八重の桜 予告編1  高遠の桜

文聞亭笑一

来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の予告編が流れ出しました。

「誰の生涯を描くの?」と妻に尋ねられて、「山本八重って誰だ? そんな歴史小説ってあったっけ?」と、本屋の棚に並ぶ小説の背表紙を探してみましたが、見当たりません。

戊辰戦争の会津が舞台であることは、予告編からわかりますが、主役が思い当たらないのです。しかし、<窮すれば通ず>といいますが、目を皿のようにして本屋の棚を見つめていたら「幕末会津の男たち、女たち――山本八重よ銃をとれ」というタイトルの本を見つけました。山本八重、新島襄と結婚して新島八重、同志社を立ち上げた人でした。

さて、早速来年に向けての予習です。心覚えのメモ代わりに、八重の生まれ育った環境を追いかけて見ます。

徳川二代将軍、秀忠のご落胤・幸松丸

まず、舞台となる幕末の会津藩をおさらいしなくてはなりません。

藩祖、保科正之は徳川二代将軍・秀忠の三男に当たります。三男なのですが、秀忠が正室お江に内緒で浮気をし、「出来ちゃった子」ですから、徳川家の正統な子供として江戸城で育てる訳にはいきません。それどころか、お江に知られたら命すら危ないというので、由緒ある尼寺に預けます。その尼寺の庵主が見性院、武田信玄の次女で、穴山梅雪の妻だった人です。ですから正之の幼名は「武田幸松丸」と名づけられ、見性院はその子に武田家再興の夢を託します。

しかし、尼寺で育てていては由緒ある武田の再興は難しいと、見性院が最も信頼していた元武田の武将、保科弾正に養子として引き取ってもらいます。このことは父親の秀忠も同意の上です。江戸に置いていたら、いつかはお江にバレます。バレたら、後が怖いんですねぇ。ここらあたりは現代の我々と同じで、お江は強いんです。(笑)

正之は3歳から、保科家の居城である信州高遠で育ちます。高遠城…諏訪湖から天竜川が流れ下る伊那谷の奥に位置します。深い谷を隔てて切り立った崖の上に建つ、典型的な山城です。ここの小彼岸桜は、赤色が強く、最盛期には山を真っ赤に染め上げるほどで、実に見事です。この桜の色が、高遠を守った仁科五郎の壮絶な戦いと重なって、血の色にすら見えてしまいます。

高遠城 会津藩のルーツ

仁科五郎というのは武田信玄の五男信盛です。武田勝頼の弟ですね。織田、徳川の連合軍に攻められて、勝頼は甲斐へ逃げ、周りの城は次々と降伏、寝返りをする中で、ただ一人、3千の兵で7万の織田軍に対峙します。普通なら戦にならぬほどの戦力の差ですが、この城は天然の要害の上に建ち、城への道も切り立った崖道一本しかありません。兵の数が役に立たないのです。鉄砲を撃ちかけるにも、高度差が大きくて威力を発揮できません。織田軍は兵を損なうばかりで、近づけませんでした。

が、兵の数が20倍もあります。城の反対側の山から数千の兵がロッククライミングをするようによじ登り、城の裏から攻め立てましたから、ついには落城してしまいます。守備兵は全滅しましたが、織田軍の被害はそれ以上に達したといわれています。「両軍あわせて数千人が流した血を吸って赤いのだ」というのが高遠の桜です。

この戦いでは、男ばかりでなく百人を越える女たちも長刀や弓を取って戦っています。

中でも、諏訪 花という女性の活躍はひときわ抜きん出ていて、城に近づく敵兵を太刀で一刀両断にしてしまい、最後は敵中に駆け込んで大暴れした後に、刀を口にくわえて自決したといわれています。この諏訪 花こそが、会津藩女子の鏡として250年間語り継がれ、戊辰戦争での会津藩女子軍の壮絶な戦いの手本になりました。ドラマの主役、山本八重にとっても、頭から離れなかった英雄だったでしょうね。

この高遠城に勘助曲輪と呼ばれる一角があります。そう、武田信玄の軍師山本勘助が築き、自らも屋敷を持っていた場所です。本丸のすぐ下にあり、本丸を攻めるにはこの勘助曲輪を落とさなくてはなりませんが、まるで要塞のような作りで、一筋縄では攻められない構造ですねぇ。さすが勘助…という面目躍如の感があります。

山本八重の生家、会津山本家は、この山本勘助の末裔といわれています。代々鉄砲方を勤めたようですが、重臣というほどではありません。鉄砲足軽を部下に持ち、その指揮官という役回りだったようです。八重が、女ながらに最新鋭のスナイドル銃(7連発ライフル)を持ち、土佐の将官クラス3人を撃ち殺し、後の元帥、大山巌に貫通銃創を与えたのも、幼い頃からの訓練の賜物だったのでしょう。

保科家、会津へ

日陰の身で、高遠3万石の領主だった保科正之も、お江が亡くなると、晴れて将軍の子として秀忠、家光に対面が叶います。家光は弟の忠長を謀反の罪で切腹させてしまっていますから、弟は正之しかいません。しかも、正之は決して将軍の子であることを表に出しません。忠長とは違って、兄の家光に従順なのです。

家光から最も頼りにされる存在となった正之は、高遠3万石から、最上(山形)20万石に移封され、ついで会津23万石に栄転します。このときですねぇ。高遠で家臣だったものは、全員が正之に従って東北に移住しますが、そればかりではなく、それに加えて、信州人が新たに家臣として召抱えられ、山形、会津に向かいます。この地域には旧武田家の残党が大勢浪人していましたから、採用はしやすかったのだろうと思います。八重の山本家も、このとき採用された者の一人ではなかったかと思います。

維新当時の会津藩士は約3千人(家)ですが、保科家家臣300人に、新規採用200人、そして商人や職人たちも付いていきます。3万石御用達が、23万石御用達になりますから、それだけで市場が7−8倍になりますよね、ついていくのが当然です。

多分、そのためだろうと思いますが、会津や福島などの食文化が信州、それも南信の味に似ています。私は蕎麦好きですが、福島で食べる蕎麦の味は、まるでふるさとに帰ったような気がします。

保科家の家臣団は、勿論現地の会津出身者が最も多くなりますが、首脳陣、千石取の家臣は高遠以来の家でしたね。ですから仁科五郎、諏訪花などの物語は、家臣団の教育に常に使われていたでしょう。

会津戊辰戦争の3女傑の歌

明日の夜は 何(いず)国(く)の誰が眺むらむ なれしお城に残す月影 (山本八重)

落城の夜、煌々と光る月を眺めながら、会津鶴ヶ城への惜別の歌です。筆も紙もない中で、小柄で倉庫の壁に刻み込んで、書き残したと伝えられています。

なよ竹の 風に任する身ながらも たわまぬ節は ありとこそきけ (西郷千重子)

千重子は主席家老、西郷頼母の妻です。二本松城で夫の率いる軍が大敗し、政府軍が侵攻してくるという前夜、一族郎党21人を集めて集団自決したときの辞世です。

武士(もののふ)の 猛(たけ)き心にくらぶれば 数にもいらぬわが身ながらも (中野竹子)

政府軍の進攻に、多くの女性たちは籠城のため城に向かいますが、長刀を小脇に抱えて戦場に走る女性もいました。女と見て鉄砲を撃ちかけてこない油断を突いて、敵陣に駆け込み、政府軍兵士をなで斬りにした女傑もいたようです。諏訪 花の教訓が、明治維新の頃まで生き残っていたのです。まさに戦国女性の再来でした。

会津といえば、文聞亭には懐かしく甦ってくる思い出があります。私の祖母は、決して口には出しませんでしたが、会津藩士の家系であったようです。 私が小学生、そう、5,6年生の頃から、祖父はパーキンソン病になり、手が震えて手紙が書けなくなりました。そうなると、年賀状の代筆をするのは私の仕事です。習字の時間に太筆は習っていましたが、細筆で字を書いたことなどありません。四苦八苦しながら、宛名書き、挨拶書きをしました。と、その中に「岩手県下閉伊郡・・・」という宛名があって、こんな遠いところに知り合いがいたのかと尋ねました。祖母の兄が、その住所でした。会津を追われた藩士たちは下北半島の斗南藩3万石に移住したのですが、新政府の言う3万石は嘘八百で、米は採れず、雑穀も7千石程度だったようです。飢えた藩士たちは、近隣へと職を求めていきますが、行き着く先は三陸の漁村しかありません。漁業を手伝いながら、山地を開墾して糊口を凌いでいたようですね。

祖母の旧姓は望月でした。信州では名族の一つです。多分、保科家に従って会津に移住した一族だったのでしょう。その、祖母の兄が亡くなったとき、親父が葬式に行きましたが、帰るなり「いやぁ、遠かった」とひとこと漏らしたのを記憶しています。昭和30年ごろの交通事情ですから…信州から宮古まで、とんでもなく大変な旅行だったでしょうね。

一昨年、地震、津波のくる前に三陸、下北半島を旅行しましたが、あの美しい景色も、そこで生きる人々には大変な土地だと、しみじみ感じました。