八重の桜 15 会津外し

文聞亭笑一

13,14週では八重の結婚がテーマでしたが、作者のパソコンが焼きもちを焼いたらしく、文書作成を拒否しました。皆様には大変ご迷惑をおかけいたしましたが、新しい機械で再開します。ただ、作文は新妻で、通信は古女房でと、双方に顔を立てておきます。(笑)

八重と川崎尚之介の結婚ですが、これが実は、会津藩には正式に認められていません。ですから、戸籍上は内縁関係となってしまいます。会津藩は、この後、戦争に巻き込まれますが、戸籍の管理はしっかりしていて、明治まで遅滞なく続けられていますから、…少し変ですね。ここから先は、筆者の推測になりますが……多分、この結婚を機会に尚之介の藩士取り立てを画策したのが、裏目に出たのではないかと思います。

この当時、会津に限らず、藩士同士の婚姻は殿様の承認を必要としていました。国許に婚姻届けを出しておけば、そのまま追認されますが、身分は浪人のままになります。浪人とその妻という扱いですね。それではいけないと、届を覚馬経由で藩主に直接申請し、合わせて藩士への取り立てを依頼しようとしたのではないでしょうか。ところが、京ではごたごた続きで超多忙になり、提出したり、取り立てを依頼するゆとりがなくなり、出しそびれてしまったようですね。したがって、無届の婚姻関係、内縁、となってしまいました。

しかし、そんなことはわかりませんから、国許では藩士並みに扱われます。のちの籠城戦では尚之介が砲兵隊長として指揮を執っていますからね。まぁ、戦時中にはよくあることです。手続きうんぬんより実利本位、今度の震災の場合も、同様な悲劇が至る所で発生しているものと思われます。記録が消えてしまえば、あとは、記憶だけが頼りです。

57、将軍上洛から四か月が過ぎた慶応元年(1865年)9月21日、慶喜の脅しが功を奏し、第二次長州征伐の勅が、ようやく下った。

この当時、幕府も、朝廷も、責任感をもって政治に当たる者がいません。いったい誰が行政府の長なのか、それすらわからない状態でした。慶喜にしたところで、自分が総理大臣であるという自覚はありません。総理は天皇で、自分はその補佐官であるという認識です。……が、天皇はといえば、天皇も「行政は幕府にゆだねてある」という認識でした。となれば、将軍の家茂ですが、こちらも「天皇の認可がなければ何もできない」と思っていますから、責任感は希薄です。天皇、将軍、慶喜…この三人が、それぞれの理屈で「俺じゃねぇ」と思っていましたから、何も決まりません。決まらない政治、決められない政治、百年後にも同じ現象が起きました。どうやら日本社会の通弊のようですね。この現象は国家レベルから町内会に至るまで同様で、全員賛成でない限り動かない…というバカな現象が起きています。「違憲」と宣告されていながら定数是正ができない国会、維新の時代を笑えませんよ。ひどいものです。

こんな状態では、小学生に政治の仕組みを教えられませんね。三権分立、三権の機能、絵に描いた餅にすぎません。学者のたわごとです。

ともかく、一方の責任者である慶喜が、強引に責任を孝明天皇に押し付けて勅を出させます。

58、「もはや徳川だけに政治を任せちゃおられん。そん思いは薩摩も同じでごわんで。
力ずくでも共和政治をはじめんこつには、徳川の一人天下は崩せぬ。…そんために組むべき相手は、会津じゃなか。会津には堅き掟がごわして幕府から離れられん。
木戸さぁ、手をば組みもんそ。お望みの洋式銃も、薩摩の名義で調達もんそ。そんで、信用してくいやんせ」

混乱の中で、薩摩がキャスティングボードを握っています。薩摩は幕府にも協力姿勢を見せますし、公家たちも買収して恩を売っています。もともと公家たちは長州の資金援助で生活していたのですが、長州を賊にしてしまいましたから資金源が断たれています。幕府も、家康以来の扶持しか出しませんから、どこかの支援が必要です。この隙間に、うまく入り込んだのが薩摩でした。かといって、「俺が総理だ」というには資金も力も、そして権威も足りません。

薩長同盟を仕掛けたのは、坂本龍馬です。先生の勝海舟は、「徳川を首班にした共和政治」を目指していたのですが、弟子の竜馬はさらに一歩踏み出して、「将軍なしの共和政治」を目指します。そうなれば、雄藩連合の構想になりますね。薩摩、長州、越前、土佐、宇和島などの開明派の殿様が合議制で方針を決め、天皇の権威で実行していこうという構想になります。薩摩と長州がいがみ合っていては、この構想に進みません。

現代の「維新」と「みんな」の関係を見てください。浮動票を奪い合って、いがみ合い、イマイチ自民党に対抗できません。民主党右派を取り込んでみたり、まだまだ集合離散が続きそうですねぇ。小異を捨てて大同につくまでには、時間がかかりそうです。

薩長は討幕で一致しますが、この時点では「討徳川」ではありません。討徳川にしてしまうと、越前、土佐などが敵にまわります。越前は御三家に次ぐ家柄の徳川親藩ですし、土佐も徳川の恩を大切にする家です。ですから、征夷大将軍という役職を返上させれば、それで討幕が実現したことになり、徳川家をつぶす必要はないのです。

この共和構想に、会津は外されます。これは、蛤御門での戦闘と、新選組によるテロ行為が悪影響を及ぼしたことと、容保が天皇から特別に信任されていたことが影響していますね。

また、一会桑政権などと呼ばれた通り、この時期の政治の中心にいたことが「幕府=会津」という図式を作ってしまいました。だれか悪者を作らないと、納まりがつかないのです。生贄のヒツジという役回りでしょうか。気の毒としか言いようがありません。

59、征長軍は15万の大軍、対する長州は一万である。長州藩を上関口、芸州口、石州口、小倉口の四方向から攻める軍略が練られた。上関口にある周防大島に幕府艦隊の砲撃が始まり、いったんは長州藩軍を追い払ったが、その後の再戦で奪還されてしまった。負けるはずがない戦いに、幕府軍は敗れ続けていた。

数だけ比較したら、戦いになりません。長州は赤子の手をひねるようにやられてしまいます。が、そうはいかないところが面白いですね。あれだけ駄々っ子を演じている北朝鮮を叩けないのと同じです。国連決議…北の将軍には痛くも痒くもないのでしょう。好き勝手をやっています。この時代の薩摩は、今の中国と同じ態度でしたね。

幕府軍といいますが、しょせんは烏合の衆です。指揮官がいません。形式上は将軍家茂が総司令官ですが、何もしていません。老中連中も出動しません。出動させられた諸藩が、自らの判断で動くのですから、危ないところは逃げ出します。一番ちゃっかりしていたのは信州松本藩、大阪城守備隊を買って出て、見事に遠征費を浮かせています。遠征費は各藩の自己負担ですから、どの藩もやる気がありませんよね。長州に反撃されたら、すぐに逃げます。戊辰戦争でも同じで「ドンゴリ」という言葉が流行りました。大砲がドンと鳴ったら5里逃げるという戦意のなさです。「身の危険がない限り発砲してはならぬ」という掟に縛られている自衛隊も…同じでしょうね。36計逃げるにしかず…です。

小倉藩小笠原家もひどかったですね。数百人の奇兵隊に攻められて城を捨てて逃げ出しています。この家は、信州にいた時も武田信玄に攻められて、城を捨てて逃げていますから、先祖代々の平和主義者なのでしょう。礼儀作法だけで出世した家です。

60、七月末に徳川宗家を継いだ慶喜は、8月8日参内し、自ら出陣することを奏上し、孝明天皇から「征長の指揮を執り、速やかに追討の功を挙げよ」との勅命と節刀を賜った。

もたもたしている間に、将軍家茂が死にます。こうなると…ただでさえやる気がない軍隊は、ますますやる気を失います。頽勢を立て直そうと、慶喜は天皇の権威を借りますが、敗戦の報告ばかりを聞いているうちに、怖くなってきます。責任を取らされることに恐れを抱きます。生来、無責任なボンボン育ちですねぇ。格好いいところだけやって、危なくなると逃げ出すという卑怯者の典型でしょうね。言行不一致の標本です。

こういう人…現代にもいますよね。「独自外交」「最低でも県外」などと、見込もなしにラッパを吹きまくりましたが、結局は野垂れ死。共通点は、いいとこのボンボンです。どうやら…歴史を学んだことがないようですね。その後も、中国に招かれて性懲りもなく「尖閣諸島は係争地である」などとバカな発言を繰り返します。国賊ですねぇ。批判する気にもなれません。