八重の桜 予告編2  什の掟

文聞亭笑一

幕末の会津藩を語るとき、外せないのが「什の掟」です。

「什」とは何か? ですが、辞書には「@数字の十 A日常の器具 B詩歌」とあります。

よく使われるのは什器備品という言葉ですからAの意味が強いですね。日常品でしょう。

つまり、子供たちが日常心がけること、道徳律の意味です。NHKの予告編を見ながら、

<ならぬことは、ならぬのです>??どこかで聞いたことのある言葉だが…と思い返してみましたが、老化が進みだした脳味噌では、なかなかたどり着きませんでした。わからないことはインタネットと、検索してみたら…、そうか!藤原正彦の「国家の品格」で紹介していた言葉だ!と思い出しました。

「国家の品格」、2005年に刊行されるやブームとなってミリオンセラーになりました。さらに、「○○の品格」と題する本が続々刊行され、これまた売れて、品格ブームを巻き起こしました。国民は「品格」という言葉に、この国の将来を夢見たのでしょう。

が、そこからがいけません。郵政選挙で大勝した小泉政権のあとを受け継いだ安倍に始まり、福田、麻生、鳩山、菅、野田と6代続けて、内閣は一年しか保ちません。日替わりメニューというのか、毎年交代して、品格など、どこにもない政争の嵐が続いています。

今度こそ…と、落ち着いた政権を期待しているのですが、新たな枠組みを巡って迷走することのないよう、品格ある政権運営に期待したいところです。

さて、什の掟をおさらいしてみます。

什の掟
一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二、年長者にはお辞儀をしなくてはなりませぬ
三、虚言を言うことはなりませぬ
四、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ
五、弱いものを虐めてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

ならぬことは、ならぬものです

会津藩では、幼少の武家の子弟は郷中(少年団)に集まり、毎回これを復唱します。

そして、掟に背いたことがなかったか、年長者から尋問を受け、反省をさせられます。

もし、違反していればシッペなどの罰を受けます。まぁ、罰といってもかわいいものですが、恥を重んじた江戸期の武士の世界では、かなりな恥辱だったようですね。

こういう手習いと倫理の、郷中での教育は、現代の小学生の年齢までで、11,2歳になると藩校・日新館に入学し、本格的な学問と武芸の稽古に入ります。ですから、中学に入るまでは徹底して道徳教育をするというのが、会津藩の伝統でした。郷中教育はどこの藩でもやっていましたが、その結束力の強さは薩摩と会津が、その双璧だったでしょうね。

一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二、年長者にはお辞儀をしなくてはなりませぬ

この部分は、「年功序列だ、古い」と批判されますが、小学生までの教育としては、間違っているとはいえません。10歳くらいまでの子供は、何が正しくて、何が間違っているのか、その判断基準が曖昧です。ですから、ならぬことは、ならぬものですと押し付けることが必要です。私は、同居の孫が小学生の6年間、野球チームのコーチをしましたが

「ダメちゅうたらダメなんじゃい。四の五の言わんと練習せい!」と怒鳴っていましたね。

基礎、基本の部分は、体育だけでなく、知育も徳育も同じことだと思います。

年長者には、当然大人や、藩校の先輩も入ります。ですから、藩校生徒、つまり白虎隊に入ってからの指揮命令系統の訓練にもなるわけです。いずれ、物語の中で登場してくる白虎隊の悲劇ですが、年長者の言うことに背いてはなりませぬに違反して、独自の判断で戦闘に飛び込んでしまった者達の間違えた行動でした。隊長が連絡で留守の間に「動いてはならぬ」の命令を破って、敵に突撃し、さらに、飯盛山では会津藩が焼いた城下の煙を、落城と勘違いして集団自決してしまいました。白虎隊は、戊辰戦争を代表する悲劇として美談化されていますが、実は、ハネカエリ、チンピラ達の早とちりだったようです。

ちなみに、白虎隊は11歳から17歳くらいまでの中高生の年代の若者です。その上の世代が青龍隊、30,40代が主力部隊の朱雀隊、年寄りは玄武隊と、世代別構成でした。

三、虚言を言うことはなりませぬ

うそつきは泥棒の始まり…というのが、現代にも生き残る倫理ですが、会津の子供たちも、シッペで叱られるのは、この項目が一番多かったようです。いつの時代でも、年齢に関係なく、この項目に違反しますねぇ(笑)

選挙運動と称する大うそつき大会が終わりましたが、政権を執った者は、幹となる政策について、決して嘘をついてはいけません。それに、マスコミ雀も、重箱の隅をつつくような枝葉に拘ってはいけません。枝と幹を問い質し、幹のブレがないように監視するのが「世間の木鐸」の勤めです。

四、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ

私たちの年代は「卑怯」といわれることが大嫌いですが、卑怯には、かなり世代間格差があるかもしれません。さらに、国際的には、その感覚に相当大きな差があります。

たとえば、中国政府の尖閣問題に関する態度や、韓国の竹島に対する態度、そしてロシアの北方四島に対する態度、実に卑怯な行動ですが、彼らは、彼らの論理を主張します。屁理屈でしかありませんが、それが外交の世界です。日本政府は一貫して「国際法に基づき、日本固有の領土」と主張していますが、泥棒たちは盛んに外交の場で多数派工作をしています。国際法を変えてしまおうという卑怯(?)な振る舞いをしています。国民が一体となって、あらゆる場と機会を利用して、日本の主張を展開しないと、そのうちに対馬、沖縄や北海道まで触手を伸ばしかねません。卑怯という価値観のない国々ですからね。

私などが見ていて、現代日本で最も卑怯なのはマスコミだと思っています。彼らは、言論の自由と、知る権利を隠れ蓑に、横着三昧な取材態度で、政治家や有名人の人権を侵害します。これが、日本の政治を矮小化させています。人権活動家は、そういうマスコミにこそ矛先を向けるべきで、「言葉狩り」などという卑劣な手段は止めてほしいものです。

五、弱いものを虐めてはなりませぬ

虐めの問題、大人も子供もかかわりなく、世の中虐めばっかりが横行します。この当たり前の倫理が崩れています。子供の虐め、イヤガラセ、大人はセクハラ、パワハラ、DV、…数え上げたらきりがありません。この項目こそ、ならぬことは、ならぬものですと国民全体のコンセンサスにしなくてはなりません。

さて、弱いものとは誰か。これは相対基準です。自他の力関係で、いかようにも変化します。女は弱い、年寄りは弱い、身障者は弱いなどと決め付けられません。それこそ相対性理論の世界で、個人でも組織でも1:1の関係で、強弱が決まります。

江戸期の会津の子供たちは大勢で連れ添って歩いている場合、人数の多い方が肩をすぼめ、少数の方は胸を張って行過ぎたそうです。大勢は強い、小数は弱い、だから大勢の方が胸を張って歩いたら掟に反するのです。微笑みたくなる光景ですね。

福祉の問題でもそうですが、弱者の規定は一律には出来ません。交通機関にはシルバーシートがありますが、席を譲る基準も相対関係です。ヨボヨボのお年寄りでも、一旦座ってしまうと自力で立てない人もいます。そういう人を座らせるのは虐めです(苦笑)。その意味でも、観察力、気働きが求められます。

会津に限らず、つい最近までは「女を虐めてはなりませぬ」という不文律がありましたが、女性人権家の功績でしょうか、最近は女が強くなりました。相対的に言えば男のほうが弱いケースが増えてきました。ただ、構造上の違いから体力的には男のほうが強いので、そこまで平等にしろという主張は無理ですね。最近、女性のやりすぎが目立ちます。

六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

この二つは、現代には適用できませんね。敢えて言えば、「公共交通機関で、物を食べたり、呑んだりしてはいけません」ですが、新幹線、特急列車では駅弁がありますからねぇ。

「電車やバスの中では携帯電話などの電源をお切り下さい」ということになっていますが、これも???です。殆どの電車バスでみな携帯、スマホを使っていますが、それが因で病人が出たという話は聴きません。本当に有害なのでしょうか?

選挙公報や新聞記事を見ていたら、全国あまたの候補者に座右の銘として「温故知新」を上げる人がたくさんいました。党派の別を問いません。まぁ、政治の要諦でもありますから、大切なことですが、どれだけ「古きをたずね」「新しきを知る」か…、この国の歴史、伝統と、将来について考えているか、公報や記事ではわかりません。大臣になって、インチキ発言をして、お里が知れます。

さて、年が明ければ「八重の桜」が始まります。今回は、放送を見ながら、関連情報を綴りたいと思っています。皆様におかれましては、良いお年をお迎え下さい。