海人の夢 第48回 勢いの行方
文聞亭笑一
時代には流れがあります。水の流れには勢いがあります。先般の大震災における津波の襲来がその典型ですが、水に勢いがつけば、人の力ではなんともなりません。孫子の兵法は全13篇からなりますが、その中の5番目に「勢篇」があります。そこで孫子が述べていることを要約すれば、
「@攻撃は一瞬のチャンスを捉え、兵に勢いをつけて一気呵成に攻めよ。
A兵に勢いをつけるのには、二階に上げて梯子を外してしまえ。逃げ場を失えば戦って生き延びるしか道はない。優れた指揮官は戦勝を勢いに任せて、人には求めない」
と言うことですが、源平時代同様に、動乱期だった明治維新の主役の一人、勝海舟は
「ことを為すは人にあり、人を動かすは勢いにあり、勢いを作るもまた人にあり」
と、語録を残しています。動乱期、戦時下、災害時…平時でないときのマネージメントの要諦ですね。私なども、仕事上で「ここ一番!」というときには、海舟の言葉を座右におき、タイミングを図るべく、状況(戦況)の変化に最大の注意を払っていました。部下たちに勢いがついたら、かなり困難なプロジェクトでも、期日内に仕上がるものです。
富士川の戦いにおける平家軍の敗走と、戦術の天才、義経の登場は、源氏に傾いた勢いの代表で、もはや停めることのできない勢いを持ち出しました。それは、清盛が目指した武士の世が、開拓、開墾農業を育てていた結果に他なりません。海外からの積極的技術導入の結果、農民たちには守るべき資産、土地が蓄えられていたのです。一所懸命、つまり、自分の所有した土地に命を懸ける雰囲気が出来上がっていたのです。彼らの思いを代弁したのは平氏ではなく、源氏でした。平氏は通商による富に酔いしれて、圧倒的多数の国民の思いを忘れていたのです。
現代も、姿を変えた動乱期に入ってきました。衆議院選挙で11?、12もの政党が林立し、宣伝カーが走り回っていますが、来夏の参議院選挙を含めて「この国の形」が定まってきそうです。今までシラケ気味で、棄権だった社会の主役、若者や働き盛りが投票所に足を向けるようになったら、世の中は大きく変わりそうな雰囲気もあります。選挙の結果、そしてその後の合従連衡、……政治家にとっては大きな転換期でしょうね。わたしはどこが勝つかより、投票率がどうなるかに最大の関心を払っています。特に20代、30代の投票率に注目しています。山が動くかもしれません。
75、平家の勢いは、自分の力で、ついに頂点まで達した。これからは福原を中心にして、宋の国と盛んに交易を行い、国の富を増やしながら、自分は帝のお側にあり、政治を執り行おうと言うのが、清盛の望みであった。従来の公卿政治を排して、初めて自分が武家政治を布くのだ、と思うと、限りなく力が湧いて出た。
富士川での敗戦を受けても、清盛は依然、自信満々です。国家戦略の基本は揺るぎもしません。ようやくにして作り上げた自分の理想国家を、自分が軸になってまわし始めるのです。関白から京への環都問題を打診されて、その検討を息子や孫たちに任せ、一人、高殿に昇り、潮騒を聞きながら夢の世界に浸ります。
「やるべきことはし終えた。通商立国への道筋もつけた」と言う満足感に浸る一方で、二代目、三代目の後継者がいないことに、寂しさを覚えていたことと思います。創業者が立派であれば、その分だけ、後継者は辛い立場になります。「先代は…」言われるほど、後継者にとって辛いことはありません。企業人が「前任者は…」と言われるのも同様ですが、先代と当代である自分は違う人なのです。先代が失敗続きであれば、こんな楽なことはないのですが、なまじ成功者であれば、何をしても批判の対称になります。脳天気鳩やアホ菅のような人の後ならラッキーですが、そのときは既に組織の命運は傾いていて、喜んでいる暇などありません。泥鰌が、まさに、その典型ですよ。
福原から京都への環都、清盛の体力、気力の衰えでしょうね。根気がなくなっています。
76、院宣と同時に、父の下知では、ことごとく南都を焼き払うべし、とある。
だが、ここまで来てみると、重衡は、古い歴史を持った南都の寺々に火を放つことはいかがかと、ためらう気持ちが起きた。
その重衡の気持ちなど察せず、部下たちは手に、手に松明を持ち、興福寺と、東大寺に駆け入り、至る所に火をつけた。
「一所懸命」な農民の自衛隊である武士たちは、平家の規制緩和、通商重視の政治に危機感を覚えています。また、そのように宣伝、煽動をしたのは寺社勢力です。商業利権を取り戻すべく、源氏に期待しました。各地で源氏勢力…というより、反平家勢力が蜂起します。京から至近距離の近江では、山本義経が兵を集め、源氏の白旗を掲げました。
それに呼応したのが以仁王の乱で叩かれた園城寺の僧兵たちと、叡山の下級僧兵です。
数千の兵を集め、蜂起しました。いずれも平家軍に叩かれ、比叡山の援助も得られず、自滅しますが、これに危機感を覚え、立ち上がったのが奈良の寺々でした。逃げ延びてきた園城寺、叡山の僧兵たちが「仏敵・清盛」と叫ぶのに呼応して、反平家の旗色を鮮明にしました。興福寺にしてみれば、大檀家の藤原一族の衰退は、興福寺の衰退を意味します。東国で起きた現時の造反をチャンスに、平家討伐への道を選びました。
平家軍は東国には4男の知盛を派遣し、南都には5男の重衡を総大将に攻め込みます。脅しを含めて、「逆らうなら、すべてを灰にせよ」と指示されていますから、将兵には破壊の勢いがついています。重衡の命令を待つまでもなく、ということごとく南都を焼き払うべし清盛の命令を実行します。付き従ったのが、僧兵のデモ(神輿ぶり)鎮圧で苦労していた連中ですからね。この際…の意趣返しです。東大寺、興福寺、現在の修学旅行のメッカは、数千の僧兵、逃げ込んだ民衆とともに焼け落ちました。犠牲者は一万人を越えたと言われます。大仏も首が落ち、上部は焼け爛れて見る影もありません。
77、こうやって天下が動乱の巷になろうとしているとき、上皇もたいそう心を悩まされ、それが病の原因になったらしい。焼け落ちた南都をいかに再建するか、それも上皇の病を重くした。ついに上皇は療養先の六波羅池殿で崩御された。二十一歳であった。
大仏炎上は、当時の人々にとって衝撃的事件です。そうですね、現代の原発事故に相当します。「ありえない」と、考えたこともなかった事件が起きたのです。仏敵平家、それを容認した天皇家にも批判の矢が降り注ぎます。とりわけ興福寺の大旦那である藤原一門は、持てる情報網のすべてを駆使して平家批判をあおります。まぁ、現代のマスコミですね。
「やっちまえ」と指示した清盛、後白河の二人は批判は覚悟の上ですから平気ですが、高倉上皇は悔恨の情に苛まされます。物凄いストレスだったでしょうね。
ストレスこそ万病の素といいますが、取り巻きの藤原一門から白い目で見られ、一人の味方もなく悶々と苦しむ若者…気の毒を通り越して、これは拷問でしょう。
時代が違うとお考えでしょうが、他人事ではありませんよ。退職勧告に応じない人をリストラするために、随所でこのような拷問(?)が行われているらしいのです。するほうも問題ですが、されるほうも権利主張ばかりしているから、その対象にされるんです。
貴重な文化財を失ったのは痛恨の極みですが、宗教勢力でありながら、武装勢力に堕落していた寺院も、なるべくしてそうなったわけで、自業自得です。金儲けばかりに走る現代の寺門も、怒ったり哂ったりばかりいられませんよ。いずれ天罰が下ります(笑)
78、上皇の喪に服している間に、清盛の耳に入ってきたのは、源行家が尾張へ入り、平家の軍勢と戦う体制を整えている、と言うことと、木曽義仲が北陸方面に進出しようとしているという情報であった。
近畿圏は鎮圧しましたが、源氏の勢いは止まりません。平家の軍勢はモグラ叩き状態に陥りました。この時期、頼朝は兵を北に向けています。平家方の、常陸の佐竹一族を制圧に向かい、関東一円の地盤をゆるぎないものにしています。戦略的には実に正しい行動で、まず足元を固めると言うのは、基本中の基本です。それに、頼朝は清盛の死ぬのを待っていたのかもしれません。関東一円の平家勢力を潰して、恩賞とすべき土地は十分にありますから、慌てて京に攻め込む必要はないのです。
この動きに業を煮やしたのが、十郎行家です。彼の根拠は熊野ですから、平家の討伐を受ける危険が大きいのです。尾張の旧源氏を糾合し、忠度率いる平家と一戦しますが…、ケチョンケチョンにやられて逃げ出します。この人は煽動家ですが、武士でも政治家でもありませんでしたね。マスコミの寵児、評論家のような人です。そう、菅直人??
それよりも、信濃、越後兵を率いた義仲が、着々と勢力を膨らませ、北陸道を進んできます。こちらは強力ですよ。津波ですよ。名乗りあってから戦うなどという、平安武士の作法など知りません。三人が一塊になってくる集団戦です。