海人の夢 第46回 孫子の兵法

文聞亭笑一

しばらくドラマの筋を追うことから離れていたら、先読みが出来なくなりました。

が、いよいよ源平合戦に場面に入りそうですね。子供のころは、ここからのストーリが面白くて、牛若丸、義経の活躍をわくわくしながら物語を追いましたが、「清盛」を主役に置いて物を書くとなると、ちょっとブルーな感覚になってきます。平家の不甲斐なさが次々と顕(あら)わになってきます。「こんなはずじゃなかった。なぜだ?!」というのが清盛の気持ちでしょうが、清盛が思うほど彼の息子や孫たちは成長していなかったのです。

企業でもそうですが、二代目、三代目になると、どこかでボタンを掛け違えて、世間の常識から離れていきます。彼らの「あたりまえ」が、実は世間の非常識になってしまうのです。それを警戒して創業者は息子を修行に出しますが、多くの場合に修行先は取引相手の企業になります。そうなれば、受け入れる方は特別扱いをせざるをえません。御曹司を受け入れるとなれば、「馬鹿野郎!ぼやぼやするな」が「気をつけなさいよ」になります。アホ、バカ、マヌケ…などという罵詈(ばり)雑言(ぞうごん)は遠慮しますよね。

清盛の息子たちは、成人したら既に殿上人です。孫たちは元服したら殿上人です。

祖父の忠盛、父の清盛が、藤原一門から受けた凄惨な虐めなどのことは、全く経験がありません。尾張守、常陸介、薩摩守などと辞令では地方赴任をしますが、一度も京を離れたことのない者ばかりです。この連中が戦争の総司令官として富士川、倶(く)利(り)伽羅(から)峠(とうげ)などに出陣するのですから、土地勘、天候、民意などわかるはずがありません。

孫子の兵法で、まず最初に言われていることは、「道天地将法」の五項目です。

道とは大義名分と世間の信頼です。官軍、正義の味方でないと協力が得られません。

天とは時の運、天候を含めて、追い風に乗ることです。

地とは地の利。地理的な問題を含め、戦いの場を選び、熟知していることです。

将とは部下の指揮官たち、彼らが優秀で、勇敢でないと用兵を誤ります。

そして法とは、兵たちの規律です。進めといったら進む。退けと言ったら退く。

この五つの項目で、源平を比較したら、この後の結果が読めてきます。清盛の息子や孫たちは、ことごとく孫子の兵法に違反し、負けるべくして負けてしまいました。

清盛が、自分の夢を実現しようと焦るあまり、教育を疎(おろそ)かにしたツケでした。

現代の民主党政権、文科省官僚の考え方、大企業の人事部の発想、みんな平和ボケしています。危ないですねぇ。中国、韓国に負けて当然ではないでしょうか。

もう一度、国家の、企業の、基本戦略を見直して欲しいものです。経済成長は、基本戦略を間違えていたら、何をやっても「こんなはずではなかった」の繰り返しになります。

孫子のついでに、有名な次の言葉を反芻して、選挙の投票に臨みたいと思っています。

敵を知り。己を知れば百戦危うからず

敵(己)を知らず、己(敵)を知れば五勝五敗す

敵を知らず、己を知らざれば百戦危うし

67、摂津の多田蔵人が兵を集め都に攻め寄せる支度をしていると聞いて、清盛は大いに怒り、直ちに福原から上洛すると、摂政基通に、ただちに以仁王を捉えて入るするように迫った。以仁王の謀反が明確になったのは摂津ばかりではない。熊野の本宮からも使者が来て、はっきりと謀反を報告した。

以仁王の令旨を使って謀反を起こす決意を固めた頼政は、新宮十郎を使って同士を集めにかかります。当然のことながら関東で兵をあげ、その鎮圧に向かった平氏の留守をついて都を占領しようと考えます。畿内の勢力は頃合を見計らって立とうという作戦でした。

反平家の勢力は摂津の多田蔵人、大和の宇野七郎、近江の山本義経、甲斐の武田信義、木曽の義仲、奥州藤原のもとにいる九郎義経、そして旗頭には伊豆にいる頼朝を押し立てます。これだけの多数を糾合するのですから、長期にわたる秘密保持が重要でした。

ところが、功を焦った摂津の多田がフライングします。兵を集め都に討ち入ろうと目立つ動きをしてしまいました。そればかりではありません。熊野新宮や那智の兵たちが十郎行家の立場を良くしようと、平家方の熊野本宮を攻めてしまいました。行家の工作は、かなりガサツだったともいえますね。

68、園城寺に籠ったのは以仁王はじめ、源三位頼政とその子の伊豆守仲綱、次男の兼綱など、およそ二百騎である。これに比叡山と興福寺の僧兵たちが駆けつけてくれれば、勢いは強大になると頼政は期待した。

陰謀の露見を知った頼政は、もはや戦うしかなくなりました。畿内にある勢力で頼れるのは僧兵たちだけです。が、清盛の方が動きは機敏でした。福原から駆けつけると、まず、比叡山の明雲に使者を送り、近江米1万石と反物などの物資を寄贈して買収してしまいます。それも、約束手形ではなく現物を運び上げてしまいますから、僧兵たちは分け前の分捕りあいで、戦争に出かける気など全く失せてしまいます。

興福寺の方は、当初、頼政の援軍に駆けつけようと奈良を出たのですが、比叡山が不参加とわかって勝ち目がないことを悟り、途中から引き上げてしまいました。

こうなれば…頼政には全く勝ち目はありません。園城寺もいつねがえるかわかりませんから本拠の河内に戻ろうと、宇治まで戻ったところを平家軍に襲われます。

69、頼政は釣殿の柱に辞世の句をしたためた。
埋もれ木の 花咲くこともなかりしに 身の成り果てぞ あはれなりけり

頼政は宇治の平等院に立てこもります。この地は前に宇治川が流れていますから、その川を防衛線にして戦えますが、僅か二百騎ばかりで数千の平家と戦うのですから、全く勝ち目はありません。平家が200人の戦死者を出したということは、死に物狂いで戦ったことの証明にはなりますが、いわば玉砕ですね。次男の兼綱だけでも生き残らせようと奈良に向かわせますが、これも討ち取られてしまいます。

辞世の歌ですが「あはれ」は「哀れ」の意味ではありません。「天晴れ(アッパレ)」の意味で、自分で自分を褒めているのです。つまり、「ずっと埋もれ木のような人生だったが、最後に花を咲かせた自分はアッパレ武士の鏡だ」と言っているのです。

以仁王は、形勢不利と見て奈良に逃げようと抜け出しますが、流れ矢に当たってあえなく最期を遂げました。このことが伝わり、途中まで出てきていた興福寺の僧兵たちも引き上げてしまいます。

この戦いは源氏と以仁王の自爆と言うだけに終わりましたが、以仁王の「令旨」だけが生き残って、その後も反平家の勢力をつないでいきます。

70、かえって源氏が旗を挙げてくれれば、天下を治めるのに都合が良い、と清盛は考えている。 (中略) 平家一門に敵対するものを、ことごとく押しつぶしてしまえる、という確信が清盛にある。

清盛は自信満々です。チャンス到来とばかりに、反乱分子の粛清にかかります。

まずは園城寺、以仁王や頼政を匿った罪で攻め込みます。4男の知盛、末弟の忠度の二人を差し向け、徹底的に叩きます。これは後白河法皇への面当てでもあり、比叡山への応援でもあります。二人の戦い方は見事で、一点の隙もありませんでした。

この先、この二人を軍事司令官として、関東、東山道の敵に当たらせたら、源平合戦の結末は違ったものになったでしょうが、宗盛はなぜかこの二人を嫌い、指揮官に任命していません。とりわけ、歳の近い伯父の忠度は、文武ともに優れていたのですが、宗盛にはそれが面白くなかったのかもしれませんね。嫉妬心なのかもしれません。

そうしておいて、福原遷都を実行します。これに一番驚いたのが京都の公家たちで、前触れも全くなしに実行してしまいました。福原(神戸)は当時、町並みはありましたが、首都機能は全くありません。一番立派な清盛の館には清盛が住み、二番目に立派な頼盛の屋敷に天皇を住まわせ、これを御所代わりにします。建物だけを見たら、まさに下克上、天皇よりも清盛の方が偉いと見えます。しかも、高倉上皇にはあてがう屋敷すらなく、上等な民家を仮住まいにします。更に、宿敵後白河には三間四方の三方を板で囲った牢屋のような家をあてがいます。同行した公卿たちはこれを「楼御所」と呼びましたが、腹の中では「牢御所」と書いていたでしょうね。全くその通りで、後白河屋敷の周りは大勢の軍兵で十重二十重に囲んでいました。まさに、後白河こそ悪の根源…という扱いでした。

まぁ、そうされても仕方がないほど後白河法皇は悪党ですが、世間はそうは見ません。宗教として、天皇こそ神であると言うのが当時の常識ですから「神を牢屋に入れるなどは悪逆非道の限り」と民衆の顰蹙を買ってしまいました。清盛にも、自分の寿命は読めなかったようです。