八重の桜 10  風雲急を

文聞亭笑一

この時代の長州藩と言うのは、摩訶不思議なところがあります。

毛利の殿様は、万事鷹揚な方だったようで、維新成立後に木戸孝允(桂小五郎)を呼び寄せ「わしが将軍になるのはいつか?」と聞いたというほどの、世間知らずだった様です。「よきに計らえ」が口癖で、藩政に関しては部下に丸投げだったようですね。そしてその部下と言うのがバラバラで、攘夷原理主義者も居れば、公武合体論者も居て、寄せ集めの政体であったようです。そう・・・この間まで政権をとっていた政党のようでした。

しかし、活躍しては死に、又その代わりも活躍しては死に、それでも次々と代りが出てくるところが凄いですねぇ。政治家の育つ環境が出来上がっていたのでしょうか。藩主の居城は日本海側の萩にありますが、政庁は内陸の山口です。さらに、九州とは目と鼻の先の下関は商業都市として栄えています。瀬戸内側の周防には、親戚の吉川藩があって、それぞれに異文化を備えていました。山海の珍味を、まるで寄せ鍋かなにかのように煮込んで、それでいながら分裂を起こさないと言う、不思議な政体です。

その伝統でしょうか。現在の総理大臣もそうですが、長州は昭和に入ってからも有力な政治家を次々と輩出します。一度、長州人を研究してみる価値がありそうですねぇ。

更に不思議なのは、この当時京都で湯水の如く金を使い、軍備を洋式に切り替える資金の出所です。土地は痩せていますから、農業では稼げません。豊臣秀頼の大阪城のように埋蔵金などなかったはずですから、密貿易による利益しか考えられませんよね。下関では対岸の小倉から丸見えですから、外国船などは入港できません。そうなると、考えられるのは対馬経由の朝鮮ルートでしょうね。朝鮮のどこかに拠点を持ち、そこで稼いでいたのではないでしょうか。

この当時の日朝関係、これに深くかかわっていたのが長州で、明治政府になってからの日朝の歴史に、なんらかの影を残しているような気もします。

ともかく、京の町には、長州の金で動く攘夷浪士が多数送り込まれていました。政変で、一旦長州に逃げていたテロリストたちも、次々と都に舞い戻り、各地に潜伏します。

そのお膳立てをしているのが桂小五郎・・・祗園の遊び人・木圭先生です。木圭とは、桂を木と圭に分解した変名です。幕府、会津から見れば、桂こそ、ビン・ラディンでしたね。

37、桜の季節も過ぎ、緑の葉が柔らかな影を作る四月。覚馬が開いた京都会津藩洋学所に、西洋鞍の馬にまたがり、仰々しい羽織袴姿の男が訪ねてきた。
象山である。国許蟄居を命じられ、切棒駕籠に押し込められ、江戸を去ったあの日から十年の歳月が流れていた。

八重の兄、山本覚馬が開いた洋学所が、後に、同志社を立ち上げていく礎になります。が、それは後の話。

覚馬は、江戸の佐久間象山の塾を手本に、会津日新館での蘭学所の経験を踏まえ、会津藩の洋学所を立ち上げます。運営資金は会津藩が出しますが、人材は広く他藩の者も迎え入れます。そんな折に、江戸での恩師・佐久間象山が上京してきました。

「私にしか出来ぬお役目があると言うのでな。止まった歯車を回し、時を前に進める」

佐久間象山が政界に復帰してきました。おそらく、勝海舟の推挙だと思います。

幕府は、将軍後見役の一橋慶喜が代表をしていますが、官僚組織を動かしていたのは、勝や大久保一翁などの少壮開明派です。海外との交渉ごとで混乱している老中などは、勝などの渡米経験者の意見を聞かなくては、外交が出来ません。英語も、オランダ語も、何も出来ませんから、外国人通訳に誤訳されても不思議にさえ思わない状況でした。勘定奉行・小栗上野介が、北海道を担保にフランスから借金する話にしても、どこまで契約内容を理解して話をしていたのか・・・、非常に危険な外交でした。

象山が仕組んだ計画は、天皇を開国に向かわせることでした。これは、攘夷派にとっては死活問題ですから、当然テロの標的になります。

38、蔵の長持ちの中に多数の鉄砲と弾薬が隠されていた。
新撰組の屯所に連行された古高を待っていたのは、想像を絶する過酷な拷問だった。
古高捕縛の報はすぐに会津本陣に伝えられた。やがて古高の家から、都に火を放ち、帝を長州に連れ去ると言う驚愕の書状が見つかった。

日本史上の大きな戦争は、いずれも「玉を奪う」という争奪戦に終始します。玉とは、天皇であったり、若年の将軍であったりしますが、要するに政治権力を代表する「人」ですね。開国派の象山が、天皇を彦根に遷座する計画を提案すれば、それに対抗して攘夷派の長州は天皇を長州に奪い去ろうと画策します。早い話が、人質の奪い合いですよね。

隠密に進めていたはずの彦根遷座が長州に漏れたのは、長州の裏金に転んでいる公家からです。一方、長州の計画がばれたのは、攘夷浪人の中に紛れ込んでいた新撰組の工作員からです。スパイ大作戦のようなものです。攘夷、開国、ともどもにスパイが入り乱れていて、互いに騙しあいを繰り返しています。

長州藩士・古高俊太郎の計画は、まず、風の強い日を選んで京都の町の数箇所に火をつける。それに驚いて御所に駆けつける開国派の中川宮を待ち伏せして捕らえて、幽閉する。さらに、御所の守りに駆けつける松平容保を斬殺する…という手順だったようです。

39、夕暮れに薄闇が入り込むと、祇園囃子が町に鳴り響きだした。
三条小橋の池田屋の二階では、肥後藩士・宮部鼎蔵と、松蔭門下三秀の一人とうたわれる吉田稔麿、そして桂小五郎が顔をつき合わせていた。

池田屋に集まったのは長州藩の秘密工作を担当する諜報局員と実行部隊の攘夷浪士たちです。吉田と桂が、その双璧でしたね。宮部は実行部隊の指揮官と言う役割です。

桂は、計画の実行は危険だと説きます。古高が白状すれば、幕府勢力が一斉捜査に出て、元も子もなくなるから、一旦撤収して様子を見ようという策を提案します。

一方の吉田は、宮部以下の実行部隊は既に動き出しているから、いまさら抑えは利かない。実行するしかないと言う立場です。桂は理を説き、吉田と宮部は情に流されます。

結局、会談は物別れ。桂は新撰組の突入直前に、自分の隠れ家・・・後に桂改め木戸孝允夫人となる祗園の芸妓・幾松の家に隠れます。維新の元勲となるか、斬り殺されるか、まさに 紙一重のところでした。

理と情の対立・・・いつの時代でも起きることですが、多くの場合で、情に流されると芳しい結果は生まれません。

夏目漱石の言うとおり「智に働けば角が立ち、情に掉させば流される、意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住みにくい」ものです。が、我々の生きる世界は「この世」しかありません。住みにくくても、逃げ出すところがありませんから、我慢、我慢ですよね。

Bestなどというものは結果論と諦め、Better目指して頑張るしか、ないようです。

40、長州藩家老の福原越後が、兵を率いて伏見の藩邸に入り、朝廷に入京を嘆願。続いて来島又兵衛が嵯峨に、真木和泉、久坂玄瑞らが山崎天王山に、それぞれ陣を敷いたのである。

池田屋騒動では、何人が殺されたのか? 史書によりマチマチです。池田屋に集まっていたのは30人余り、そこへ近藤勇以下の7人の新撰組が斬り込みます。人数的には攘夷派の方が多いのですが、方や会津、桑名の援軍が期待できる新撰組と、孤立無援の浪人部隊ですから、まともな闘いにはなりません。我先に逃げ出し、逃げ場を失った者たちだけが、戦って斬られるというパターンだったでしょうね。映画にあるような派手な立ち回りではなく、逃げるところを後からバッサリ殺される、というパターンだったと思われます。

現場に死体が残っていたもの10人、重傷で逃げ切れず現場以外で死亡したもの3人、逃走中に捕まって処刑されたもの9人と言われています。ですから、10人ほどは逃げ延びたようです。

この騒動で、長州藩は蜂の巣をつついたような騒ぎになります。

「復讐だ!」といきり立ったのは京都から逃げていた浪人たちです。その筆頭が真木和泉。それに煽られた久坂玄瑞などの急進派が力を持ち、藩論を一気に好戦的にしてしまいました。この時点では、後に過激派と言われた高杉晋作などは、蜂起に反対しています。

が、一度付いてしまった勢いは止まりません。武装兵300人が京都を目指します。

これが・・・蛤御門の変の始まりです。

ここのところ、八重の話には触れていませんが、八重は青春の真っ只中。ごく普通の、お転婆娘のまま、青春を楽しんでいます。