八重の桜 07  話せばわかる

文聞亭笑一

今回の号のタイトルは「話せばわかる」としました。

この言葉、理念は、現代の日本人にとって、憲法と同じくらい重要な社会通念になっていますが、その現代においてですら、話してもわからない人々がたくさん居ます。宗教や憎悪に凝り固まった人たちが、中東やアフリカで暴れています。隣の大国も、自分が不利になることに関しては、話せばわかる相手ではありませんねぇ。「話してもわからない態度」をとり続けます。どうやら、それが外交だと思っているようです。

さらに、国内でもキレた若者たちが、或る日突然に無差別殺人に走ったりします。こういう非常識に、言葉は通用しませんねぇ。個性尊重の掛け声も結構ですが、分からず屋に対する手段を考えておかないと、やられ損です。最近の事件は、精神異常を疑うものか、金目当てのいずれかで、同情のかけらもない、殺伐たるものばかりです。話してもわからない人々の増加は、安全、安心にとって最大の脅威ですね。教育のあり方を、抜本的に見直さなくてはいけません。そういう時期になりました。

さて、京への出立を前に、会津には別離の哀愁が漂います。

文久2年(1862)から明治元年(1868)まで、会津の人々は時代の奔流に押し流されて、悲劇的な結末へと、怒涛の波に洗われることになります。嵐の前の静けさです。束の間の高揚感、それが今週のテーマでしょうね。

会津の女たちの哀愁はテレビに任せて、こちらは歴史を追ってみますが、八重の交友関係は記憶にとどめておいてください。彼、彼女らは、戊辰戦争、及びその後に重要な役割を担うことになります。

25、文久2年のその秋、京では天誅(てんちゅう)の嵐が吹き荒れていた。 浪士が、公家の家臣が、町奉行所の与力までもが斬り殺され、都は血の色に染まった。

攘夷浪士によるテロ事件は枚挙に暇がありません。主だったものを拾うだけでも……

同じ攘夷派の越後浪人、本間精一郎が殺られます。公卿に取り入って、金のために堕落したと言うのがその理由ですから、赤軍派のリンチに似ています。

公家侍では島田左近、宇郷玄蕃、深尾式部など…公武合体に協力したと言うのが罪状。

安政の大獄を演出した井伊直弼の参謀だった長野主膳、その妾・村山タカとその息子。

攘夷派学者の捜査、逮捕に当たった与力同心4人と目明し文吉。これらは、報復です。

海外貿易で潤ったと、商人の平野屋寿三郎、煎餅屋(せんべいや)半兵衛・・・これは見せしめ

テロの黒幕は、土佐の武市半平太です。長州のように潤沢な活動資金がないので、目立つことをして名をあげようとします。「月様、雨が…」の、月形半平太のモデルですね。

実行犯は岡田以蔵(土佐)、川上彦(げん)斎(さい)(肥後)中村半次郎(薩摩)田中新兵衛(薩摩)、この四人が、エース格の殺し屋でした。

この現状を憂いて、勝海舟は、次の歌を詠んでいます。

討つ人も 討たるる人も あぢきなき おなじ御(み)国の 人と思えば (海舟)

(あぢきない…面白くない、つまらない、情けない、益がない、しなくてもよいこと)

<何とつまらぬことをしているのか、どっちもどっちだ。好い加減にしろ。日本人同士で殺し合いをしてどうするんだ。攘夷というなら敵は外国人だろう>というところでしょうか。渡米して西欧文明を見てきた目には、情けない殺し合いと映ったでしょうね。「あじきない・味気ない」と言う幅の広い言葉が、海舟の心情を表しています。

テロ集団に入りかかった坂本龍馬は、海舟に遇って目が醒めます。危ないところでした。

26、一行は、会津本陣を置く、黒谷の金戒光明寺に入った。  (略) 
「我が衣じゃ。直して、陣羽織にでもせよ」
孝明天皇の声が上から降ってきた。容保はあまりのことにどうしてよいかわからない。
公家たちも異例のことにざわめいている。

京・東山の黒谷と言われてもピンと来ないと思いますが、銀閣寺から南に下る哲学の道界隈と言えばお分かりいただけるでしょうか。由緒ある寺々が立ち並ぶ閑静なところです。

京の市街地からは距離があります。会津から出て行った藩士たちにとっては、町の真ん中に居るより、多少なりとも落ち着ける場所ではありました。

容保は早速参内して着任の挨拶をします。公家たちは<奥州の田舎者>と、馬鹿にしていますが、容保は尾張徳川家の流れを汲みますし、江戸育ちですから礼儀作法は心得ています。立ち居振る舞いの立派さに、孝明天皇が感激し、自らの着衣を下賜すると言う、前例のない褒美を出します。容保をすっかり気に入ってしまいました。

人は、まず、先入観によって物を見ます。「これは、こうである」と思って見るからそう見えるのであって、それと反する結果が出たときは、驚き、感激します。心理学の実験に使う絵柄<娘か、老婆か>などで皆さんも経験したと思います。蕨や茸を採りに山に入った時もそうですよね。一本見つけたら、その後は続々と目に飛び込んできます。生えている環境、状況がわかれば、その記憶を頼りに、見えなかったものが見えてくるのです。

27、将軍後見職の慶喜と、政治総裁職の春嶽が京に上ってきたのは、それから間もなくのことであった。容保の話を聞くと、春嶽と慶喜は首をひねった。
「言路洞開、と仰せか」春嶽は容保の言葉を繰り返した。
「不逞の者どもの言を聞いて、取締りの策などなるものか」慶喜が嘯(うそぶ)いた。

京都守護として容保はまず、攘夷浪人たちの言い分を聞き、懐柔策に出ます。言(げん)路(ろ)洞(とう)開(かい)とは、即ち「話せばわかる」と言うことで、浪人たちの要求や思いを聞き、説得しようという策に出ます。食い詰め浪人なら、金を渡して退去させようと考えていました。

しかし、武市半平太の率いる一党は、半ば宗教的に攘夷に凝り固まっている連中ですし、京以外に帰るところもありません。殺し屋連中は当然のことながら顔を見せませんし、弁の達者な連中は、説得された振りをして、金をせしめて帰ります。

その点、会津藩士は牧歌的で、朴訥でしたね。「甘い」と言えばそれまでですが、京の市内で攘夷浪士たちがどういう行動をしているのか、情報の把握ができていませんでした。無理もありません。江戸詰めの経験もなく、都会生活者の心情など理解できなかったのです。ましてや京都は…いちげんさん・田舎者をいびって、虐めることが大好きな土地柄なのです。今でも、相変わらず「京のぶぶ漬け」ですからねぇ。

こう書くと、京都人は必ず「そんなことはない」と反論してきますが、本人が意識していないだけで、随所でこれをやってくれます。ともかく、愛想だけは抜群に良いのですが、しっかりと観察され、評判が巡りめぐってこちらの耳に達します。評判が耳に達するまでに時間がかかりますし、数人の口を経由してきますから…弁解も出来ません。(笑)

28、ところが、……その年の2月、三条河原に木像の首が三つ、台の上に晒すように置かれるという事件が起きた。首は、北山等持院にある足利三代の木像から、引き抜かれたものであり、それぞれ首の下に足利将軍の位牌がつるしてあった。

容保の平和的解決作は、裏目に出ます。攘夷派の理念は「言路洞開話せばわかる」ものではなく、既に信念として倒幕、尊皇新政権樹立に向かっていました。話せば…大政奉還しか、解決策はなかったのです。

足利将軍の木像の首事件は、会津藩を愚弄するものであり、倒幕の意思をあからさまに表明したものでした。さすがに、容保も己の非を悟ります。「目には目を」と、決意を固めるしかありません。

ところで、攘夷浪人たちは、いかなる思想、理論で動いていたのでしょうか。

「幕末史」の著者半沢一利氏は「攘夷がきちんとした理論を持って唱えられたことは殆どなく、熱狂的な空気、情熱が先走っていた」と書いています。そういえば…安保騒動のときがそうでしたね。あの時もアジテーターが攘夷(反米)を叫びました。安保とは戦争に巻き込まれることという宣伝文句に踊らされて、猫も杓子もプラカードを掲げ、殴り合いに参加しました。「安保とは何か」などという議論は全くなかったように記憶しています。

その後の大学紛争はもっと無定見な行動でした。ともかく、教授や学長をつるし上げにし、缶詰にし、学校を占拠してお祭り騒ぎでしたねぇ。

今、中国との関係が微妙です。中国は日本を挑発し、日本国内が安保的雰囲気になることを狙っているかもしれません。「攘夷の風」…これが吹き出すと、空気を読み、迎合することが得意の日本人は、あらぬ方向に走り出すかもしれません。

「冷静に」「冷静に」そして、断固たる外交姿勢を貫くべき時です。中国の非を、世界に知らしめることですね。所詮、ヤクザの言いがかりなのですから。