どうなる家康 第9回 財源争奪戦

作 文聞亭笑一

どうやら文聞亭の記事は一話ずつ先走りしてしまっています。

先週で講和、休戦条約締結かと思っていましたが、休戦どころか家康が狙撃されて危うく命を落とす場面まで・・・でした。

家康に鉄砲玉が当たった・・・というのは色々な小説に出てきますが、どうやら後世の作り話で「神君の運の良さ」「神仏の加護」を演出するために挿入されたエピソードのようです。

今回の大河では一揆方の参謀である本多正信が狙撃したという説を採りますが、火坂雅志の「天下家康伝」では鉄炮に熟練した根来衆が本山・石山本願寺から派遣されて来て、騎馬から狙い撃ったとしています。

ともかく、この時代に鉄炮は貴重品で、実に高価な武器で、更に熟練を必要とする武器です。

訓練のできた射手が大勢いたわけではありません。

火縄銃の発射時の反動は相当な物で、素人が扱って命中できる物でもありません。

家康の胸と肩に当たったが貫通しなかった・・・というのが従来からの説ですが、今回は頭、兜に当てましたね。まぁ、物語・小説の世界です。鉄炮に撃たれても死なない・・・だから神君です。

三河木綿

三河一向宗の寺は財政豊かです。

寺の財源は何だったのか? 

それが不思議でしたが火坂本には「財源は三河木綿の商いである」という説が載っていました。

三河で木綿が栽培された歴史は古く、平安時代初期の799年、幡豆郡福地村に漂着した崑崙人が綿花の種子と作付けを伝えたとされています。

もともと三河国は繊維産品が特産品だったようで750年には朝廷への納税、租庸調の「調」として「絹白糸」を献上したと「正倉院文書」にあります。

絹糸を献上していたのは11カ国あったようですが、その中では抜群の品質で、他国の物より15%ほど高値で取引されていたとも言われます。

他国物は「絹糸」三河物は「絹白糸」と表記されるだけ特別だったのでしょう。

その伝統でしょうか、三河の繊維産業は絹糸だけではなく木綿の生産もしていたようです。

戦国時代の庶民の着衣材料のほとんどは青麻でしたから、木綿は高級品です。

この木綿商売の利権を握っていたのが三河の一向宗の寺だったようで、上方の繊維問屋と結びつき、財源としていましたね。

その意味では三河の田舎とは言え、高価な鉄砲を買う金もあったでしょうが、実際に狙撃事件があったとすれば、熟練の根来衆が射手だったと考えた方が納得できます。

講和後の話ですが、寺への不入権(治外法権)は認めますが、木綿の専売権は取り上げていきます。

織田信長の楽市楽座に習った措置で、この部分で活躍するのが京の呉服商・茶屋四郎次郎です。

徳川家の商売のほとんどを取り仕切ることになります。

家康の経済参謀というか、財務担当にもなっていきます。

税金は取らぬが、木綿の取引は領主と茶屋で直売とする、寺への権利金、礼金などが入らないという事になって・・・寺の財政は細っていきます。

金の切れ目が縁の切れ目、それは信仰の切れ目・・・寺内町も寂れて・・・人が寄りつかなくなります。

お布施がなければ寺は成り立ちません。

一向宗の僧侶たちも退散していくしかありませんね。

本証寺の空誓は美濃・加茂郡の足助に去ります。

勝鬘寺の住職は信濃国に逃げ、上宮寺の僧は尾張へと逃げ出しています。

この時期から20年間、三河では一向宗が禁令となりました。

楽市楽座

家康伝からは外れますが、信長が始めたとされる楽市楽座について調べてみました。

なんとなく知っているようで、実はまともに勉強したことがありませんでした。

入試が済んだら忘却の彼方に押しやり、歴史物は華々しい戦闘場面だけを追いかけておりました。

「座」とは商工業者や、芸能者たちの組合組織、同業者組合です。

同業者が集まって会合をする、その場所や、業者の座る座席を「座」と称したと言います。

祇園の綿座、北野社の麹座、大山崎の油座、摂津今宮の魚座、鎌倉の材木座などが有名です。

その、集会の場所を提供したのが大きな寺(本山)や神社で、商売上の約束事、制度作りなどには高学歴の僧侶や神官が手助けしました。

同業者組合ですから、組合に入っていない者はその事業に参加できません。

組合に公が認めた専売権があります。

その利権料を吸い上げて、為政者に献上する役割を担ったのが寺社です。

元々はコンサルティング、事務代行、納税業務アウトソーシング程度の役割だったのですが、高学歴の寺社と、字も書けない弱小商工業者です。

寺社中心の権力組織となっていきます。

お上に認められた業者という「座の権利」と、どこの市場で商売できるかの「市の権利」、この二つが「座」によって定められます。

座(組合)とは名ばかりで、寺社の権利、権益になりました。

とはいえ業者にとっても利権を守れるメリットがあります。

自分たちで市を開く場所も、金もありませんが、寺や神社が定期市を開催してくれます。

一日市場、四日市、八日市・・・などなど、座に入り、座の利用料を払えば商売ができます。

一人で町中に店開きしていても客は集まりません。

行商は荷を負って歩き回るのが大変です。

が、市が立てば・・・座っているだけでお客さんが集まります。

商売に好都合なのです。

かくして鎌倉期から300年以上続いてきましたが、制度は時と共に複雑になり、中間搾取の量が増してきます。

更に武士の世になり、地方分権が進んでくると、里座といわれる地方だけの「座」が出来、中央の「座」とのせめぎ合いも起きます。

さらに戦国期に入ると海外との交流も活発になり、「新事業」「新商品」が開発されます。

座がありませんから勝手に商売します。

そういった経済面、流通の混乱が起きたところで、地方領主・戦国大名たちが商売の利権を手に入れようと動き始めました。

最初にやったのは、実は信長ではなく、利権の巣窟・京都のお膝元である近江の大名・六角家でした。

ただ、六角家のやったのは楽座の方で、流通の自由化、規制緩和である楽市と楽座を同時にやってしまったのは信長が初めと言うことになります。

信長が始めた楽市楽座は全国に広がっていきます。

しかし、言葉通りの自由化になったケースは少なく、家康がやったように「領主と御用商人」がセットになって実行する統制経済の「収税機構」「集金機構」にもなりました。

「越後屋、おぬしも悪よのぉ」

「ウッシシ・・・、そういうお代官様こそ・・・」

まぁ、楽市楽座が生んだ弊害の一つでしょうね。

統制経済が持つ欠点でもあります。

ちなみに歌舞伎座に代表されるように芸能界では今も「座」が生きています。

落語なども高座ですよね。

そして今や昭和レトロですが、我々の青春時代を彩った映画館は「◯◯座」でした。

あれも「座」の延長でした。

中高生で映画館に行くのは不良少年???・・・ 懐かしい。