八重の桜 11  志願兵

文聞亭笑一

京都での騒動は全国に波及していきます。新聞やテレビのない時代ですから、情報は人の口を介するたびに増幅され、切迫した状況として伝えられます。会津藩の場合は、その一方の当事者ですから、故郷への手紙の言う形で大量に伝わってきます。先週号のタイトルを「戦雲急を」としたとおりの状況ですから、京へ兵士を送った家々では気が気ではありません。身内の無事を祈るのは勿論のこと、「戦にならぬように」と祈る気持ちで一杯だったでしょう。母や、妻の立場のものほど、その気持ちは切実だったと思います。

一方で、郷里に残る若者たちは血気にはやります。政争の中心地に父や兄、仲間がいるのですから、故郷に安閑としている訳には行きません。太平洋戦争のときもそうでしたが、多くの若者たちは志願兵として自ら戦場に赴こうとします。これは、いわば、男の性(さが)のようなものです。理屈ではありません。じっとしては、いられないのです。

女性の方には、この男性心理は理解しがたいでしょうね。男でも、ことが終わった後で振り返れば、理解しがたい熱気ですから、わからなくて当然です。そうですねぇ、オリンピックや国際試合、はたまた甲子園目指して汗をかいているアスリートたちも、こういう熱気に包まれています。

スポーツの世界ならまだしも、これが政治に向かうと、アラブ諸国や北朝鮮に見るような物騒な動きに繋がっていきます。「なぜ、あそこまでして原爆を持つのか」「なぜデモが暴徒化するのか」・・・熱気と言うしかありません。聞く耳を持たぬ狂気です。

八重の弟・三郎もこの熱気に巻き込まれます。仲間とともに志願兵として京の町に行くことを熱望します。

41、「ならぬものは、ならぬ」権八が三郎を叱りつけている。
会津では、佐川官兵衛が都に上がる別働隊の志願兵を集めていた。佐川が集めているのは侍の家の次男坊、三男坊である。

弟の三郎は16歳、高校一年生か二年生です。私にも、ほろ苦い経験がありますが、この年代は自我に目覚め、「自分は何の為に生きているのか」などと真剣に考えたりします。

親の敷いた路線の上を忠実に走ってきて、ようやく長いトンネルを抜けた別世界なのです。青春という名の通り、青臭い自我に燃え立ち、存在感を示したくてしかたがありません。

三郎が志願兵として京に向かうことを熱望したのと、私が安保反対のデモに向かったのと、それほど大きな違いはなかったのではないかと思いますね。一部の仲間たちは、真剣に東京に行き、国会にデモをかけようと相談していました。「俺が何とかしなければ・・・」「俺は声なき声ではない」といった心理状態だったのです。

熱気にうなされた若者を制止するには「ならぬことはならぬ」「問答無用」と拒絶するしかないでしょうね。後は、家族の信頼関係だけです。危険性を説明して説得しようなどという、一見物分かりのよい態度は、かえって熱気に油を注ぎます。

佐川官兵衛の集めているのは、くちばしの黄色い若者たちではありません。少数精鋭の実力者たちです。京の町の情勢は、しかるべき筋を通じて克明に理解していたでしょうから、判断力のある人材を求めていたでしょう。京の町は、純朴な会津の若者たちが活躍できるほど生易しい場所ではないのです。

42、「象山先生が襲われました!」
覚馬の血が逆流した。覚馬は京都会津藩洋学所を飛び出し、木屋町の象山宅まで走った。着衣を血で染めた象山が横たわっていた。身体には無数の刺し傷があった。

天皇に開国の利を説き、政争の地から彦根への退避を勧めている佐久間象山は、攘夷に凝り固まっている長州藩や攘夷浪人にとっては「諸悪の根源」と写ります。当然、テロの対象になります。それを承知していながらも、目立つ格好で、護衛もつけずに出歩いていた象山は、何を考えていたのでしょうか。

京都の治安は、会津藩主松平容保と、桑名藩主松平敬定の兄弟が担当していますが、多数のテロリストたちが暗躍できる自由都市です。町人たちは、むしろ金払いの良い長州贔屓で、攘夷浪人を匿いこそすれ、密告などしません。テロリストは自由に町を歩けます。

象山を襲ったのは、肥後浪人の河上玄斎の一味だったといわれています。薩摩の中村半次郎(後の桐野利秋)、土佐の岡田以蔵と並ぶ三大刺客の一人です。以蔵は死に、半次郎は開国に変わっていますから、攘夷派としては最後の切り札ですね。

象山が襲われたのは木屋町三条通り、高瀬川にかかる橋のあたりです。今は石の標識が立つだけですが、町のど真ん中といってもよい場所ですね。風に揺れる柳の枝が、川面に映り、えもいわれぬ情緒が漂います。

43、幕藩体制が揺らぎ、会津藩の命運がかかっているこのときに、体面にこだわる藩士が会津藩にも、依然として存在する。藩や幕府に従っていれば何とかなると考える連中だ。低い身分のものが才覚で重用されるのを妬み、機会があればすぐさま足を引っ張ろうとする。藩内で争う時期ではないということがわからない。

人間の集団とは面白いもので、いつの時代でも、こういう輩が組織の大半を占めます。

2:6:2の法則というものがあります。人間社会、特に日本人の精神構造に関するもので、ある事柄を提案した場合、推進派2、反対派2、日和見6に分かれるという現象を表したもので、私の経験では、概ね、そうなります。日和る・・・というのが日本人の一番の安全策なのです。攘夷か開国か、意見が割れた場合に、そしてその双方が武力を持って対峙した場合、そのどちらかの意見を主張することは、実に危険です。反対派から逆賊として狙われるのは必至です。勢力争いでは、一番弱い敵を狙い撃ちするというのが常道ですからね。「話せばわかる」「まぁまぁ、なぁなぁ」と言って仲裁に廻るのが「出来た人」と言われますから、自分の意見は抑えて、双方の力関係を観察するのが無難です。

TPP,原発・・・情報が足りなくて、推進、反対、態度を決めかねる人が大半です。この場合に、最も安全で尊厳を失わない方法は、「情勢を見ようじゃないか」と発言し、どちらの意見にもわかった振りをすることです。マスコミがこの姿勢ですねぇ。社説で反対を唱え、天声人語で貿易立国などをさらりと主張します。朝日、毎日、読売、日経、NHK・・・どいつも、こいつも・・・日和見です(笑)

この関係、法則が崩れるのは、どちらかの「2」がヒットを打つことです。「優勢だ」と思った方向に、真ん中の日和見族は雪崩を打って注ぎ込みます。これがあるから、日本人は怖いのです。民主主義の多数決が当てになりません。今回の衆議院選挙では自民が圧勝、その前は民主が圧勝、そしてその前は・・・・・・

「ねじれ」が、安全弁にはなりません。国力を衰退させるだけです。「日和見が方向を決める」「無党派が国政を左右する」こんな卑怯が大手を振って偉そうにする社会は、決してよい結果を生まないと思います。武士道の経典とも言われる「葉隠」に

「盛衰を以って人の善悪は判断できぬ。盛衰は時の運。善悪は人の道」

と、あります。勝てば官軍・・・では、国際信用は得られませんよね。

44、山崎天王山に程近い、岩清水八幡宮に、軍装の長州藩士が集結していた。幾竿もの長州の旗が風にはためき、次々に長州藩士が総門を潜っていく。
本殿では、長州兵が戦勝祈願の弓矢などを奉納していた。
本殿内には真木和泉、久坂玄瑞髭面の来島又兵衛の姿があった。

このとき、京都に集結していたのは、長州攘夷原理主義者たちばかりでした。後に明治政府の重鎮となる桂小五郎、高杉晋作、山形有朋、伊藤博文、井上馨などという面々は、武装蜂起に反対していました。真木和泉という扇動者に煽られた過激派が、突出して組織テロに走ったのが、蛤御門の変です。長州にとっては大失策でした。

が、政権を取ってから義挙と書き換えています。京の町を焼いたのは会津だと教科書に書きましたが、火元の鷹司邸に火をつけたのは長州兵です。政権の正当性を主張する為の粉飾ですね。卑怯です。

このとき、岩清水八幡宮に集っていたのはテロ集団です。アルカイダです。真木和泉というのがビンラディンです。こういう人たちを英雄にしてはいけません。こういう人たちを英雄にして、ヤクザ追放などと唱えるのは欺瞞です。武士道、正義に反します。

・・・・・・今週はちょっと過激な発言に終始しました。

「盛衰を以って人の善悪は判断できぬ。盛衰は時の運。善悪は人の道」

中国が経済力と人口の多さを武器にわがままのし放題をしています。北の若将軍が力を誇示します。が、横暴を許してはいけないと思いますよ。彼らは間違っています。