乱に咲く花 17 花は桜木
文聞亭笑一
今回は、吉田松陰が幕府の取り調べに対して、問われてもいない間部老中暗殺計画を自白するという事件が中心の物語になるのではないかと推察します。
情報過多で、権利主張と自己保身が中心の現代に生きる我々には信じがたい物語ですが、吉田松陰は聞かれもしていない嫌疑に関して、自ら全容を自白します。訊問している検察官の方が驚いてしまったようです。
吉田松陰は危険思想・・・つまり討幕論者である…ということを知っていたのは、この当時では長州藩の一部為政者だけでした。幕府・井伊直弼も、その参謀として京にいる長野主膳も、そこまでは知らなかったようです。先に逮捕され拘留中の梅田雲浜の仲間…と言う程度の嫌疑で松陰を江戸まで召喚しました。幕府の狙いは、すでに逮捕済みの梅田や橋本左内など水戸派の面々を粛清するのが狙いで、証拠固めの一環として松陰の証言が欲しかっただけでした。
梅田雲浜が自白した「松陰の落とし文」というのが京で問題になっていました。
幕府を軽視し、朝廷を政治の中心に…と言うような内容です。
この文章の筆者は誰か・・・が関心事項ですが、署名は松陰になっています。これは、実は梅田雲浜が嫌疑を逃れるために、他人に罪をなする付けるために作った大ウソで松陰は一切関与していません。これだけ見ると、落とし文の嫌疑を晴らせば、単純に言えば自分の筆跡ではないということが証明できれば、無罪放免となるという性格のものです。言ってみれば冤罪でもあります。
7月9日、駕籠の中の松陰は藩邸から送り出されて、和田倉門外の評定所に向かった。
彼の囚人駕籠を護衛する藩の人数はなんと三十余人で、士分が3人、足軽・中間が30人、
これらの行列を騎馬武者が一騎、鞭を上げて指揮した
一介の囚人を送る行列としては、やり過ぎな程の大人数です。普通なら10人も必要としない行事ですが、長州藩としては腫れ物に触る気分だったのでしょう。<松陰がどうなっても構わぬが、藩は影響を受けたくない>というのが藩政府の思惑で、桜田門外の毛利家から幕府の評定所までに長州藩のデモンストレーションをしようという狙いもあったようです。
つまり…、<長州は幕府に従順である>ということを幕閣に知らすことと、
松陰には<藩は、お前のことを大事に思っている>という意思表示です。
松陰が護送されたルートは現在の法務省の位置にあった辺りから、日比谷通りを和田倉門の前までの行進です。江戸のど真ん中です。目抜き通りを通ります。目立ったと思いますね。周りは大名屋敷ばかりですから観衆が大勢出たとは思いませんが、諸藩の江戸詰家臣たちは情報収集のために大勢が行列を見守ったでしょう。松陰もこの扱いには興奮したのかもしれません。囚人籠の中ではあっても、ヒーロー、スターの気分になったのかもしれません。
評定所というのは、幕府の行政機関の中心であり、かつ、最高裁判所・司法の最高決定機関でもあります。現代に生きる我々は三権分立を当たり前に思っていますが、幕府というのは三権がすべて将軍一人の手に握られていた政治機構です。行政の中核と司法の中核が同じところにあっても何の不思議もありません。
松陰は白洲に引き据えられた。ほどなく、目の上の座敷に裃(かみしも)を付けた取調官が居並んだ。
いかに幕府がこの事件を大きく見ているかということについては、その顔触れを見てもわかる。幕府で司法の執行権を持つ役職者が全員並んでいるのである。
寺社奉行・松平伯耆守、大目付・久貝因幡守、南町奉行・池田播磨守、北町奉行・石谷因幡守などの5人である。訊問は吟味役がする。その者は縁の上にいる。
大岡裁きや、遠山の金さんで見たことのある御白洲の光景ですね。御白洲から縁側までは三段ほどの階(きざはし)があり、そこで遠山の金さんが「この桜吹雪がちゃ~んと、お見通しでぃ」と啖呵(たんか)を斬る…あの場面です。
普通は裁判官が一人なのですが、5人もいるということは大老・井伊直弼から相当強い指示が出ていた証拠でしょう。とりわけ、北町と南町の町奉行が同席するなどと言うのは異常です。
町奉行というのは交代制で、どちらか一人だけが裁判を担当するのが普通です。二人そろって訊問に立ち会うなどと言うことはありません。司法担当官も大老お声がかりの裁判に緊張していたでしょうね。
訊問した吟味役の黒川嘉兵衛…この人が松陰にとっては鬼門だったかもしれません。童門冬二の説によれば、黒川嘉兵衛は下田奉行の時代に吉田松陰を取り調べた顔見知りということになっています。旗本ですが、慶喜派の阿部老中にも重宝され、かつ、井伊直弼にも重用されていますから、人格的にも優れ、内政面での能力の高い人だったようです。黒川の方は「あの密航男か」と松陰のことは知っていましたし、松陰も忘れてはいなかったと思います。その気安さが………墓穴を掘る素になったのかもしれません。
尋問は尖った言葉ではなく、世間話をするような調子で行われたと、各種の資料にかかれています。雲浜が言う「落とし文」などと言うものは苦し紛れのでたらめであろう…という雰囲気で訊問してきますし、松陰も身に覚えがありませんから堂々と否定します。雲浜については松陰も評価していませんので、かばいだてする気などありません。「そうだろう」「そうだろう」と相槌を打つ黒川のペースで、嫌疑に関する訊問は終わってしまいました。松陰の疑いは晴れたのです。座敷にいた奉行衆も互いに顔を見合わせて 「無実の様だが、危険人物だと井伊様の知恵袋が主張しているから、遠島程度の処分にしておこう」という、黒川が事前に提案した落としどころで頷き合っていました。
ところが……不可解なのはその後で、松陰自らが間部老中暗殺計画を自白し始めます。
驚いたのは奉行たちや吟味役の方です。間部詮勝と言えば井伊政権No2の大物で官房長官的な職責を担う人です。そんじょそこらで発生している殺人未遂事件とは訳が違います。
吟味役の黒川嘉兵衛も、この発言は捨て置けません。ポイントをついて、根掘り葉掘り、鋭い質問を投げかけます。これに対して松陰はすべてを白状してしまいます。
松陰は「自分が死ぬことによって、長州藩の革命勢力・松陰門下生を決起させようとした」というのが通説ですが、果たしてそれだけでしょうか。結果的には高杉晋作や久坂玄瑞が、松陰の思想を継承して過激な行動に移りますが、少々…美化しすぎのように思います。単純な自殺願望<このまま牢に繋がれていても何もできぬ。ならば、死んだ方がマシ>と考えた…と言えないこともありません。精神的にかなり追い込まれていた状態のように思うのです。
今週はここまでにします。
花は桜木、人は武士・・・なのかもしれませんが、先週末から福島に桜を追いかけて旅をしてきました。三春の滝桜を見て、少年兵たちが散った二本松の霞が城公園の桜、白虎隊の飯盛山の桜、会津鶴ヶ城の桜…こういうものを見てきた後では、長州賛歌は書けなくなりました。
勝手な都合で申し訳ありません。
写真でスペースを潰します(笑)
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