八重の桜 16 一会桑政権

文聞亭笑一

聞きなれない言葉ですが、京都から長州を追い出した後から、鳥羽伏見で薩摩軍に敗れるまでの5年間、日本の国政を担当していた集団を一会桑政権と呼びます。一橋(慶喜)、会津藩、桑名藩の頭文字をとったものです。トロイカ体制というのか、それぞれが,全く別の思惑でしたが、日本の国政を代表していました。幕府は江戸で、老中以下の官僚機構が働いていたのですが、諸大名は江戸の官僚機構を全く無視しています。命令は京都から出る…ということが常識になっていましたね。

老大国などと揶揄される大企業にもよくある話ですが、実力専務(慶喜)がいて、本業を預かる事業部長(容保)がいて、傾きかけた社運を担っています。本社管理部門長(老中、奉行)は若社長(家茂)を担いで、旧態依然の業務を続ける……。社員(大名)は、どちらの言うことを聞くべきかと迷いつつ、「なんとかなるだろう」と日和見します。親方日の丸とは、まさにこの時代の日本の政治でしたね。

長州は過激派の組合、薩摩は中道の第二組合、そして組合運動を支えるのが越前の春嶽、土佐の容堂、宇和島の伊達、佐賀の鍋島といった大大名でした。国内は麻の乱れる如く、バラバラです。この状態でよくぞ列強の侵略を受けなかったものと、感心するほどです。

列強が、中国にしたような強引な侵略行為をしなかったのは、たぶん、日本市場に魅力がなかったからでしょうね。当時の日本にあったものは豊富な金銀だけでした。これは、経済音痴の幕府を騙せば、投資をしなくても、いくらでも引き出せます。生麦事件で一万ドル、長州の商船砲撃で一万ドル、薩英戦争で10万ドル、馬関戦争では、なんと3百万ドルをせしめています。捕鯨のための基地がほしいアメリカを除き、領土的野心よりも、金銀をかすめ取るほうが得策とみていました。グラバー商会を通じた武器輸入…この額は、賠償金の比ではありません。全国の大少名が、競って長崎で銃の買い入れに、金銀を放出していたのです。しかも為替レートの10倍以上の高値で…。

情報不足、交渉力の欠如は国を痩せさせます。企業も同じ……。

61、御用部屋で勝を待っていたのは慶喜と春嶽だった。慶喜は勝にいきなり、長州との和議の使者に立つように命じた。勝の頬がピクリと動いた。
「即刻、戦を止めてまいれ。いつまでも続けられては面倒じゃ」

先週号で、慶喜を鳩ポッポと比喩しましたが、鳩に菅を加えたタイプですね。やたらと恰好をつけたがるタイプです。頭が悪いわけではありません。当時としては東大卒のエリートです。が、苦労知らずで、本人の意思と関係なく次期社長候補、実質社長になってしまいました。経営のことはわかりません。現場のことなど全くわかりません。わかっているのは理屈だけですが…、こういうタイプが上司になると、困るのは部下たちです。

かくすれば かくなるものと言うけれど そうならぬのが人の世の中

世の中の事象は理屈通りに動いてくれません。例外だらけです。教科書通り、法則通りに動いてくれたら、頭のいい人、記憶力の強い人がリーダをすれば、世の中は丸く収まるはずですが、そうなりませんねぇ。

頭のよい人は、彼我の力関係がよく見えます。幕府と長州の戦闘はどう考えても幕府の負けです。やる気のない15万人と、必死の一万人ですから「窮鼠猫を噛む」のたとえ通りの戦況です。ここで「この野郎!」と頭に来れば、幕府が勝ったでしょうが、なまじ頭が良いだけに「やーめた」となります。

原発事故の菅直人…まさにそれを再現して見せました。なりふり構わず、アメリカ、フランス、ロシアに援助を要請し、国連にも泣きついて、事態を収拾すれば、世界の原子力行政に多大な貢献をしたでしょうが、「原発はよくない。将来はゼロだ」などと恰好をつけて、原因究明すらもおざなりにしました。

勝海舟の怒り…よくわかります。理不尽な要求でも、命令ならやるのが部下の勤めです。

62、「べらぼうめ。幕府は長州に負けるんじゃねぇ。己の内側から崩れていくんだ。
ご公儀の屋台骨はとうにガタがきておる。おい、覚馬、おぬしの目は節穴か。こんな戦に勝ちも負けもねぇ。勝ったところで、幕府が一息つくだけだ。その幕府ってぇのは一体なんだ。元をただせば数いる大名の中で一番強かったってぇだけだ。二百六十年間それで天下は治まってきた。だが、もういかん。幕府は歳を取りすぎた。見た目は立派な大木だが、中身はスカスカの洞(うろ)だらけ。いつ倒れても不思議はねぇ」

高齢化は社会の重荷です。そういう私も70歳にリーチがかかりましたが、過去の成功体験にこだわります。政治批判をするくせに「さぁ、やってみろ」と言われたら、気力、体力、技術力が伴いません。「最初の一、二年は大いに暴れて見せましょう。その後は…」と言った山本五十六と同じく、長続きできません。

勝海舟は維新史の中で脇役として登場しますが、実は、一番の主役を演じたヒーローだったのではないかと思っています。「日本」を日本としてとらえて行動した点では、ほかの明治の元勲にはない爽やかさがあります。現代でいえば石原慎太郎がそれに近いでしょうか。西郷、大久保の薩摩も、木戸、伊藤、山県の長州も…そして坂本竜馬も、海舟の掌の上で暴れていたような気がします。

戦争反対とは、口先ですることではありません。身を賭して、騒乱の真っただ中に乗り込み、火を消すことです。北朝鮮が常識外れの馬鹿なことを始めようとしていますが、平和憲法擁護を標榜するK党、S党などの幹部が「身を賭して」何とかするという行動も、言動も見られません。所詮は口先だけの主義主張なんだろうと、嗤っておきましょう。

日本の官僚機構も「中身はスカスカの洞だらけ」です。総入れ替え、早期退職を募集し、大リストラをやる時期です。官僚機構に労働組合なんて、何かおかしいですよ。

その出身者が、野党のドンをやるなどは、「内側から崩れていくんだ」ですよ。

63、「我らは、重い荷を背負うた者同士。ご先祖代々、守り、培ってきたものを、両肩に背負って歩いてゆかねばならぬ。時には因循姑息とのそしりを受けながら。
今の世では壊すことよりも、守り続けることのほうが、えろぅ難しい。その苦しさを、まこと分かち合えたのは、そなたひとりであった」
帝の声が濡れている。

天皇というのは……、私には一番やりたくない職業です。が、やりたくても、やれないから助かります(笑)

天皇と宮家は、常に衆目にさらされています。国家元首、国家の象徴ですから、立小便もできません。それは言い過ぎにしても、唾も吐けませんし欠伸もままなりません。週刊誌や、パパラッチなどが、一瞬の気のゆるみさえ見逃さず、記事にします。だれも表立って批判しませんが、それがますますつらい立場です。考えようによれば、懲役刑よりも、禁固刑よりも、つらい刑罰を受けているような環境ですよね。うつ病になっても、委細構わず、批判の矢面に立たされますしねぇ。気の毒です。

人生は重き荷を負うって坂道を行くがごとし…徳川の家祖・家康の遺訓ですが、政権を担当するということは、まさにこの一言に尽きます。総理大臣でなくても、社長でなくても、銘々がそれぞれに責任を負う仕事をしています、重き荷とは「責任」のことで、傍から見て重さは測れません。90過ぎたお気楽そうに見える婆さんでも、荷を負っているんです。この重さは、本人にしかわかりません。だから、周りがとやかくアドバイスできることではないんです。「してあげる福祉」なんてのは…単なるお節介のような気がします。

64、慶応二年12月5日、徳川慶喜は15代将軍に任ぜられた。5年に及んだ、容保の京都守護職の勤めが、ようやく終わりを迎えようとしていた。しかし、それから僅か20日後、……思いもよらぬことが起きる。突然の帝の崩御である。

将軍家茂、孝明天皇と、相次いで国家元首ともいうべき人が亡くなります。しかも、両方とも後継者が決まっていません。幕府のほうは曲がりなりにも慶喜が後継者に決まりましたが、朝廷は公家たちの思惑が渦巻いています。幕府派、薩摩派、長州派…

そこへもってきて諸外国からは神戸開港の要求が突きつけられています。慶喜、容保の政権が国政を放り出して田舎に引っ込むわけにはいきません。軍事力はあっても薩摩や長州が国政を担当する能力まではありません。まだまだ、政権を批判するだけの野党にすぎませんでした。孝明天皇は大の外国嫌いで、攘夷の権化のような人でした。さらに、政権をとる気は全くなく、行政は幕府の仕事と割り切っていました。

その天皇が亡くなることで、王政復古という新しい政治目標が出てきます。それを提唱し、薩摩を焚き付けていったのが岩倉具視です。これはすなわち、討幕ということです。尊皇攘夷が、時代の流れに揉まれ、変質し、いつの間にか討幕開国に変わってきていました。