どうなる家康 第10回 三河統一へ
作 文聞亭笑一
先週の番組、最後の方で一揆方の狐目の女に信玄が「望月千代」と呼びかける場面がありました。
当時の女性には苗字を名乗ることはありませんから、望月の千代・・・でしょう。
信州佐久平の歩き巫女・・・信州の名門・海野一族の流れでしょうか。
真田一党も海野一族の枝分かれです。
池波本の真田太平記などでも望月の歩き巫女は活躍しますね。
一種のくノ一忍者集団でもあります。
この系統に猿飛佐助とか、霧隠才蔵などが登場すると・・・講談の世界になってしまいます。
忍者と言えば伊賀、甲賀を連想しがちですが、武田の歩き巫女、小田原北条の風魔党なども活躍しています。
軍隊に情報員は必須ですから、どこの戦国大名にも似たような組織があったのでしょう。
ただ、陰の部隊ですから歴史に名は残りません。最後に勝ち残った服部半蔵と伊賀者たちだけが歴史に残りました。
三河守任官工作
西三河の一揆の始末を終えつつ、家康にとっては実力で勝ち取ろうとしている東三河を含めた三河一国を支配する大義名分が必要になります。
三河の国主は空席とは言え、足利幕府隆盛の時代は吉良家が国主でした。
今川義元も吉良家を看板にして、国主・吉良を支援するというのが三河支配の建前でした。
家康とても同じ事で、今川から独立した直後は「国主・吉良」「代官・松平」という名目で政権の正当性を示していました。
しかし、吉良は一揆に荷担したことで三河にいられなくなり、京へと逃亡します。
三河の名族・吉良家は消滅してしまいました。
・・・ということは、松平にとって名目がなくなりました。
信長であればこのような名目、建前は無視してしまいますが、常識人の家康は気にします。
そこで、朝廷から三河守に任官してもらうよう工作を始めます。
信長の同盟者という伝で、信長に興味を抱いていた近衛前久が話に乗ってきました。
さらに吉田兼右が実務面を担当することになりました。
三河守任官のためのコンサルタントです。
ちなみにコンサルタント料は、近衛に現代の相場で2000万円の献金と毎年馬一頭の献上、吉田には馬を献上する約束でした。
先日発覚したオリンピックがらみの談合汚職並みでしょうかね。
この工作には大きな壁がありました。
「松平」という姓が長い公家政治の中で一度も登場していないのです。
前例主義を信条とする朝廷が、新規の姓を認めることはありません。
そこで、吉田が古代からの古い戸籍を辿り、藤原一門の中に「得川」という消滅した姓を発見します。
これを源氏の枝分かれだと捏造して、家康に提案してきました。
「家康はん、あんさんの姓の松平ではアカンよってなぁ。任官は無理やわ。どないする?」
「そこをなんとか・・・」
「なら、得川に改姓しぃ。
これなら立派に三河守やさかいになぁ」
かくして朝廷からは「得川三河守家康」を頂戴したのですが、いつからか・・・徳川と表記するようになりました。
おおかた松平初代の徳阿弥にちなんで「徳」の字を当てたのではないでしょうか。
ただ、江戸時代になるまで、公家の公式文書では得川と表記されていたようです。
報酬の賄ですが、近衛には200万円と馬一頭が支払われたようです。
そして吉田には報酬無し。
家康が「ケチ」と言われる理由の一つにもなっています。
大義名分
戦争には大義がいると言うことは現代でも変わりなく、プーチンの侵略戦争にも「ロシアを守る」と看板を掲げています。
彼の頭の中にあるロシアとはソビエト連邦時代の版図でしょうかね。
家康がやろうとしていることも侵略戦争で、今川の領土を蚕食していこうと狙います。
「三河守が、三河の統一を図る」
こういう建前で東三河の今川支配領域に政治圧力を掛けていきます。
「厭離穢土、欣求浄土」の旗印は施政方針、スローガンのようなものです。
一向宗との宗教戦争を戦った後です。
このスローガンが民衆の安心感というのか・・・「徳川は仏法の敵・第六天大魔王の走狗ではない」と思わせるのに役立ったのでしょう。
三河、遠江で民衆の反乱事件は起きていません。
奉行衆の治世も良かったのでしょう。
以前にも紹介しましたが初期家康政権の奉行は仏の高力、鬼作左、どちへんなしの天野三平の三人だったようですね。
どちへんなし・・・とは偏らない、公平という意味です。
そういえば、今回の配役にこの3奉行が出てきませんね。
山岡荘八の大河小説では本多作左衛門と言えば石川数正のライバルとして大活躍するのですが、今回は姿すら見えません。
奉行衆は単純化すべく夏目広次一人に集約してしまいましたかね。
ただ、作左衛門はどこかで登場してもらわないと丸岡の「日本一短い手紙」の紹介ができません。
一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ
幕府の成立後に本多作左右衛門は越前丸岡藩の初代になっています。
家康の初代ご意見番で、2代目ご意見番が大久保彦左衛門・・・ということになっていますが・・・これも講談の世界でしょうか。
ともかく家康が政権を取った後、色々な法度を決め、村々に高札を立てます。
ところが、なかなか法度が守られないので役人が鬼作左に相談します。
「そらぁおめぇ、百姓や町人がそんな難しい字を読めるわけ無かろう。
全部平仮名にせぇ。
ほんでな、最後に『これにそむけば作左が叱る』と書き加えておけ」
これで法度が守られるようになったとか・・・という逸話がありますが真偽の程は不明です。
しかし、殿様の家康よりも家臣たちの方が住民に人気が高かったというのは事実のようですね。
信長の岐阜攻め
この間信長は何をしていたか・・・ですが、美濃の斎藤龍興との死闘を続けています。
木曽川を挟んで南北に対峙し、渡河して岐阜を攻めようとする織田軍を斎藤軍が仰撃し、撃退すると言うことの繰り返しでした。
テレビの信長は偉そうに家康を小突いていますが、自分の方も苦戦続きでした。
1566年、秀吉の発案で墨俣一夜城が建設され、それを皮切りに織田軍が岐阜城下に攻め込みます。
家康の一揆鎮圧は半年かかりましたが、信長の岐阜攻めは3年以上かかっています。
太閤記や信長公記では秀吉の活躍が華々しく描かれますが、それはそのはずです。
両書籍とも監修したのが秀吉だからです。
秀吉の法螺が相当入っている・・・と、話半分、いや、それ以下に値引きして読む必要がありそうですが、過去の物語は太閤記、信長公記に忠実です。
岐阜を落とすまで、信長は尾張一国の弱小大名に過ぎません。
米の取れ高で言えば今川氏真の半分しかないのです。
が、それに倍する商業経済がありました。それが信長の強みです。