35 信長包囲網(2020年12月02日)

文聞亭笑一

戦国末期の混乱の中でも、「将軍」という言葉の響きは、その実態とは無関係に大きな影響力を残していました。

将軍職と言う職制は征夷大将軍だけではなく、征狄大将軍などもあるのですが平安時代以後は征夷大将軍しか任じられていません。

狭い島国ですから中国から輸入した「四方の蛮族を退治する職」は必要なかったのです。

しかし、このあと正親町天皇と信長の関係が怪しくなると、朝廷は埃をかぶっていた征狄大将軍と言う職制をちらつかせたりもしますので覚えておいてください。

信長包囲網

義昭は信長から禁じられていた「御教書」を乱発して、全国の有力大名に反信長の旗を立てるように求めます。

東は上杉謙信、武田信玄、北条氏康はもとより、東北の伊達や、蘆名にまで届けています。

近畿は浅井、朝倉は当然として紀州の雑賀や根来、播磨の別所など、いったん信長に従ったものにも寝返りを進めます。

さらに四国の三好や長宗我部、中国の毛利にまで「信長を討て」の指令が飛びます。

テレビでは部下の摂津晴門が画策したように描いていますが、企画したのは義昭本人と三淵や細川などの取巻きである可能性が高いように思います。

摂津が、遠国の大名たちと渡りをつけるパイプがあったのか? その種の情報員を保有していたのか? そのあたりが怪しいのです。

信玄立つ

この時点では既に今川家は滅ぼされ、遠江は徳川に、駿河は武田に分割占領されています。

従って武田信玄の領地は信濃、甲斐、駿河の3国と上野の一部、飛騨の一部に及んでいます。

上洛するには川中島を巡る上杉との確執を片付けなくてはなりませんが、将軍からの紙切れ一枚で休戦条約が締結したとは思えません。

将軍の意を受けた誰かが、仲介したものと思われますが、それが誰なのか、資料が全くありません。細川が臭い、それとも近衛か・・・と推理しています。

ただ、こんなことが信長にバレると、後の細川家は存在し得ませんから資料はすべて抹消してしまったでしょうね。行動も隠密だったでしょう。

細川藤孝自身、将軍義昭が勝つか、それとも信長が勝つか、読み切れなかったと思います。活動しながらも日和見ですね。どちらが勝っても言い訳ができるように、細心の注意を払ったことでしょう。

信玄の上洛作戦には本願寺が協力しています。信玄のライバル・謙信を川中島に向かわせないため、越中門徒に「反謙信」の運動を起こさせます。

門徒衆の反乱は、その行動がゲリラ的なために鎮圧には多くの兵力を割かれます。信玄の背後をつけなくなりました。

信玄の進軍ルートは諏訪から伊那に出て、天竜川沿いを真っ直ぐに南下します。

これは家康には想定外だったと思います。常識的には一旦駿河に出て、駿河兵を加えて東海道を攻め上るルートを想定しますが、信濃兵を加えて真っ直ぐに家康の本拠地・浜松を狙います。

野戦か、籠城か…大いに悩ませておいて、サッサと通り過ぎていくとは・・・家康を舐め切った行動です。その挑発に、家康も我慢できませんでした。

三方が原の戦が起きます。野戦に誘いだされた徳川軍が、武田騎馬軍団の前にコールドゲーム的惨敗を喫します。徳川四天王と言われた酒井、本多、榊原、井伊などが生き残った分だけ幸いで、夏目漱石の先祖・夏目信吉が家康の身代わりになって戦死しています。

女城主・おつやの方

信玄の上洛軍は二方面作戦をとっています。本隊は浜松から東海道を進み、別動隊が木曽から中山道を岐阜に向かいます。

その木曽の出口を守るのが織田方の岩村城でした。岩村城の城主は遠山氏ですが、城主が亡くなって後継者がおらず、妻のおつやの方が女城主として守っています。

何年か前に「女城主・直虎」と三河の井伊家の物語がありましたが、岩村城も女城主の城でした。城主・「おつやの方」は信長の叔母に当たります。

岩村城は難攻不落の山城です。今年の秋に同級生仲間と登ってきましたが、車のエンジンが悲鳴を上げるほどの急坂を登り、しかも先々に見上げるような石垣の壁が立ちます。まともに攻め上がったら10倍の兵力があってもしんどいかもしれません。

武田の攻撃隊長の秋山信友は真田以上とも言われた知将です。無理をしません。兵糧攻めと、内部への裏切り工作で籠城兵を味方に引き込みます。「城は内から崩れる」と言う通り、難攻不落の岩村城も、内部分裂が起きそうになります。

「城主の切腹と引き換えに兵たちの助命を・・・」と言うのが普通の開城条件ですが、岩村城の場合は「城主が敵将の妻になるのと引き換えに・・・」という、日本史上一つだけしかない条件で落城します。これがまた…信長の癇に障るのですが、それは先の話。

岩村城・岩村藩は美濃の山奥の城ですが、江戸末期に高名な儒学者・佐藤一斎を産みます。

言志四録・・・リーダシップの教科書とも言うべき著作を残しています。かつて小泉総理が、放言ばかりする田中真紀子外相に「これを読んでおけ」と渡したところ、「総理から論語をもらった」と、またまた無教養な放言をして顰蹙を買ったということもありました。

離反の連鎖

将軍義昭と摂津晴門の信長包囲網構築は順調に進みます。「信玄動く」の報は近畿にも激震をもたらしました。播磨の別所が反旗を翻します。

丹波八上城の波多野兄弟が裏切ります。さらに、織田軍内部で荒木村重が反旗を翻し、松永久秀も離反する行動をとります。織田軍の内部分裂ですね。信長にとっては最大のピンチが訪れます。

この辺り、今回の放送でどこまで行くのか? 先走りになりそうです。

坂本築城

光秀にとって、この時期、嬉しかったことは「城持ち大名」となって伯父・光安の悲願であった「明智家の再興」を成し遂げたことでした。

その城も、かつての明智城のような山城ではなく、琵琶湖にせり出すような湖上の城です。水中に石垣を積むなどは高度な技術が必要でしょうが、領地の坂本界隈には穴太衆と言う古代からの石垣職人の集団があります。

彼らの技術を最大に発揮させ、その後の安土桃山時代の城郭建築の花形集団に育て上げていきます。

穴太衆と言うのは坂本城プロジェクトでデビューさせ、安土城で花開かせた光秀の建設技術者集団「明智組」でもありました。「内政の明智」の片鱗が見えてきます。