八重の桜 12  蛤御門

文聞亭笑一

蛤御門、私にとっては懐かしい場所です。京都、大阪の勤務が長かったこともありますが、私の勤めていた会社の研修センタが、蛤御門のすぐ近くにありました。多分、その辺りに長州が陣取り、御所に向かって攻撃をかけたであろうと思しき辺りです。営業訓練や新入社員訓練を担当していた後輩は、毎朝研修生をたたき起こして御所の庭に行き、朝の体操とランニングをやらせていましたね。早朝の御所に中庭は、実に清々しいものでした。

毎年冬になると、高校駅伝の若者たちが門の前を駆け抜けます。2区の走者ですから、3kmの短距離、猛烈な勢いで走っていきます。どこの県?なんて学校?などとゼッケンを確認する暇さえありません。テレビで見るのとは大違いです。

今週は、八重と尚之助の想いのすれ違い、婚礼を言い渡されての反発など、恋愛ドラマの筋書きと、戦争場面が同時進行します。が、女心の揺れるところはテレビに任せ、無粋な筆者は、専ら歴史を追ってみます。

この蛤御門をめぐって、会津と長州が死闘を繰り広げてから120年、何の為の戦いだったのか? 教科書の歴史とは少し離れて考えて見たいと思います。

45、「かねてより長州藩士の入京を禁じているにもかかわらず、兵を率いて都に迫るのは不届き至極。また、退去の指示にも従わず、勅命を奉ずる意のなきことは、もはや明らか。長州の軍勢、速やかに掃討せよ」
ついに、天皇から長州討伐の勅が下った。

公家や官僚といった生活の実態から遠い人ほど、戦争が嫌いです。戦争と言うより、争いごとが嫌いですね。平和と言う言葉は耳に快いのですが、人の世は争いごとなしには回っていきません。生産にしろ、商売にしろ、なにがしかの競争がありますからねぇ。そういう、社会から隔離された人々が指導者になると、現場に不満が溜まり、爆発を起こします。そうなると・・・平和主義者は逆上し、極端に好戦的になります。ここのところが怖いのです。言論人という人々、学者、ジャーナリストの怖いところです。

この時代の思想的流れを「尊皇攘夷」と四文字熟語で表しますが、これほど間違った史観はないのではないでしょうか。尊皇と言いますが、天皇親政を目指していた勢力は、この時点では京の公家たちだけです。長州は毛利政権を夢見ています。薩摩も島津政権を目指します。天皇を飾り物に据えると言う点では、徳川幕府となんら変わりません。ですから倒幕か佐幕かという対立軸ですね。さらに、将軍独裁か共和制(議会制)かという対立軸があります。それに加えて、外交方針としての鎖国か開国かと言う対立軸です。これだけでも三次元ですよね。分類すれば8つの思想閥、党派に分かれます。現代の政党乱立の情況となんら変わりません。護憲か改憲か、TPPに入る・入らぬ、経済成長か福祉か・・・。

長州は「政権交代」と「鎖国」を主張します。攘夷の急先鋒でしたが、そもそも攘夷とは何か、誰も整理して方向を示していません。「外人は嫌いだ」という熱狂のようなものですが、あえて言えば、久坂玄瑞が記録を残しています。要約すれば・・・

1、国防第一・軍備強化

2、決断する政治、植民地化回避

3、外交により外国同志を争わせる

4、食糧安保、資源安保、鎖国、自給自足

5、尊皇を柱に大同団結、倒幕、長州政権樹立

攘夷と言いながらも、伊藤俊輔(博文)、井上門多(馨)などを英国留学させています。

会津は「佐幕」だけです。単純明快なんですねぇ。世界観が足りないと言うか、規律に忠実な模範的軍人だったのです。

46、7月18日、深夜、長州勢が三方向から進軍を開始した。覚馬は、鉄砲隊を率いて蛤御門を固めた。そこに、馬に乗って現れたのは慶喜である。
「必ず禁門を死守せよ。一人たりとも、中に入れるな」

徳川慶喜という人はわかりにくい人です。そう、「少なくとも県外」と騒いで迷走した、この間の総理に良く似ています。カッコいいんです。が、理論明晰・意味不明なのです。

ですから、見ようによっては名君ですし、反対から見たら意志薄弱な愚人です。このときは幕府軍総大将として颯爽と登場し、各御門の守備兵に檄を飛ばして廻ります。それだけ見ていたら、スーパースターですよね。

会津藩は、長州の出方を読みそこないました。伏見にいた長州藩家老福原越後の軍を主力と考え、その方面に兵力を集中します。その分、御所の守りは手薄になりました。この軍には、各藩の寄せ集め兵も伏見迎撃に集中させます。中でも主力は大垣藩でした。

あまり目立ちませんが、大垣藩について触れておきます。戊辰戦争では、色々な意味で活躍(?)する藩ですからね。鳥羽伏見では幕軍として戦い、会津攻撃では官軍の先鋒を務めます。美濃大垣・戸田家10万石、信州松本藩・戸田家と同族です。この藩に小原鉄心という家老がいました。開明派で、行政改革、軍制改革を進め、この当時、大阪城勤番の役にあります。軍は、武士だけでなく僧兵、農兵など薩長同様に近代化しています。武器も会津よりは近代化していました。その意味で、当時京都周辺にいた軍隊の中で、薩摩と並んで最強ではなかったかと思います。

伏見の長州勢は、幕府の軍に蹴散らされます。

47、覚馬は薩摩の銃に目を奪われていた。最新式のエンフィールド銃だった。射程が長く、命中率が格段に高い。その新式銃を、薩摩兵は軽々と使いこなしていた。

蛤御門での戦況は一進一退、会津兵は長州の侵攻を食い止めます。が、両脇の門を固めた幕府軍が弱すぎました。敵に後ろに回りこまれます。

そこに援軍に現れたのが、西郷率いる島津勢です。これは強力でした。兵の数以上に兵器の優秀さと、兵の訓練が行き届いています。一気に片がつきました。

この当時、西郷隆盛は長い島流しの生活から復帰し、京都詰めの責任者をしていました。

西郷は、幕府との協調路線を模索していましたから、佐久間象山、勝海舟とは親交があります。西郷が、この二人を評した記録があります。

「学問と見識において佐久間抜群なれど、ことに臨みては勝先生なり」

勝海舟には先生とつけています。これは、勝から共和制を教わったからでしょう。

一方の勝は、西郷のことを、坂本龍馬の口を借りて評価しています。

「西郷とはわからぬ奴だ。少し叩けば少し響き、大きく叩けば大きく響く。

もし馬鹿なら大きな馬鹿で、もし利口なら大きな利口だろう」 (氷川清話)

勝と西郷、この二人は後にことに臨みます。江戸城無血開城・・・これで日本は列強の侵略から免れます。西郷は大きな利口でした。が、不平士族に担がれて西南戦争を起こします。これは大きな馬鹿だったかもしれません。西郷と言う重石が消えて、日本陸軍は山県有朋の専横となり、破滅的軍事大国を目指して邁進することになります。

48、戦火に焼かれた京の町は無惨なばかりだった。ところどころに焼け落ちた家や土蔵がポツンポツンと残っているだけで、町は見渡す限りの焼け野原だった。

京都人がよく口にすることですが、「この前の大火で焼けてしまいましてなぁ、京の良さはのぅなってしまいましたんや」という言葉を耳にします。京都人一流の諧謔ですが、「はて、京都は爆撃されていませんよね?」と問い返すと、「応仁の乱のことでんがな」と返されます。が、正しくは蛤御門の乱で町の半分以上が焼け落ちています。

このとき、御所攻撃に参加した長州兵は御所の南にあった鷹司邸に逃げ込みます。ここの攻防で、敗色濃厚となり、屋敷に火をつけて逃げ出します。逃げるには火事の混乱が必要で、煙幕と庶民の立ち騒ぐのが助けになりますからね。火をつけたのは鷹司邸だけではなかったでしょう。あちこちに放火しながら逃げたと思われます。

その責任が、なぜ会津に向かって追及されるのか。

宣伝工作です。これを得意とする長州藩と、苦手な会津藩。その差です。更に、火事の後の民政の失敗ですね。新撰組を中心に、残党狩りや、犯人隠匿などを厳しく処断しました。誤審、冤罪も多かったでしょうね。

京の町で、会津の人気がなかった最大の理由は、会津藩士が、本質的に軍人気質だったからでしょう。「おい、こら」という態度が嫌われたのだと思います。しかも、東北の訛りがありますからねぇ。田舎者、百姓と言う言葉は、京都人が相手を見下すときに使います。

田舎とは・・・世間知らずの野蛮人。百姓とは・・・どこの馬の骨かわからん、ならず者です。

これに迎合して、都会人らしく、京の町に馴染もうとすると、いいようにいびられます。

虐め倒されます。私などは「わしゃぁ信州の山猿じゃ。百姓の倅じゃ」と逆張りをして、突っ張りましたね。木曽義仲を思い出させて、威張っていました(笑)