八重の桜 05  攘夷の風

文聞亭笑一

今年の大河ドラマは、実にテンポ良く時を刻んでいます。重要な事件は漏らさず取り上げていますが、「問題が起きた」「こうなった」という感じで深入りしません。近年放送した「篤姫」「龍馬伝」の二番煎じを避けたのでしょう。なんとなく、幕末物語を早送りで見る感じです。舞台が東日本、東北ですから、当時の庶民感覚としてはこんなものだったのでしょうね。西日本や京都で何が起きているか、情報が伝わってこないのです。ペリー艦隊が来航した年に起きた南海地震なども、八重は全く知らずにいたということです。この地震も、今回の震災同様に西日本では甚大な被害をもたらし、津波によって数万人が命を失っているのですが、会津から見たら、対岸の火事でしたね。

条約締結と、それに憤った攘夷浪人のテロ…、この動きが野火のように全国に広がっていきます。これを主導したのは水戸の脱藩浪士たちで、全国に散って各地を遊説して歩きます。龍馬などが説得を受けたのも、この頃、水戸浪人からでした。

水戸藩は攘夷派の中心ですから、藩主以下、藩論は攘夷であったのですが、老公・斉昭が罪を受けてからは、表だって攘夷の意見を言えなくなりました。したがって、攘夷派は藩から独立して活動せざるを得なくなりました。脱藩というのは、失敗したときに、藩に迷惑をかけないための方便です。

今回、山本家を攘夷浪人が襲撃しますが、犯人は水戸浪人、もしくは水戸浪人に煽動された近隣藩の脱藩浪人だったでしょう。北隣の庄内藩では、のちに新撰組を立ち上げる、清河八郎などが、攘夷活動を始めています。近藤勇、土方歳三なども、攘夷運動で政治に目覚めます。百年後の安保闘争と、実に良く似た運動展開でした。若者たちの心情は、国を思う気持ちに溢れていたと思います。当時高校2年生だった文聞亭も、例外ではありません。大学生を装って、デモに参加したあの頃をほろ苦く思い出します。

どちらも火をつけたのがアメリカとの関係…というところが、面白い符合ですねぇ。

17、アメリカ、イギリス、ロシアの国旗を掲げた商船が何隻も停泊している。港の前の通りには異国の物を扱う店も立ち並んでいた。どの店にも横文字の看板がかかり、青い眼の異国人たちが歩いている。

条約が発効し、開港して間もないと言うのに、横浜は大賑わいです。開国だ、攘夷だと騒ぐのは一部の武士たちだけで、一般庶民は好奇心の塊ですね。黒船見物、異人見たさに猫も杓子も横浜に出かけます。誰かが企画、準備したわけではないのですが、突如出現した万国博覧会の会場のようなものです。繊維製品、ガラス器、機械、道具類などは最も眼を引く人気商品で、ぐんぐんと値が釣りあがります。外国商人にとっては、濡れ手に粟の商売だったでしょう。外国人水夫、水兵たちまで、にわか商人になり、ぼろ儲けをしていました。身につけていたものが金貨(小判)に替わるのですから、ウハウハです。

横浜…今でこそ人口350万人を越える大都市ですが、当時は存在さえ知られていなかった漁村です。神奈川宿の、横にある浜だから横浜、で正確な地名すら決まっていなかった場所です。武蔵の国の外れですね。そこから峠(権太坂)を越えれば、相模の国に入ります。余談になりますが、現在の神奈川県と、相模の国は同一だと混同されやすいのですが、川崎市と横浜市の半分は武蔵の国です。南武線(南武蔵線)が川崎市を縦貫しますし、目下急発展している人気の場所は武蔵小杉駅周辺です。川崎市の私の家のあたりは旧住所で言えば、武蔵の国、橘郡(たちばなごおり)、日吉村、大字 加瀬、字 原です。

勝海舟と川崎尚之助は、そんな横浜を歩きます。こんなところにも攘夷浪士が出没し、テロ行為をしますが、それが会津にまで広がるとは、思っても見なかったでしょう。

この後、覚馬がテロリストの襲撃を受けます。活劇部分は映像がリアルですね。

18、松蔭刑死の知らせは、程なく会津にも届いた。覚馬は絶句し、やがて青ざめた顔で黙々と銃の手入れを始めた。全身から、悲しみとも、悔しさともつかぬものが放たれている。誰も声をかけることさえ出来なかった。

同志に対する理不尽な処罰には誰しも憤りを禁じえません。自分のことですからね。

アルジェリアのテロ事件も、その意味では世界各国で事業展開している企業の従業員や、私など、そのOBにとっても他人事ではありません。現役の後輩たちは世界各国に展開して事業推進しています。そのおかげで、企業年金を受け取れますし、安定した社会秩序も保たれています。隠居が、隠居らしく出来るのです。感謝以外に言葉がありません。

先日、TVで女流大学教授が「戦争を煽るから、企業戦士という言葉は使うべきでない」などと発言したのには腹が立ちました。戦争は誰しもやりたくありませんが、企業も従業員も、世界を相手に戦っているんです。その最前線に立つものは戦う人、つまり戦士ではありませんか。綺麗ごとばかり並べる人たちが、公共放送で「たわごと」を述べるのには心底腹が立ちます。覚馬と同じ気持ちでいるのが、通商立国、技術立国を主張する文聞亭です。読者の方々にもそう思う人が多いと思いますよ。

19、「身はたとい 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」
寅次郎の歌だった。勝の手紙には寅次郎こと、松蔭の最後が詳細に綴られていた。
この歌は、松蔭の遺書の冒頭に掲げられていた歌だと言う。そして、最後の言葉は
「今度の大事、私一人なりとも死んで見せれば、後に残る者たちが、きっと奮い立つ。天朝も、幕府も、藩もいらん。身一つで立ち上がれ!
至誠にして動かざるものは、いまだこれあらざるなり!」

大和魂とは何か…こんな難しい問題を議論するには紙面が足りません。が、一言で言えば「独立」、もう一つ付け加えれば「独歩」でしょうか。個人、家族、団体、国家…すべてに適用できる自尊、自己実現の想いではなかろうかと思っています。

かつて「日本はアメリカのポチだ」といった政治家がいましたが、あの人らしい諧謔(ギャグ)表現だったでしょうね。本心は「日本は日本だ」と言いたかったんでしょうが、よくキレる人でしたから、キレたんでしょうね。(笑)

勝は咸臨丸の船長として渡米使節団に加わり、アメリカに渡ります。そこで見聞したものが、勝の維新政府構想になり、坂本龍馬に引き継がれて「船中八策」となったと思います。あれは勝海舟と龍馬の合作ではなかったかと思っています。

大和魂という言葉が、戦前の軍部によって別の意味を持たされたがために、右翼だとか、戦争用語だとか言われてしまいましたが、古典に帰るべきです。現代の病根は、この大和魂、独立心、自助努力を忘れて、行政に責任を擦り(なすり)付ける風潮が主流になったことです。その運動を推進してきた人たちが政権を担って三年半、日本はどうなったか…、現在の状況があります。生活保護世帯の急増…、他律発想ばかりが幅を利かしています。

それを煽ってきたマスコミからは、反省の弁は聞こえてきません。それどころか、知識人と称して連れてくるのは現場、現実を知らない箱入り娘のような学者ばかりです。

清く、正しく、美しくは理想として否定しませんが、隣に、その正反対の事をする隣人が住んでいることを忘れてはいけません。「泥棒にも愛を」と、聞こえますねぇ。

20、1860年3月3日。大名総登城の日、江戸に遅い大雪が降った。彦根藩の上屋敷を出た井伊直弼の駕籠は、内堀に沿って進み、江戸城桜田門外に差し掛かった。

政治目的で、白昼堂々と政治家を暗殺する事件が起きました。江戸時代も闇討ち、毒殺事件は起こりましたが、赤穂浪士以来の事件でしたね。この二つ、桜田門外と赤穂浪士とも、義挙とされています。いずれも浪花節の題材で、日本的なのですが…、正義のためならテロを容認すると言う考え方で、アルカイダやイスラム原理主義を嗤えません。一つの文学作品、歴史上の事件として理解するに留めておきましょう。

「大老を害したのは、脱藩した者ども。これを以って水戸藩を罰しては、筋が通りませぬ。また、天下の趨勢(すうせい)を鑑(かんが)みるに、今、国内にて相争うは慎むべきと心得ます」

大老暗殺の主役であった水戸藩に対する処分決定の会議で、松平容保はこう発言して、水戸征伐を思いとどまらせます。これは正論で、とりわけ諸外国の動きを見れば、内乱状態を避ける判断は適切でした。

が、その後に起こった長州征伐、戊辰戦争は明らかに内乱、内戦です。幕府は、薩長に対抗するために、北海道を担保にフランスからの借款を求めることになります。その契約が成り立っていたら…、今の日本の国土はズタズタでしょうね。あちこちに香港があるでしょう。運よく、推進者だった小栗上野介が失脚します。が、それは後の話。

幕府の決定に強い発言権と責任を持つことになった会津藩と、松平容保は、政争の坩堝の中に飛び込むことになります。維新の、一方の主役になっていきます。