どうなる家康 第11回 家康の妻たち

作 文聞亭笑一

いやはや・・・前回は家康家のホームドラマというか、妾選びの話で終始してしまいました。

三河一向一揆が終わった後の、いつ頃の話なのでしょうか。

徳川家にとっては「せっせと子作り・・・」などといった環境ではなく、一揆で離散していた家臣団を再編成し、東三河から今川勢力を追い払うために戦続きだったはずです。

1564年2月    一向宗との和議締結

その後、一向宗僧侶に改宗を命じる。従わない寺院は破却

1564年6月    東三河・今川勢力の本拠地・吉田城(豊橋)制圧 三河統一なる

軍政を二分化し東は酒井忠次、西は石川数正に一任

1565年      岡崎城に3奉行を置いて内政の安定化を図る

 ・・・ですから前回の物語は1565年~66年くらいのことでしょうか。

その時期に藤吉郎・秀吉が岡崎まで使いに来ますかねぇ。

信長は美濃攻めに手こずっていて、信玄や、謙信との外交に没頭しています。

武田勢が木曾街道から美濃へと進出しないようにと、随分とへりくだった外交姿勢でした。

秀吉が墨俣に一夜城を築き、美濃攻略の橋頭堡にしたのが1566年です。

秀吉は忙しいのです。

岡崎まで出張って、お市の婚礼を知らせる役回りは・・・多分、別人だったでしょうね。

信長は1567年になって、ようやく美濃の斎藤を攻略、岐阜を手に入れます。

この戦いで、秀吉は西美濃3人衆を裏切らせた成果が認められて一軍の将となり、出世物語が始まります。

若い頃に秀吉と家康の接点はそれほど無かったのではないかと思いますが、今回のドラマは信長、秀吉、家康を濃厚に絡みつけますね。

登場人物を減らす工夫でしょうかね。

家康の妻妾

どこまで正しいかは闇の中ですが、生涯で20人の妻妾を抱えたと言います。

前回も母親の於大の方が強調していましたが、戦国大名には「子孫を残す」という種馬機能を求められます。

そちらの方も頑張らなくてはなりません。

20人の内、正妻は二人だけです。

瀬名・築山殿・・・今川義元の姪で、信康と亀姫の母

朝日姫・・・秀吉の妹で、秀吉の強引な政略結婚の犠牲者

残るは側室ですが、最初に側室となったのが、前回出てきた

西郡の局・・・鵜殿家の娘で、家康の二女の督姫を産んでいます。

「実はレズだった」というのが前回の脚本ですが、それらしき資料は見当たりません。

同性婚が話題の昨今ですから世情におもねる解釈かもしれませんねぇ。

戦国時代には男性の同性愛は一般的でした。

信長と森蘭丸などはその代表です。

戦陣で、女気がないから代用に・・・といった感じでしたね。

小督の局・・・次男・結城秀康の母です。

この人ほど後世の小説家から虐待を受けた人はないという程、好き勝手に書かれましたね。

家康が「次男にもかかわらず秀康を秀吉の養子に出した」から、きっと嫌っていたに違いない・・・という思い込みでしょうか。

定説、各種の家康物小説、脚本では

「築山殿の侍女だったお督を、家康が湯殿で強姦した」

「たった一回の性交で子ができたのを、家康が不審に思った・・・自分の子ではない?」

「築山殿が悋気で虐めた、堕胎させようとした」

「生まれたのが双子で、縁起が悪いと忌み嫌われた」

などなど枚挙にいとまが無いほど・・・マイナスイメージの創作がなされています。

この創作は3男の秀忠を世継ぎにすることの妥当性、正当性を主張しようとしてなされたものと思われます。

長男・信康もその母も、そして結城秀康もその母も「徳川将軍家の世継ぎにふさわしくない」と主張したかったのでしょう。

秀忠の取り巻きたちが「秀忠こそ正統な後継者」とするために、ライバルを貶めた逸話を創作した可能性もあります。

ただ、これらの定説はすべて否定されます。

まず、小督が側室になったのは浜松です。

岡崎にいる築山殿が虐めようがありません。

ただ、家康が浮気のバレる事を異常なほどに気にして・・・邪険にしたという事はあり得ます。

瀬名さんが怖かった・・・???

家康の子、長男・信康、次男・秀康、三男・秀忠の三人を軍事能力、政治能力で比較すると・・・どうやら一番劣ったのが秀忠だったようで、劣ったものを「最優秀」にするための論理立て・・・

幕僚たちの忖度? 努力も大変でしたね。

西郷の局

浜松時代に家康が最も愛した側室だと言われています。

秀忠、松平信吉の母です。

秀忠の母ですから前記、小督とは逆に最高に美化されています。

美人で心根も良く家康最愛の側室と・・・

茶阿局

遠江の百姓の娘ですが、「夫の仇討ちをしたい」という勝ち気なところが家康に好かれ、6男・忠輝、7男・松千代、4女・松姫を産んでいます。

松姫は戸田家に嫁ぎ、国宝松本城の守り神として祀られることになります。

阿茶局

側室と言うよりは女流政治家として活躍します。

大坂の陣では家康の名代として淀君など大阪方との交渉を進めます。

秀忠の娘が天皇に入内する際には母代わりを務めます。

そのほか、下山殿、お松、お竹、お仙、お牟須、お亀、普照院、お梶、お万、お奈津、お梅、お六、富子と、総勢20名・・・大奥も賑やかになりますね。

家康の子どもたち

20名の妻妾を抱えて、さぞかし大量生産・・・と思いますが、家康の子どもは男11人、女5人で16人です。

男の子は歴史書に名を残しますが、女の子は残らないのが普通ですが、それでも歴史に名を残すのが・・・さすがは神君・「家康の姫」ですね。

長女の亀姫は奥平家に輿入れし、徳川親藩の一角を担います。

二女の督姫が・・・前回の放送で生まれた赤子で、この子は波乱頑丈な人生でした。

家康の駿河侵攻で、対立した北条との和睦の条件として北条5代目・氏直の正室となります。

その後、小田原攻めで北条家が滅亡、氏直も高野山で死亡し・・・徳川家に戻ります。

それを・・・秀吉が仲介して池田輝政に嫁ぎます。

北条では子孫を残しませんでしたが、池田家に嫁いで後は5人の男子を産みました。

相性でしょうかね。こればっかりは天の配剤です。