次郎坊伝14 戦国経済

文聞亭笑一

「今年の大河は面白くない」という評判を、よく耳にします。そうですねぇ、大河ドラマ応援団、歴史を身近に感じる会(?)・支援者の私でも、嫌気がさしてきました。何となく…中学校か女学校の学芸会に付き合わされている気分です。

幼馴染三人の友情、互いが置かれた環境による生き方の差、そして決別・・・というのがここまでのストーリですが、おとわ(直虎)が感情の赴くままに動き回り、亀・直親が糞マジメに振る舞い、そして鶴・政次が陰湿な罠を仕掛ける…という展開になっています。「友情」をテーマにしているのなら、政次の動きは理解できませんし、友情を裏切るのであればその葛藤や、背景を分かりやすく説明してもらわないと、ついて行けません。親の代から井伊家に怨念を持っていたというのなら、それもわからず筆頭家老に据えている井伊一族は何を考えていたのでしょうか。

小野家がなぜ家老職であり続けるのか…。

親会社・今川の監査役である…という理由からだけか。

それならば高飛車に今川の命令通り、政次が「後見職・実質経営者」として乗っ取ってしまえば済む話なのに、なぜ遠慮して直虎が領主の座に座るのか。この辺りが説明不足です。

さらに言えば、直親を討った段階で今川は井伊家を「お家断絶」にしています。「虎松も殺せ」と命令していますから、井伊谷城には代官を派遣して直轄領にするのが本来です。なぜ、そうしなかったのか。南渓和尚をはじめとする嘆願はあったでしょうが、対松平、対織田の最前線の拠点には、当然、有能な人材を当てて失地回復を狙いますよね。政治、軍事に未経験な女城主など認めるはずがありません。

小野政次が工作をしているはずです。新野左馬之助が亡くなって、井伊谷と今川を繫ぐパイプは小野政次しかいなくなりました。彼が動かなければ、交渉事などは成り立ちません。が、そこのところは全く、説明していませんね。寿桂尼や氏真に悪知恵を吹き込む悪役としてしか登場させていません。小野政次が本気で井伊谷を乗っ取るのなら、直虎の登場を認めないはずです。手元には「後見役を命ず」という、親会社のお墨付き、今川の印籠があるのです。「この紋所が目に入らぬか」とやれば終わりのハズです。

瀬戸村、祝田村、困窮のわけ

物語では、この二か村が借財による困窮で徳政令を要求したことにしています。

が、普通の場合(当時の常識として)農民は借金をしません。借金をするということは、土地を取られるということで「一所懸命」という言葉にもある通り、自分たちの生活の場を失うことに他なりません。土地(一所)に命を懸ける(懸命)という意味です。瀬戸方久など得体の知れぬ商人からなぜ借金をしたのか、そこのところが全く説明されていません。天災などの自然災害であれば他の村も同様で、こういう時は救済措置があります。そうではありませんね。瀬戸と祝田がとりわけ困窮したのです。

原因は桶狭間の敗戦と、直親の暗殺だと思います。

桶狭間では井伊家全体が大被害を受けました。主だった者たち、働き盛りのリーダ格の者たちは軒並み討ち死にしてしまいました。村の指導者がいませんから、農作業が円滑に行きません。この当時の農村はソ連時代のコルホーズに近く、村民が一丸となって共同作業で田植えや稲刈りをしていました。効率的にできるか、さもないか、リーダ次第です。こういうリーダ、旗振りがいなくなりました。

さらに、動力である馬を失いました。討ち死にしたリーダたちは馬に乗って戦場に行きました。

この当時の戦争で、馬は戦車に匹敵する武器です。歩兵10人分以上の戦力です。

敗け戦になると、騎乗の武士は真っ先に狙われます。そして馬は奪われるか、殺されます。戦車ですからね。敵の戦車を分捕って自分の物にすれば、獲った者の戦力は倍加します。

ですから、戦の全体として負けが見えたら、武士は馬を捨てて命からがら藪などに逃げ込み、逃げに逃げます。馬に乗っていることが「首」の値打ちを高め、その分だけ敵方に狙われやすくなるのです。兜もそうですね。立派な鎧兜ほど、敗け戦では危険なのです。馬を捨て、兜を捨て、雑兵の姿になって山中を逃げに逃げる、敗け戦でのサバイバルはそれしかありません。この後40年後の関ヶ原で石田三成が逃げたのも同様な方法です。西軍の大将ですら、百姓姿に変装して山中に逃げました。

瀬戸村、祝田村は、かなりの馬を失いました。が・・・これは井伊谷全体の出来事です。どの村も動力の不足にあえぎます。

直親が暗殺された時、従っていった武士たちは直親の所領であったこの二か村の者たちが多かったと思われます。19人のうち半分以上はそうでしょう。皆、馬に乗って出かけています。

これが全滅しました。十数名の武士と十数頭の馬・・・これを失うということは生産能力に大打撃です。田起し、代掻き・・・馬に鋤を引かせれば一日でできる仕事が、十日かかるでしょうね。年寄りや女手しか残っていなければ、もっとかかるでしょう。耕作放棄地が出て当然です。手が回りません。

農民が商人から金を借りるのは、何かを購入する時です。百姓は通常、借金を嫌います。

直親が駿府に出かけるというので、それに従う者たちが馬具、衣装、武器などを買い整えたのではないでしょうか。従来からの持ち物は桶狭間でほとんど失っています。更に、曳馬城攻めでも失い、消耗しています。駿府の都に出るのに、みすぼらしい姿で行くわけにはいきません。後払い…ローンで購入したのでしょう。今川による直親の処刑で、この負債が遺族にのしかかってきます。

いつの世でも戦争は金が掛かりますよね。戦闘機一機…いくらでしたっけ。

自衛艦一隻いくらでしたっけ? 戦車一両いくらでしたっけ? そういう単位の出費です。

それを各村々で調達していたのです。勝てば消耗した以上に敵から分捕れますが、敗けたら…すべてを失い、さらに借金がかさんでも仕方ありません。

商工業の台頭

時代背景としてこの時代の商工業の発達を見逃せません。鎌倉幕府は農業中心の経済体制で、商工業は寺社の管理にしていました。室町幕府もそれを引き継ぎ、官営貿易を除いて商工業の寺社管理を続けています。一種の管理商工業で、共産主義・社会主義経済に近いでしょうね。技術は「門外不出」で秘密にされ、技術移転、技術革新は起きにくい体制です。

幕府の弱体化はこの規制を緩め、大阪・堺を中心に海外貿易や海外からの新技術の流入が始まっています。この技術が畿内、北九州から同心円状に全国に伝播していきます。その一翼を担ったのが瀬戸方久などの独立系商人でしょう。寺社の管理下に入らず、勝手気ままに商売をします。堺衆もそれです。

これを大々的に認め、自由貿易、規制撤廃をやってのけたのが織田信長の楽市楽座です。寺社の権限を剥奪してしまいました。本願寺との戦闘を始め、比叡山焼き討ちなど、信長が寺社と徹底的に対立したのは経済政策です。利害が真っ向から対立しますよね。

・・・今週は解説?すべきことが少ないので2ページにとどめます・・・