海人の夢 第47回 関東騒乱

文聞亭笑一

平家物語では、ここからが本論に入るのですが、清盛をテーマにした物語では終盤です。

先週の番組で、祇王、祇女や仏御前と戯れる場面が出てきましたが、あれは鹿ヶ谷の事件が起きる前の話です。パスしたのかな・・・と思いきや、清盛の末期の老害として出てきました。重盛亡き後、清盛が専横を重ねたことは間違いありませんが、これも後白河法皇の動きと対比してみないと、清盛だけの責任には出来ません。

天皇、及び皇室には一切の歴史的責任はない…とするのが、戦前までの伝統的史観ですが、これは改めなくてはいけないでしょう。白河、後白河の院政は暴君、妖怪の仕業です。それを制止できなかった藤原一門の公卿たちも、その共犯者であることに間違いありません。源平の混乱期を、清盛の責任と押し付けるのは片手落ちです。

71、源氏の旗を翻し、舅(しゅうと)北条時政の協力を得て、兵を募った頼朝は、伊豆を治めていた山木判官兼隆を襲い、その首をはねた。

頼朝が立ち上がるには二つの契機がありました。一つは怪僧・門覚による説得です。

門覚、以前にも触れましたが、誤って恋人を斬り殺し、出家して京の奥、高雄の神護寺で修行を積んだ、もと北面の武士、清盛や西行の同僚です。平氏の横暴に腹を立て、京の街中で平家を糾弾する辻説法をぶって歩き、禿(かむろ)につかまって伊豆に流されていました。

この門覚がたびたび頼朝の寓居を訪れ、旗揚げを鼓舞します。時には義朝の髑髏(どくろ)と称するものを持ち込んで、半ば脅迫するように旗揚げを迫ります。頼朝は、動きませんでしたが、舅の北条時政、三浦、和田などの豪族が、すっかりその気になりました。

そこに現れたのが、以仁王の令旨を持った伯父の源行家です。

これで、頼朝が重い腰を上げました。

今回のドラマの中では、頼朝を軟弱な貴公子風に描いていますが、実態は異なるようで修善寺界隈や、山を隔てた熱海などに頼朝と政子が逢引をした場所と伝えられるところがたくさんあります。熱海の伊豆山神社には二人が座って愛を語ったと言う石や、愛を誓ったという梛(な)木(ぎ)の古木などが残っています。場所によっては、後世になって、観光地開発に捏造したところもあるかと思いますが、それにしても広範囲にわたります。

多分…馬が得意の政子ですから、二人で野駆にあちこちを廻っていたのでしょう。

我々が若い頃、あちこちドライブして歩いたのと一緒でしょうね。

ともかく、僅かな手勢で兵を動かすのですから、奇襲しか方法はありません。伊豆の国一の宮、三島神社の祭礼の夜、山木の郎党たちが祭りに出かけた隙を狙って、一気に襲い掛かります。兵の数は同じでも、準備万端攻め込む方と、守り一辺倒に追い込まれた方では勢いに大きな差が出ます。山木の兵は、討たれるというより、命からがら逃げる者が多く、短時間で山木判官は討ち取られてしまいました。

72、景親の下知に応じて一人の鎧武者が、弓で洞窟の中をかき回した。
もはや最後、と観念した頼朝は、太刀を引き抜き、土肥実平とともに洞窟を飛び出そうとした。だが、その武者は 「出てはなりませぬぞ」と低い声で囁く、それは、梶原景時であった。

山木を討たれた平家も黙ってはいません。相模の大庭景親を中心に、関東の平家親派が出動し、石橋山の合戦になります。兵力では圧倒的に平家優勢です。頼朝は、戦い方については作戦重視の方で、特に小勢で大勢に対応する戦術については、詳しく研究していたようですね。決して、世捨て人のような怠惰な生活を送っていたわけではないでしょう。

孫子の兵法は勿論のこと、古今の兵学書を研究し、戦い方については十分な基礎知識を持っていたはずです。さもなければ、この後の用兵、戦略の巧みさ、政治的駆け引き、どれをとっても、部下の卓越した智恵を採用できません。

平家物語の作者は、義経というスーパヒーローを演出し、源氏の御家人たちを、それぞれ勇敢で、人情溢れる武士に描くため、頼朝の才能を敢えて無視したものと思います。  それもそのはずで、物語が語られる頃は、既に執政北条の世になっていましたからね。

石橋山の合戦では、鵯(ひよどり)越(ごえ)で活躍した熊谷直実も平家方の武将として、頼朝を追いかけています。圧倒的な戦力の差は、頼朝の作戦を次々と破壊していきます。とうとう洞穴に逃げ込むところまで追い詰められました。

それを救ったのが梶原景時。頼朝の命の恩人、梶原景時と義経の確執、いつの世でも、よくある話です。「遠くの親戚よりも近くの他人」「直属の上司よりも、面倒見の良い他部門の先輩」。まぁ、世の中色々ですねぇ。それが各々の絆でしょう。

石橋山から逃げ出した頼朝は、伊豆から船で三浦半島に逃れ、更に対岸の安房に逃れます。随分と大冒険のようにも見えますが、三浦半島の先っぽと房総半島は思いのほか近いのです。東京湾アクアラインが出来るまで、千葉にゴルフに行くときは、久里浜から金屋までフェリーで30分ほどでした。東京湾をぐるりと廻る高速道路より、こちらのほうが早かったですね。

頼朝が上総に向かったのは、源氏の勢力、八幡太郎義家の系譜が残るのは北関東に多かったからです。常陸には佐竹がいます。上野には義家の嫡流、新田がいます。下野には足利がいます。相模、武蔵の兵とは敵対してしまいましたから、頼るのは上総から北の源氏勢力だけでした。

頼朝の動きに呼応して、木曽の義仲が旗を揚げます。こちらは信濃を制圧し、越後を制圧中です。更に、甲斐の源氏、武田が頼朝の元に加わりました。

73、先鋒軍の武田信義が富士川の東の岸に到着してみると、既に対岸には平家の赤旗が並んで、波のように揺れ動いている。それを見ただけで、兵士たちは息を潜(ひそ)ませた。
このまま川を渡り、正面から突入しても源氏に勝ち目はない。
たちまち三方を取り巻かれ、川の中で全滅するのは明らかである。

富士川の西岸に陣を敷いていたのは、重盛の長男惟盛を総大将、清盛の末弟忠度を副官とする平家軍でした。熊野の野育ちの忠度は戦上手ですが、惟盛は初陣です。公家として育っていますから、戦の駆け引きがわかりません。が、取り巻きに煽てられて、物見遊山気分で大将の真似事をして喜んでいました。この富士川でも、軍律を厳しく言う伯父の忠度を後方に下がらせ、最前線で戦見物の特等席にいました。前線にいるのは、手柄目当ての近畿の兵が中心で、精強な田舎の兵は殆どいません。戦えば勝つと敵を舐めていました。

「水鳥の羽音に驚いて…」という有名なくだりは、この近畿兵が起こしてしまいました。

武田の軍勢は強行突破を諦めて、夜陰に紛れて上流から平家軍の後に回り込もうとします。多人数の平家を混乱させ、浮き足立ったところへ本隊が渡河作戦を強行すると言うものでしたが、上流で川を渡り損ねたものが、流されて、平家の隊の川岸に流れ着きます。そこには数百羽の鴨が羽を休めていたのですが、驚いて飛び立ちます。数羽が驚けば、連鎖反応で、すべての鴨が騒ぎます。しかも夜間で、鴨は鳥目…メクラ滅法に飛びますから大騒ぎです。僅か数人の失敗者が、鳥たちの大騒ぎを引き起こしました。

が、寝込んでいた平家の軍は驚きました。鳥たちが一斉に騒ぎますから、数千人の大部隊の夜襲と勘違いして、我先に逃げ出します。大衆心理で、一旦逃げ出すと制止は効きません。後方から逃げてくる味方を、敵兵と勘違いして逃げに逃げます。夜間ですから赤旗も白旗も見えませんからねぇ。

こうなれば、後方にいた忠度が、いかに制止しようとしても効きません。群集心理です。

セシウム怖い、原発反対も…そんな気がしますけどね。

74、「兄上の旗揚げを承り、秀衡殿にお暇を願い出ましたが許されず、ぜひ供に、と言う侍たちだけを連れて、一散に駆けつけました。
この後は兄上の手足になって働きとう存じまする」

頼朝は崩れたった平氏の後を追いませんでした。それが正解で、調子に乗って攻め込んだら、無傷の忠度の兵に逆襲され、負けないまでも大損害を蒙ります。関東の兵も、頼朝に対しては「お手並み拝見」と、まだまだ冷ややかなのです。戦わずして得た大勝利、これを宣伝材料にして関東を固めることに舵を切りました。このあたりが、頼朝の軍略家、戦略家としての才能です。ラッキーパンチが当たっただけですからね。調子に乗ると痛い目に遭います。

そこへ、奥州から義経が駆けつけます。数千の奥州兵を…と期待していた頼朝としては、正直なところ、落胆でした。藤原秀衡は中立の立場を崩していません。そうなれば、ますます深入りは危険です。常陸の佐竹、それに…信越から北関東に入ろうとする義仲、いずれも源氏の一族ですが、まだ味方とはいえません。敵対勢力かもしれないのです。