八重の桜 04  開国の決断

文聞亭笑一

明治維新における幕開けは「海の発見」であったのではないかと思います。周りをすべて海に囲まれた日本で、海の発見とは突飛な表現に過ぎるかとも思いますが、250年間にわたる鎖国で、日本人は海の存在を忘れていたのではないでしょうか。

瀬戸内海、日本海という海は意識していたでしょうが、地球規模で見れば、瀬戸内海は入り組んだ入り江、日本海もカスピ海、黒海並みの大きな湖に過ぎません。太平洋の向こう側に何があるのか、そんなことに関しては全く意識に上らなかったと思います。

その、海の存在を痛烈に意識した人が、海から最も離れた山奥の信州人・佐久間象山であったというところが、面白くも不思議です。日頃から海を見ている人にとって、海の存在は当たり前で、意識にすら上らないでしょうが、象山にとって長崎で見た海と、海外からの文物は衝撃だったと思います。文聞亭にとっても、小学生の修学旅行で、知多半島から初めて見た海は、強烈な印象でした。世界が変わりました。

<やっぱり地球は丸いんだ>  一口飲んで<ゲッ!!海水は塩辛い>

この二つの事実は、痛烈な印象として、いまだに忘れることが出来ません。<海の向こうにアメリカがあるのか>と、好奇心が海を渡って行きました。さらに、高校に入って、校歌の中に海が出てきたのにも驚きでした。

蒼明遠き波の果て 黒潮たぎる絶頭に 立てり大和の蜻蛉(あきつ)島(しま)

栄えの歴史は三千年 その麗しき名を負える 蜻蛉男児に栄あれ

太平洋からこの国を眺めた歌詞です。しかも、校章に蜻蛉(とんぼ)を使っていますから、日本国を背負って立つのだと意気込んでいます。作詞が明治初年ですから、まさに維新の熱気をそのままに伝えていますね。

佐久間象山から吉田松陰、勝海舟へ、さらに桂小五郎、坂本龍馬へと熱気は増幅しながら伝わっていきました。その一人が八重の兄、山本覚馬でした。

13、「通商条約調印の件、不首尾となれば、あるいは、メリケンと一戦交える仕儀となるやに聞き及びまする。かかる折に、山本覚馬が兵制改革を献策したは、武人として正しき振る舞い。禁足など、早くお解きになるのがよろしかろうと存じまする」
番頭の西郷頼母が切り出した。

黒船来航を機に、国内世論は鎖国か、開国かで大揺れに揺れます。どの程度の揺れだったか? 多分、安保闘争のような感じだったでしょうね。安保ではゲバ棒程度の武器しかありませんでしたが、この時代は銃器、刀槍など武器がふんだんにあります。揺れ方は安保とは比較にならないほど過激だったでしょうね。

尊皇攘夷論を唱えだしたのは、水戸藩の藤田東湖です。その理論を支持して政治の先頭に立ったのが水戸藩主・徳川斉昭と、息子の一橋慶喜です。幕府内部が攘夷と開国に真っ二つに割れて、政争の坩堝に化します。ここ数年続くねじれ国会に良く似た状況でしたね。

問題をややこしくしたのは「開国か攘夷か」のほかに、尊皇と言う概念が加わったことです。この、尊皇を開国派も認めてしまっていたところが、幕府崩壊の遠因になりました。徳川幕府創業者の家康は、こうなることを最も恐れ、公家諸法度で朝廷の政治への口出しを固く禁じていたのです。が、その縛りがゆるみ、身内の水戸藩が尊皇思想を宣伝するに及んで、家康の作った政治体制は足元が崩れ始めていました。

会津藩は、いわば第三極のような立場で、鎖国、開国のいずれの派にも属しては居なかったのですが、幕府の決定には忠実に従う立場です。現代の自衛隊、警察という役割に徹していました。これが会津の伝統で、始祖・保科正之以来の家訓です。

兵器、兵制の近代化。自衛隊なら当然の検討課題です。

14、「もはや、古きものを守るだけでは、立ち行かぬ。藩を守るため、変えるべきことは変えていかねばならぬ。両名とも力を尽くせ」   ・・・(中略)・・・
身分や立場こそが自分を自分たらしめているものと、覚馬も、そして八重も思っていたのに気付かされたのだ。

改革というのは口で言うほど生易しいものではありません。民の鳩ボンやみのトンガリ頭が改革を売り物にしますが、改革には必ず痛みが伴います。あらゆるところで、今までと変えなくてはならないことばかりが増えます。今まで正しかったことが悪となり、とんでもないと思っていたことをやらされます。読者の殆どの皆さんは業務のシステム化という被改革経験の持ち主だと思いますが、「ボールペンからキーボードへ」という改革も大変でしたよね。「コンピュータに使われる」という反対論で、労働組合までもが騒ぎました。

それに、年功序列の人事システムから、能力主義に変わったのも大きな改革ですよね。日本社会に僅かに残っていた身分制度が、消えてなくなりました。しかし、いまだに

身分や立場こそが自分を自分たらしめているものと思っている人も居るようです。

イスラムの台頭、中国の脅威、そしてTPPと、我々を取り巻く環境は日々厳しさを増しています。平和と博愛…それだけでは改革には遠いと思いますよ。

15、1858年4月、彦根藩主・井伊直弼が大老に就任した。そして6月19日、幕府は、日米通商条約の締結に踏み切った。  …(略)…
徳川慶福を将軍の後継者に定めることが発表された。ほどなく、斉昭に謹慎、春嶽に隠居謹慎、慶喜に登城停止の処分が決まり、一橋派は政治の表舞台から消えていった。

日米通商条約の締結は、鎖国政策からの大転換を意味します。日本の外交方針が180度転換した画期的な事件でした。それを決断した井伊直弼は、明治維新の功労者の一人です。NHKが最初に始めた大河ドラマは「花の生涯」。尾上松緑が井伊直弼を演じていました。

勿論、締結した条約は不平等条約もいいところで、明治の外交官たちを悩ませましたが、新しいことを始めるのに失敗はつき物です。最初から完成形を求めるのは無理ですね。

そもそも、条約と言う契約概念がこの国に入ってきたのは、このときが最初なのです。

何を決めるのか? 決めたことへの責任と義務は? など、基本が分かっていません。

アメリカが提示した条約案を和文化するだけでも、大変なことだったでしょう。

私が、日本で初めてのアウトソーシング契約の交渉に当たっていたときも、類似体験をしました。先方が持ち込んできた条文は英文!! これは即座に蹴飛ばしましたが、次に来たのが直訳の日本語。慌てて翻訳したのでしょう。言い回しを含めて日本語でなく、カタコトでしたね。これを、我が方に都合よく日本語化して(笑)、それから契約交渉に入りました。その作品(?)が、どうやら日本語版契約書の雛型になったようで、私の文学作品の処女作ですかねぇ(大笑)

その意味では、TPPも早めに交渉参加したほうがいいですねぇ。遅れれば遅れるほど不利な条件を呑まされるか、不参加に追い込まれます。農業、農産物がネックになることは見えていますが、今でも三ちゃん農業、いや爺ちゃん婆ちゃん二ちゃん農業です。高齢化がますます進みます。抜本改革せざるをえないのではないでしょうか。

反対派は、不参加の場合の日本の国家の姿を提示する責務があります。ただし、通商なくしてこの国は成り立たない、と言う現実を外してはいけません。

それはさておき、中央政界は井伊直弼の独裁がスタートします。このあたりは、何年か前の大河「篤姫」や「龍馬伝」でご存知の通りです。

16、9月、水戸藩への密勅にかかわったものたちの検挙が始まった。安政の大獄の幕が切って落とされたのだ。
直弼による峻烈な弾圧が始まったと言う話は、会津にも伝わっていた。覚馬も気になっていた。そして翌年5月、覚馬は江戸から届いた書状でその残忍な弾圧の実態を思い知らされる。

水戸斉昭を中心にする攘夷派も、黙って引っ込んではいません。尊皇を旗印に、朝廷の権威を取り込んで、幕府、将軍に対抗します。朝廷への政治工作で、水戸藩に「倒幕」の勅書が発行されます。ここから、安政の大獄と呼ばれる思想弾圧が始まります。

家康が「天皇は政治に口出しするな」と定めた家訓を、その末裔の水戸藩が破りましたから、これで幕府の権威は消滅してしまいます。たとえ水戸派が政権を握ったとしても、従来どおりの政治は出来なかったでしょう。

慶喜が15代将軍となって、そのことを証明しています。何も出来ない将軍でした。

ともかく、条約調印で開国が決まり、この事実は誰が政権をとっても変えることができなくなりました。にもかかわらず、攘夷を叫ぶ人たちが活躍を始めます。下関砲撃、薩英戦争、…危なかったですねぇ。欧米に侵略されなかったのは奇跡的です。