八重の桜 06  テロの掃討

文聞亭笑一

いよいよ会津藩が時代の荒海に引き込まれ、一方の主役として、維新の大波を被る運命になっていきます。自ら求めて立ち上がったわけではなく、なりゆきで、想いもよらぬ方向に引っ張られてしまうところが気の毒ではありますが、我々を含めて運命とはそういうものですね。皆さんの現在のお立場も、偶然の積み重ねの結果が大半で、自ら求めてそうなったことは僅かでしょう。

トンネルの天井が落ちてきて命を失った方も、アルジェで事故にあった方々も、津波や原発事故でご苦労されている方々も、求めてそうなったわけではありません。歴史と言うのは、その意味で、偶然の積み重ねた結果ともいえるのではないでしょうか。

「幕末史」を書いた半藤一利さんは、その著書の中で、日本人の通弊について触れています。その一節を抜粋しますと、

「日本人は起きたら困ることを、起きないことにしようとする。そして、起きないと思い込む努力をする。それが繰り返されると、起きないと信じ込む」と書いています。

大津波、原発事故、トンネル…皆、この体質(?)が見えぬ力として働いて、安全神話を生んできました。「発生確率」と「発生したときの重大性」は別次元の問題で、それぞれに検証し、予防策、応急策を講じるのが安全判断の基本なのですが、確率の低いものは、その重大性まで無視してしまうところが、「想定外」という言葉です。重大性の高いものは、いかに確率が低くとも、想定はしておくことが当然です。

これは、NASAの手法を見習って、宇宙開発を担当するJAXAでは当たり前の思考法ですが、そういう考え方を取っていなかった通産、原子力委、東電などは「伝統的日本人」の集まりだったんでしょうね。

この部分は、ぜひとも改めなくてはいけません。想定はしておくべきです。

想定しても「やらない」と決めることは当然ありうるわけで、その論拠を越えるものがでたら、潔く腹をくくるしかありませんよね。

21、その年の晩秋(1861年)疱瘡を患って寝付いていた容保の正室・敏姫が亡くなった。位牌の前で手を合わせる容保の後姿を見つめながら、照は敏との最後の時間を思い出していた。

以前にも少しだけ触れましたが、藩主容保と敏姫、照姫の関係は微妙です。

先代藩主は高齢になっても子が出来ず、やむなく同族の保科家から照姫を養女としてもらいうけます。そして、その婿にと容保を養子に迎えました。ですから、幼少の頃の二人は許婚の間柄でした。が、先代に思わぬ子が出来ました。それが敏姫です。そうなると…親の情としては実子に家を継がせたくなります。容保の許婚の相手は、照姫から敏姫に代わってしまいました。

だからといって、照姫を側室にするわけにも行きません。豊後中津藩・奥平家に嫁に出します。が、離縁して会津に戻ってきてしまいました。離縁の理由はわかりません。が、結婚してからも容保のことが忘れられず、和歌での文通が続いていたようですね。

どうやら、それが離縁された理由ではないかと、想像する作家、歴史家が多いようです。

今回のドラマでは、敏姫が疱瘡で死んだ、ということになっていますが、実際、敏姫が疱瘡に罹ったのは容保との結婚前のことです。幸い完治しましたが、顔には傷跡が無数に残ってしまいました。いわゆる「あばた」です。しかし、容保はそのことを全く気にせず、側室通いなどもなかったようですから、その道に関してはマジメ派だったようですね。

当時、疱瘡の罹患率は相当高く、長崎伝来の予防接種が始まっていました。開明派の照姫はこれを受けていましたが、敏姫は種痘を嫌う漢方典医の反対で、結果的に罹患してしまいました。

22、文久二年、(1861年)四月、時代の歯車を大きく動かす事件が起きた。
薩摩の島津久光が、千人の軍勢と大砲を率いて、京に上ったのだ。

たしかに、時代の歯車を大きく動かす事件でしたね。島原の乱以降、武装集団が団体行動を取る事件は発生していませんでした。ですから、赤穂浪士47人が団体行動で吉良邸に討ち入ったのが大事件になったのです。

武装した千人もの兵士たちが、軍艦で大阪に乗り込み、そして京へ迫るとなればクーデターです。京阪の市民にとって兵隊の姿を見るのは大阪冬、夏の陣以来だったでしょう。大混乱を起こします。しかも、幕府の正規軍ではなく、外様の島津ですからね。攘夷浪人たちの跋扈で迷惑を蒙っていた市民にとって、薩摩はその親玉とも写ったでしょう。

そのことを知って人気取りやったのか、それとも自らの信念に基づいての行動か、そこのところが不明瞭ですが、島津久光はまず、薩摩浪人の処分から始めます。これが寺田屋事件です。脱藩者を処分する…という名目で有馬新七以下の薩摩浪士を斬ります。この時、寺田屋の二階には田中河内介、真木和泉などの名の知れた攘夷派の煽動者たちも居たのですが、彼らには目もくれませんでした。

この軍事行動における島津久光の狙いは何だったのか?本人の発言や記録は残っていません。が、島流しになっていた西郷のあずかり知らぬ話ですし、同行していた大久保利通も口をつぐんでいます。その点から、島津久光の自己顕示、幕政への発言権拡大へのパフォーマンスと見る意見が主流です。現代の政治家にもこのタイプが居ますね。

23、「まずは京の抑えでございましょう。上様ご上洛前に、不逞浪士どもを追い払わなくてはなりませぬ。一日も早く京都守護職を置くことです」・・・(略)
血筋、家格ともに申し分なく、兵力とご交儀への忠誠心を併せ持つもの。会津中将、松平肥後守が適任にございましょう」

これは松平春嶽と一橋慶喜の会話からの引用です。

このころ、公武合体論というのがにわかに脚光を浴び、皇女和宮を将軍家茂の正室にして融和を計り、朝廷と幕府共同参画の政府を作ろうと言う動きです。これの立案者は長州藩の長井雅楽頭でした。そして朝廷でこの案を推進していたのが岩倉具視です。幕府では松平春嶽、一橋慶喜が公武合体案に乗り気でした。勿論、土佐の山内容堂、宇和島の伊達宗城も賛成です。その後の展開を見ると、訳がわからなくなりますが、幕府も、薩長も、朝廷も、一致団結して「公武合体新体制」に賛成だったのです。

反対したのは誰か、ここで言うところの不逞浪士たちです。長州の松下村塾出身者や、土佐の武市半平太などが中心でしたね。彼らは天誅と称して、テロ行為を繰り返していました。そうです、維新前期のヒーローといわれる人たちはテロリストなのです。

勝てば官軍ですが、テロを是認し、英雄にし、神様にまでしてしまったのが明治政府でしたね。イスラム原理主義者、アルカイダ、・・・彼らも、同質だと思います。その意味で、私は攘夷浪人をヒーローにする文学作品には同意しかねます。

24、大君の義、一心大切に忠勤を存ずべし。二心を懐かば、我が子孫にあらず。徳川御宗家と存亡を共にするのが会津の務めだ。このお役目、逃れられぬ。是非に及ばぬ。この上は、都を死に場所と心得、お役目を全うするよりほかはない。みな、覚悟を定め、わしに力を貸してくれ。

会津藩初代、保科正之の遺訓が生き返ってしまいました。幕府内部は250年の泰平に酔って、旗本御家人などは徳川に忠誠心のかけらもありませんが、悲しいかな、会津には生き残っていましたねぇ。「将軍に不忠な藩主なら、勘当して追い出せ」といっています。

容保は養子ですが、いや、養子であるがために、余計にこの家訓に縛られます。

ここらあたりが企業などでも、後継者選びの難しいところです。多くの大企業でも、長い年月の間に、創業家の子息を据えたり、社員を抜擢したりを繰り返します。選ばれた個人の実力もさる事ながら、社内の求心力を高めるときには創業家を持ち出し、改革期には抜擢人事を行うなど、試行錯誤の繰り返しです。勝てば官軍、負ければ賊軍は、いつの時代も変わりません。

会津藩の場合、江戸詰めの者たちは容保の心情に打たれて、京都進出の準備に掛かりますが、会津の国許は反対意見が多数です。とりわけその中心になったのが西郷頼母です。

お手討ち覚悟で諫言しますが、容保の決意の固さに聞き入れてもらえません。いよいよ、会津藩は時代の渦中に飛び込みます。その任務はテロの鎮圧です。イラクやアフガニスタンに派遣された米軍兵士の姿が重なって見えてきますねぇ。テロリストの掃討と治安維持、全く同じ任務です。

今週はすっかり会津贔屓で文章を書きました。土佐の異骨相先生や、薩摩出身の隼人チリ先生にはご不満でしょうが、テロは正当化できませんからね。あしからず。