直虎誕生

公式な地頭職である中野直由が討ち死にしたのは、1564年9月15日です。次郎法師が還俗して、直虎になり、地頭職に任命されたのは1565年です(日時不明)

この間、色々と政治や外交があったのでしょう。ともかく、次郎法師を跡継ぎにして、井伊家を存続させたのは南渓和尚です。今川に対しても相当な政治力があったと考えられます。普通だったら、お家断絶ですからねぇ。次郎法師(男)から直虎(男)へ…対外的に、この嘘を貫き通してしまいます。

しかし、今川にはバレていますから、「虎松の後見役」という位置づけにします。