海人の夢 第44回 鬼界が島

文聞亭笑一

前2回にわたって、鹿ヶ谷の陰謀について触れました。この事件は、天皇家にとっても重大事件でしたが、平家にとっても一門に亀裂が入る事件になりました。天皇家では、法皇自身が陰謀の主犯であるということ、そして法皇の取り巻きが一網打尽にされ、遠島や斬罪となったところから力を失い、天皇の行政的役割が重くなりました。院政から、一時的に親政に戻りましたね。その結果として…重盛の責任が重くなります。

責任者は、表向き、関白基房、右大臣兼実ですが、清盛の意向を窺(うかが)って、重盛の判断に頼ってきます。が、重盛は、清盛とは哲学が異なります。「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」の板ばさみですから、だんだんと鬱状態になってきます。

現代の企業経営でもそうですが、株主本位の利益至上主義を採るか、それとも従業員の幸福度を採るかで、経営者は悩みますよね。両者のバランスを如何に取るかが、経営者の真骨頂ですが、企業が大きくなり、株主が分散してくるほどに舵取りが難しくなります。

最近では、欧米の経営思想が中心になり、短期利益追求型が主流になりましたが、その結果として世の中が殺伐としてきました。日本的経営の根幹が揺らいでいます。まぁ、人本主義経営から、資本主義に変わった結果ですから、ある程度は仕方ありませんが、行き過ぎも目立ちます。「企業とは、法律で存在を認められた社会の一員である」「世のため、人のため」を忘れた経営は、いずれ破綻するでしょう。

72、後白河法皇の発願で、清盛が建立した蓮華王院は、柱の間を数えて三十三間あるので、この頃では俗に三十三間堂とも呼ばれていた。ここに五重塔が出来上がったのは、もちろん法皇の発願だが、建立に力を尽くしたのは清盛であった。

余談になりますが、三十三間堂は、京都の寺社の中で文聞亭が最も多く通った寺社仏閣の一つです。千躰の千手観音像に睨まれていると、なぜか畏れのようなものが体を包み込み、正直にならざるを得なくなります。外との境の障子の前に座り込んで、仕事上の課題をあれこれと考えました。観光客が前を通り過ぎたり、立ち止まったりしてわずらわしく思われますが、一向に気になりません。仏様を見ているのではなく、ぞくぞくするような緊張感の中で、仕事上の論点整理をしているのですから、視覚に飛び込むものは関係ありません。ときに、ある仏像が商売敵に見えたり、交渉相手に見えたりします。それをじっと睨んだからといって、特別なアイディアが浮かぶというものでもありませんしね(笑)

三十三間堂は、建物も仏像も、みな国宝です。そのせいか?宗教上の理由か?写真を撮らせてくれないのが残念ですが、その代わりに、文聞亭のヘタクソな絵を載せておきます。風神と雷神が千躰の観音像の両脇を守ります。

建物は、度重なる戦乱で何度も焼けましたが、風神、雷神と七体ほどの観音像は、清盛の時代に造られたものが残っています。

73、わしは、平家一門のためのみを考えてはおらぬ。天下に、平和を来たしたいのだ。今のような有様では、公卿は庶民の暮らしを知らず、武士は公卿に牛馬のように使われて、出世の望みもない。もはや天下の政治は公卿には任せられぬ。我らが武士の一門であること、決して忘れるな。いかなる高位高官に任じられようとも、我らは公家の出ではないのだ。どこまでも武士の一門であること、忘れるな。

平和とは何か? 簡単そうで、実は難しい問題です。その良い例が今の日本社会で、平和なのか戦国なのか、よくわかりません。戦争がない、徴兵制もない、微量のセシウム如きでワイワイガヤガヤやっている姿は平和そのものですが、労働環境は、まさに戦国です。気を抜いたら、減俸候補か、リストラ予備軍になってしまいます。隠居たちも、穏呑としていられません。何がしかの活動に参加していないと、近所から無視され、孤独老人の道に追いやられます。

平和とは、無為無策で得られるものではありません。不断の努力で、日々更新していくものなのです。その一例が年金制度。制度が作られた当時は、イケイケドンドン、経済成長の真っ只中でした。一円の支払いで、10円の年金がもらえ、長生きすれば百円ももらえた年代があります。その方々は、あの、苦しい戦争で「欲しがりません、勝つまでは」と、貧しい生活に耐えてきた方々です。当然の報酬といえます。

次の時代、文聞亭などの時代は企業戦士の時代です。家庭をないがしろにし、親方○○と、働き蜂に徹しました。その結果、何とか年金をいただいておりますが、「いずれなくなるだろうな」と、いわば諦観している世代です。

そして現役の第3世代の皆様。「もらえないものは、払いたくない」…当然の感情でしょうね。ですが…、世の中、回り持ちです。誰かが払わないと、誰かはもらえないのです。

福祉とはそういうことで、福祉大国を目指すなら、損得勘定は捨てねばなりません。

出世とは何か? 係長より課長、部長より役員…、より責任が重くなり、鬱病の危険性の高い仕事に移ることです。ハイリスク・ハイリターン、当たり前の話で、嫌なら万年平社員が一番幸せです。でも…みんな存在感を求めて、出世したがります。「給料が上がる?」というのは幻想で、上がった分は、部下への投資で消えていきます。

が、最近は投資する人が減ったようですね。それこそが日本経済の停滞の遠因で、日本的経営の崩壊に拍車をかけているのではないでしょうか。「和を以って尊しとしとなす…」という聖徳太子の教えは、「企業の宝は人である。仲間こそ組織の力」という信仰です。

清盛は、当たり前の人情が発露される世を「平和」と思っていたのではないでしょうか。

74、法皇が都に帰ると、重盛の提出した辞表は、帝の許から却下された。続いてお言葉があり、今までどおり内大臣として自分を補佐するように、というお言葉であった。
それでも重盛は、小松にある自分の館から出ようとせず、病のため、と称して参内をせずにいる。

重盛にとって、鹿ヶ谷の一件で妻の兄、藤原成親を備前・児島に流罪に処したのは、痛恨の極みだったと思います。平家の棟梁といわれながらも、黒幕である親父の威光には勝てずに、公卿連中からは軽く見られ、一門や部下たちも、自分よりは清盛の意向を推し量って行動します。

その典型が、流罪にされた義兄、成親への対応でした。成親は流罪地で、監視に当たる平家の武士たちから過酷な扱いを受けて、死んでしまいます。その子の成恒も、備中に流され、更に鬼界が島へと再配流されます。これは、何とか早期に赦免を受けようと工作している重盛の意思とは全く逆で、棟梁としての面目を失ってしまいます。

「…とに、もう。やってられねぇよ」というのが重盛の心境ですから、参内どころではありません。こう口にして、不貞腐れることができれば、鬱病などにはかからないのですが、マジメな重盛には開き直りも、不貞腐れもできません。悶々とするばかりです。

75、7月になって、かねての噂が実現した。
それは、去年の鹿ヶ谷の陰謀の罪を問われて、鬼界が島に流されていた藤原成恒、平康頼の二人が、都に戻されたことであった。ただ、俊寛僧都だけは、最もその罪が重い、とされて、許しを得られずにいる。

成恒、平康頼の二人が許されて都に戻るまで、約一年かかりました。鬼界が島は奄美列島の東シナ海側にある絶海の孤島です。たまに、漁民がやってきますが「鳥も通わぬ」という表現は、決して誇張ではありませんね。尖閣列島のようなものです。

が、平康頼が清盛の弟・教盛の娘婿であったことから、教盛が定期的に食料などを届けていました。「謹慎していれば、きっと許される」というアドバイスもしていたと思います。

康頼、成恒の二人は、熊野権現に祈りを続け、千本の卒塔婆を海に流すなど、必死で反省とマジメさをアピールします。

一方、俊寛は「世迷いごとには騙されぬ」と我を張って、参加しません。

平家物語では、流した卒塔婆のうち、一本が厳島神社に流れ着いた…とありますが、これは嘘でしょうね。対馬海流が五島沖から玄界灘を通って、瀬戸内海までという確率はかなり低いと思います。おおかた、教盛の部下が、鬼界が島近海で拾い上げ、京に帰る途中で厳島の大鳥居に引っ掛けておいたのでしょう。教盛や時忠なら、このくらいのインチキは平気でやります。「殊勝なり」として二人は許されますが、俊寛だけは取り残されます。結局、死ぬまで迎えは来ませんでしたし、教盛からの援助も途絶えて、悲惨な末路を迎えることになってしまいました。意地を通そうと、仏法ばかりに拘ったことが裏目に出ました。まぁ、神様、仏様…使えるものは、何でも使うほうがよさそうですね。