紫が光る 第11回 十二単
作 文聞亭笑一
前回は、三郎とまひろが結ばれる・・・と言う場面で終りました。
そういうことがあったのか?? あったという証拠(記録)はありません。
では、なかったのか??? これまた「なかった」を証明するものはありません。
時代考証の難しいところですね。
ドラマですから・・・脚本家の想像にお任せです。
相思相愛なのに身分の差で認められない悲恋・・・源氏物語執筆への原動力となった要素かも知れません。
平安中期、女流文学者達が活躍した時代は枕草子のような随筆、源氏物語のような小説、紀行文、歌物語・・・そして日記など多くの書物が残されています。
紫式部も、道長も日記を書いています。
どちらも筆まめでしたが、まひろの「紫式部日記」にも道長の「御堂関白日記」にも二人の出逢い、恋の進展には触れられていません。
小右記
この時代を語る一級の資料と言われるのが、藤原実資が書いた「少右記」です。
時の権力者におもねることなく、是は是、非は非と明快に論じているところが、この日記の歴史的価値が高いと評価されている所以です。
しかも作者は20年近く政権の中枢にいて、政略、政争のまっただ中にいた・・・そういう人の「日記」です。
前回の放送では「右大臣家のやり方はおかしい!」と憤懣やるかたなく、やけ酒を飲んでいるところを妻から「それなら日記にそう書いておけば・・・」と言われていた男・藤原実資が登場しました。
俳優は醜男の(^.^)秋山竜次です。彼が小右記の作者です。
小右記・・・長編です。
978年~1032年の50年以上にわたって政治の動きを記し、自分の意見を述べています。
文聞亭の笑詩千万などはたったの20年、それも外野席からのたわごとですから比較になりません。
しかも、そういう反政府、非政府的な文書が焚書されずに残ったというのも凄いことですね。
耳に痛いが、教訓になる意見・・・として後世の教科書になったようです。
藤原実資・・・藤原北家の本家筋・小野宮流の正統です。
クーデターを実行した兼家の右大臣家などの九条流が政権を取るのは「片腹痛い」と言いたいところですが、政治力で敵いません。
この人は政権の中枢にあって、なんと6代の天皇に仕えています。
63代・冷泉天皇の時に蔵人(内閣府)に入り、64代・円融天皇、65代花山天皇、右大臣家のクーデター後の66代・一条天皇では蔵人頭(官房長官)を務めます。
更に、道長の政権では一目置かれる存在となり、右大臣に昇進しています。
67代・三条天皇、68代・後一条天皇と政権中枢を支えます。
小右記の「右」は右大臣の意味です。
賢人右府(教養、見識に秀でた右大臣)、清廉潔白、直言居士などの形容がされますが、その根底にあったのは藤原家正統の誇りだったと思われます。
そして、その誇りを支えていたのは氏長者として代々伝わる膨大な資産、財産でした。
全国の自家荘園からの収入は莫大でした。
ちなみに天下を取った道長が詠んだ句
この世をば 吾が世とぞ思ふ望月の 欠けたる事のなしと思はば
が載っているのは「小右記」です。
「御堂日記」でも「紫式部日記」でもありません。
道長の栄進を綴った赤染右衛門の「栄花物語」でもありません。
十二単(じゅうにひとえ)
先週号で「まひろはいつも同じ衣装・・・」と書いたら、早速新しい着物を着ていました。
父親が花山天皇政権で式部丞(文部省次官)に任官して、すこし金回りが良くなったのかも知れません。
とはいえ・・・主演の吉高さんには黄色が似合いましたね。
平安時代の女性の服装と言えば十二単を連想しますが、本当に12枚着ていたのでしょうか。
答えはNo!で、標準的正装では9枚だったようです。
図をご覧ください。
下着の上に5枚の着物を重ねます・・・五衣
その上に内衣
さらに表衣
その上に唐衣
後は着こなしの妙で、内衣や唐衣などの裏地を見せて枚数を多めにしたように見せます。
室町時代に24枚まで着込んだ女房がいたようですが、さすがに重すぎて一歩も歩けなかったと言います。
現在、十二単を着るのは即位の時など皇室行事だけですが、京都には十二単を着た結婚式をやってくれる式場もあるようですね。
平安時代の普段着は五衣で、外出時に表衣か唐衣を羽織ります。
それでも夏場は暑いので五衣の枚数を減らし、裏地で色を増やす工夫をしていたようです。
今回のドラマでは着衣の色が鮮やかに発色していますが、この当時に化学染料はありません。
すべてが草木染め、植物性染料です。しかも紅花などは渡来していません。
赤の染料は乾燥したアザミの根っこです。武蔵国・橘樹郡の税(調)はこのアザミの根でした。