水の如く 15 別所の事情

文聞亭笑一

順調に見えた秀吉の播磨平定ですが、加古川評定辺りから少しずつ雲行きが怪しくなっていきます。その原因は、大雑把にいえば文化の差ということになりますが、せんじ詰めれば秀吉の失策ですね。進駐軍として占領下の土地に入った征服者の態度を取ったことでしょう。しかし、そうしなくてはならぬ事情もありました。織田軍団は北に上杉謙信という脅威を迎え、播磨と安土の中間には本願寺という抵抗勢力を抱えています。秀吉の僅かな兵力で短期に播磨を安定させなくてはならないという焦りが、秀吉らしからぬ尊大な態度を取らせました。俗にいうハッタリを利かせたのですが…これが逆効果を生みます。

テレビでは、秀吉が小者に扮装して御着城を訪ね、小寺藤兵衛・政職に面会したことになっていますが、こういう事実があったかどうか…はなはだ疑問です。若いころの秀吉であれば、あの程度のことは気楽にやってのけたでしょうし、事実、美濃三人衆の説得や、浅井家の説得には単身乗り込んで…という離れ業を繰り返しています。また後に、家康の説得でもそうしています。そこからの類推でしょうが、直接会っていながら秀吉の外交能力をもってしても、政職を味方に付けえなかったとは考えにくいのです。

会談の地を加古川に選んだのは、そこが播磨の海岸線の中間に位置したからです。東の明石から、西の相生まで白砂青松の海岸線が続きますが播磨の豪族にとっても集まりやすい位置にあります。ここの豪族は糟谷氏です。鎌倉以来の家柄の小さな勢力ですが、当主の糟谷助右衛門は秀吉に心酔し、小姓頭に取り立てられて随身し、後に賤ヶ岳の七本槍の一人にもなっています。糟谷助右衛門そうさせるところは、実に秀吉らしいのですが…。

57、この時期、秀吉ほど人心を攬(と)ることに巧みな男が、播州における豪族 個々の心を収攬(しゅうらん)していこうとせず、どちらかと言えば威力主義で播州に臨もうとしていることが、不思議なほどである。<工作は官兵衛に任せてある>ということもあったであろう。秀吉は自分に似たやり方で人の心を寄せていく官兵衛のやり方に、いわば分身を見るようにして安心はしていた。

秀吉が威圧主義というか、高飛車に播州勢にあたったのは秀吉の意志であったかどうかわかりません。この頃の信長のやり方を見ていると、敵を降伏させるのではなく、殲滅(せんめつ)して皆殺しにすることが多いですね。これは比叡山に始まり、長島一向宗、本願寺と続いていますが、丹波の波多野氏にも降伏を許していませんね。信長は西欧文化を積極的に取り入れた人ですが、戦争のやり方も西欧流の「皆殺し」「敗者の奴隷化」を取り入れていました。秀吉はそれを知っているだけに…中途半端なことはできなかったのかもしれません。官兵衛の能力を信頼して…という側面もあったでしょうが、信長に手ぬるさを指摘された時の言い訳に「官兵衛が勝手にやったこと」と、したかったのかもしれません。

こういう汚い所・・・というか、格好の悪いところ、歴史に残したくない部分は「太閤記」の作者である大村幽古や、太田牛一にも決して記録させませんでしたね。秀吉は太閤になってから、この二人に「太閤記」の執筆を命じましたが、すべてを自ら監修し、書き直しをさせています。それが嫌で、作り話が多さに耐えかねて、大村幽古は執筆途中で逃げだしています。

58、「加古川に集まれ」 という秀吉の命令を、別所長治に正式に伝えたのは官兵衛ではなく、二番家老の別所棟(むね)重(しげ)であった。棟重は兄の賀相(よしすけ)とはちがい、早くから織田氏に接近し、今度の加古川評定においても、秀吉の側にあって、その支度方(したくがた)を務めている。ほとんど秀吉の家来のようであるといっても良い。
重棟を嫌う賀相にしてみれば、小寺の問題よりもその方が片腹痛かった。

別所家と毛利家は、その政権構造が良く似ています。三本の矢、三兄弟のスクラム体制という形は似ていますが、その実態は似て非なる物でした。別所家でも長男が早逝し、その息子である長治が当主の座に就きます。これを二人の叔父・賀相と重棟が支えるという構造ですが…、この兄弟は極端に仲が悪かったようです。互いに多数派工作をして勢力争いをしていました。

元々はさほどでもなかったのですが、信長が将軍義昭を奉じて最初に上洛した時、別所は200ほどの兵を重棟につけて上洛させています。別所重棟はその折の手柄で、信長にも拝謁し、その軍勢の戦いぶりに魅了されて、すっかり織田ファンになっています。

また、その折に「中国進攻の折には別所に旗頭を」という信長の言質をもらっています。

これが、兄の賀相には気に入りません。織田方に付いたら、弟の方が覚えめでたくなって自分の地位が脅かされるのではないかと、事あるごとに重棟とは反対の立場を取ります。当主の長治はと言えば、双方の顔を立てて、どちらつかずの曖昧な判断を繰り返しますので別所家の方針が定まりません。

加古川評定の集合命令を伝えたのは重棟です。賀相はこれが気に入りません。 また、官兵衛が 秀吉の参謀格で、播州の豪族たちの間を飛び回っているのも気に入りません。これではまるで「播州の旗頭は小寺」と言っているようなものではないかと反発します。引用部分に「小寺の問題」と言っているのはそのことです。

滅びゆくものは内から崩れる…と言われる通りです。内部の紛争、対立が、結局は敵に乗じられて、敗れ去ることになります。「まず内を固めよ」これは、現代の経営においても基本ですよね。内部告発、機密漏えい…いずれも内部のひび割れから漏れだします。

59、「別所長治記」によれば、賀相は「信長の軍事や政治には表裏がある。表裏使い分けても良いが、それは戦において敵を討つ時だけならよい。が、信長は偽りを専らとしている卑劣漢だ。そのせいで下々までそれを見習う」と言っている。

下々というのはこの場合、特に秀吉を指しているのであろう。

播州の豪族の間で信長の評判は芳しくありません。保守性の強い国柄ですから、伝統を破壊する信長の革新性には眉を顰(ひそ)めます。そこへ、叡山焼き討ち、長島一向衆の皆殺し、本願寺との泥沼の戦争と、戦慄するようなニュースばかりが聞こえてきます。

さらに、この地方は本願寺門徒が多い土地柄でもありました。本願寺の僧侶は信長の残虐性を住民たちに吹き込んで回ります。さらに、安国寺恵瓊をリーダとする毛利の諜報部隊も信長の悪事を吹聴して回ります。そして、秀吉が水呑み百姓の倅で氏素性が卑しいと宣伝します。これらを総合して論理立てしたのが賀相の言葉でしょう。

「ともかく、織田というのは悪い奴らだ」と書いてありますね。これが、「悪い奴は懲らしめねばならぬ」「懲らしめるには毛利に援助を仰ぐことだ」と、つながっていきます。

ここまでくると別所の兄弟喧嘩が、織田と毛利の対決の引き金を引く因になります。

三本の矢…アベノミクスなど、いろいろなところに使われます。イタリア語で三本の矢のことをサンフレッチェと言うそうですが、これが広島サッカーのチーム名になりました。

広島や山口の方にとって「三本の矢」は守り本尊のようですね。

60、秀吉という、この怜悧な男は、中国入りよりも何よりも、今や播州の平定そのものが困難なものだということがわかってきている。問題は、別所氏の態度の曖昧さであった。別所氏を牛耳っているのは別所賀相であり、この男が、癌であるらしい。
賀相は弟・重棟と不和のあまり、主家を引っ担(かつ)いで毛利氏に奔(はし)るということを、あるいはしかねない。

秀吉にとって困難なのは、播州氏族の統合だけではなく、信長の方針と自分流のやり方が合致しないことだったでしょうね。秀吉流は竹中半兵衛、黒田官兵衛とも同じ流儀ですから、秀吉の三本の矢は、信長という大きな壁に跳ね返されてしまいます。

ともかく、キャスティングボートを握っているのは別所賀相です。これがわかっていながら秀吉が動かないのは、秀吉らしくありません。なぜでしょうか?

一つは、自らの出自に関して、あることないこと宣伝されていることに苛立ち、冷静さを欠いていたことが考えられます。出自などと言うものは、本人の能力や努力ではどうしようもないものです。能力主義と年功序列のようなもので、権力を握って押しつぶすしかないでしょう。それでも・・・潰しようはないですけどね。風呂場のカビのようなもので、拭っても、拭っても、また涌いてきます。後に秀吉は天下を取りましたが、源氏を名乗ることを許されず、藤原を名乗り、そして豊臣という新しい姓を下賜されて、ようやく落ち着きました。近世になってからは「今太閤」などという言葉が現れるほど、出自の低さは努力、出世のバネになりましたが、秀吉にとってはさぞかし辛かっただろうと同情します。

加古川評定は、賀相の発言や態度で秀吉の思惑は裏目に出ます。織田人気を盛り上げて味方につけようと思っていた有力な豪族たちは、皆、別所家の動向を伺います。

別所の離反と軌を一にして、一斉に毛利へと寝返りました。