水の如く 14 薄氷を渡る

文聞亭笑一

この時期、秀吉の播州進撃は薄氷の上を渡って対岸に渡ろうというほどの危うさがありました。秀吉の率いてきた軍勢は7千人です。この兵力というのは播州の豪族たち、別所、赤松、小寺というものたちに対しては、威圧できる数ですが、その隣国である今の岡山県(備前、美作、備中)の3国を抑える宇喜多秀家と対戦するとなると、宇喜多勢に劣ります。さらに、播州の勢力の中で、織田方と旗色鮮明にしているのは黒田官兵衛の300人ほどと、別所重棟の率いてきた数百だけで、豪族たちはいつ毛利に寝返るかわかりません。ただ、唯一の救いは、毛利と秀吉の中間に位置する宇喜多直家が、態度を鮮明にしていないことだけです。宇喜多が毛利方として本気になって敵対してくれば、秀吉隊は播州から追い出されてしまう可能性すらあります。

この危うさが別所、赤松、小寺を本気にさせない要因です。

それもあって、秀吉は長浜の本拠地で大々的に新規採用の活動をやっています。人材大募集…なのですが、旧浅井家の残党のほとんどは既に採用済みで、蒲生氏郷、藤堂高虎、片桐且元などは既に姫路遠征の軍団に入っています。募集をかけて集まってくるのは百姓の倅たちばかりで、戦闘要員としては素人です。喉から手が出るほど人が欲しい…これが秀吉の最大の悩みです。

53、上月城、佐用城に対する攻撃は、11月27日に行われた。秀吉の本軍は上月城を抑え、官兵衛と半兵衛の先鋒部隊は支隊になり、佐用城を苛烈に攻め上げた。
<一夜で落とせる>という心算が官兵衛にある。また一夜で落城させるだけの鮮やかさを見せなければ、播州の諸豪族への政治効果が薄い。

佐用城主の福原右馬允主膳という人も、赤松氏の支族です。

佐用という土地柄は、中国山地の山間の集落で、実に長閑な地方です。現在は中国自動車道が通り、佐用ICの周りにはゴルフ場などもたくさんできて、関西圏から人が向かいますが、それ以前は隠れ里という雰囲気ではなかったでしょうか。美作(みまさか)国というのは岡山県の山間部ですが、私などは訪ねる度に故郷信州の山間の部落を思い出して、懐かしさを感じたりしていました。そうですねぇ…信州の伊那谷と似た雰囲気があります。

ここの城攻めは秀吉軍団の参謀、半兵衛、官兵衛にとっては政治的デモンストレーションの格好の生贄です。ともかく「カッコ良く」叩き潰さなくてはなりません。秀吉軍、織田軍の強さを、敵ではなく、味方に見せつけなくてはならないのです。この戦陣に参加している兵たちは播州の三大名の派遣した兵員なのですが、あまりやる気がありません。

「お手並み拝見」というのが基本姿勢ですから「お手並み」を見せてやらなければいけないのです。

今回のNHKドラマでは孫子の兵法にある用語を多用しますが、半兵衛・官兵衛の採用した戦法は「囲師必闕(いしひつけつ)」というもので、有名な信玄の旗印、「風林火山」同様に、軍争篇の一節です。要するに、敵に逃げ道を作ってやって逃げる気を起させよ、と言うものです。この作戦は見事に大成功を納めます。福原軍は仕掛けられた逃げ道から逃げ出します。罠にかかります。福原右馬允は官兵衛に陣借りしていた平塚為広によって討ち取られてしまいました。平塚為広…門徒宗だったため秀吉からクビにされていたのですが、この手柄で帰参が叶い、後に大名にまで出世します。関が原では三成の西軍について討ち死にしますが、終生、黒田に恩義を感じていました。官兵衛にはそういう面倒見の良さがあります。

54、官兵衛としては秀吉から「相婿」と言われた以上は、いわば疑われたに匂いが似ている。このため官兵衛はそれほどの必要があるのかと思われるほどの激しさで寄せきった。むろん秀吉の方も、そのつもりで、わざわざ「相婿」という言葉を口に出したのである。このことは、この時代の武将が人を働かせる方法の一つでもあった。

相婿とは妻同士が姉妹だということです。相婿に限らず、血縁のある者が敵に回ると、裏切り、内通を疑われます。まぁ、現代でも兄弟や息子が競争相手の会社に入ったりしたら、情報漏洩を疑われますよね。

官兵衛と上月城主・上月蔵人政範は妻同士が姉妹です。官兵衛は、ぎりぎりまで政範に翻意を迫りますが、人質を宇喜多に差し出している政範は宇喜多に殉じます。

やりたくないですよねぇ、身内同士の殺し合いなど…。

しかし、その気持ちが外に見えたら味方に疑われます。そういう意味で戦国の世というのは、実に非人間的です。戦争は人を鬼にします。戦時国家である北朝鮮が信じがたいほど非人道的なことを繰り返します。アルカイダがとんでもないことを繰り返します。これも皆、戦争、殺し合いという鬼道の世界ではないでしょうか。

55、宇喜多直家は、ほとんど詐欺と陰謀と謀殺というやり方だけで国主にのし上がった人物で、利によってどこに寝返るかわからない。この時期は、ともかくも毛利氏に属している。自然、播州佐用郡の二つの城も、系列でいえば毛利方の播州における拠点であるといっていい

宇喜多直家を善く書いた歴史物語は、歴史小説好きの文聞亭も、いまだかつてお目に掛かったことがありません。天下の大悪人というのが通説です。信長、秀吉、家康を主役にした物語では足利義昭、松永弾正、宇喜多直家が天下の三悪人として描かれます。

とりわけ司馬遼の物語ではその傾向が顕著に表れて、詐欺と陰謀と謀殺というやり方だけで国主にのし上がった などと書かれます。斎藤道三も、北条早雲も、伊達政宗も似たようなものですが、こちらは良い所も認めてもらえるのに…、なぜでしょうか?

ひとつには、後に直家が天秤にかけた毛利と、秀吉がすっかり仲良くなってしまったからでしょう。毛利=宇喜多=秀吉の三つ巴の政治的駆け引きが小早川景隆と秀吉との蜜月関係で決着し、双方の悪事をすべて宇喜多直家に負わせてしまうという「太閤記」の作文でしょう。この作文の筋書きを描いたのが安国寺恵瓊ですし、それを宣伝したのが秀吉政権で官房長官・広報担当を務めた石田三成、小西行長のコンビです。

小西行長は、この当時から宇喜多直家に取り入っていた堺の薬問屋・小西隆佐の息子です。宇喜多直家が使った毒殺用の南蛮渡来の劇薬などは小西のルートから提供していたものと思われます。青酸カリ、ヒ素などだったでしょうね。

宇喜多は、後に秀吉方に寝返ります。が、この時点では日和見をしています。

毛利、織田の中間にあって、より高く自分を売りつける販売先を値踏みしていたのでしょう。その意味では凄い事業家、商売人です。上月城の攻防戦でも、毛利に顔を立て援軍を送り、そして織田、秀吉にも憎まれない程度で手を引きます。

いわゆるやり手、フィクサーですよね。田中角栄の後ろにいた小佐野賢治、野中廣務、そう、笹川何某とかいう人もいましたねぇ、そんな感じの人だったでしょうね。

56、秀吉は陥落させた上月城に「尼子の者」と呼ばれる牢人衆700を入れておいた。尼子氏は、かつて山陰の戦国大名だったが、毛利氏に攻め潰され、今は残党と言われる者が残っているにすぎない。その中に山中鹿之助という者がいて、若いころ京都あたりの貴顕の屋敷に出入りしていたこともあり、名前は広く世間に聞こえていた。
この鹿之助が尼子家の再興を生涯の望みとし、以前から柴田勝家を通じて信長に庇護を求めていたのである。

山中鹿之助が出てきます。戦前の世代から我々の世代にとっては戦国のヒーローとして真田幸村と並ぶ英雄です。この名前を知っているだけで戦後生まれ(昭和二〇年後)との差が出るのではないでしょうか。最近は「忠義」という言葉が廃(すた)れて、ロイヤリティーなどとカタカナで表現しますが鹿之助、幸村に大石内蔵助を加えれば「忠義」の三つ揃えが完成します。親に孝、君に忠…なんて名残が残るのは70歳以上の世代でしょう。団塊の世代の面々は鹿之助を知っているかどうか???

尤も、我々の世代は「女房に孝、会社に忠」でした(です?)けどね(笑)

秀吉が山中鹿之助、尼子勝久に冷淡だったのは、ひとえに 以前から柴田勝家を通じて信長に庇護を求めていたのであるというところです。柴田勝家が絡んだ人物は毛嫌いしていましたね。わずか7千人の秀吉軍に、7百人の尼子牢人衆は貴重な戦力です。にもかかわらず、捨石のように使い捨てます。これが信長の真似をした秀吉の最大の欠点だったでしょうね。 鹿之助の使い捨てを皮切りに、秀吉は多くの功臣を使い捨てしていきます。官兵衛も捨てられる一人ですが…現代日本経営もその傾向にあります。松下幸之助、本田宗一郎、井深大、立石一真・・・神様と言われた経営者は決して使い捨てをしませんでした。

捨てるから…中韓に技術を横流しする者が出てくるのです。企業の身から出た錆ですよ。