乱に咲く花 19 航海遠略策

文聞亭笑一

松陰が安政の大獄で処刑されたと思ったら、急に時計の針が進みだしました。まさか桜田門外の変が先週の放送で済んでしまうとは想定外でした。そうでした、主役は文さんでした(笑)

安政6年というのは大事件が続発しましたが、長州藩、松下村塾にとっては暗黒の闇夜に閉ざされた時期でした。師を失って茫然・・・でしたね。

「乱に…」と「攘夷…」、 同じ時代の物語を、二つ並行して書くというのは無理があります。しかも、それが時系列まで一緒になってしまっているのがここ数週間です。

維新史を読むとき、朝廷というか公家衆というか…彼らの無節操、我利我利には腹が立ちます。権威だけ、伝統だけをひけらかして社会を混乱に陥れています。国際感覚もなく、法秩序に関する知識、見識、意見もなく、この国のあるべき姿についての理想もなく、5分前に言われたことをそのまま発言してしまう鳩ポッポのような…それが維新史における攘夷派の公家たちでした。

これが…、妙に・・・、つい、この間の民主党政権に重なってしまいます。

三条実美・・・弁舌さわやかな攘夷派のエースです。 菅直人に重なります。

そして久米宏、古館一郎、関口宏・・・政治番組のキャスターたちも同類に見えます。

嫌じゃ、嫌じゃ、夷人は嫌じゃ…の孝明天皇は憲法9条絶対主義の社民党・福島瑞穂

5分前の忠告をそのまんましゃべる鳩ポッポ…時の関白殿下でしょうか

その中で、中和策を目指した岩倉具視・・・岡田、細野(?)かもしれません。

野田佳彦…姉小路公知でしょうね。正道を行こうとして、味方の攘夷派に暗殺されます。

細野に{?}を付けたのは、まだ何もしていないからです。龍馬とはタイプが違います。

小沢一郎ですか?水戸斉昭、一ツ橋慶喜ですよ。維新史の妖怪ですねぇ。

亀井静・・・民主党政権を骨抜きにした男。維新史の中ではだれでしょうか?武市半平太?

酔っぱらって言いすぎました(笑) ・・・が、そうは間違っていないと思います。

さて、本論に戻りましょう。今回は司馬遼太郎からの引用になります。

<この人の志を継ぐ者は自分しかいない>と、晋作は思った。
なるほど久坂と言う者がいる。しかし晋作は久坂と言うものを乱世の英雄とは思えず、治世にあって廟堂の主になる男だと思っていた。今の世に必要なのは廟堂の才ではなく、馬上天下を斬り従える才であろう。晋作はひそかに自分こそ、それであると思っている。

高杉晋作と久坂玄瑞・・・松下村塾では突出した二人で、基礎学問があり、とびぬけた行動力の持ち主です。二人の違いは決断力と行動力で、動の高杉、静の久坂というところだったでしょうか。

乱世の才、治世の才などともタイプの違いを表現します。この二つ、確かに違います。

会社などの組織で課題処理をするにあたっても、平時・・・順調に行っている時の経営スタイルと、戦時・・・危機的状況が出現した時ではマネージメント・スタイルが違います。一方は安定を重視するのに対し、もう一方は大胆な改革を必要とします。この二つをあわせ持つ人が求められますが、天は二物を与えずと言う通りで、二刀流のできる人は殆どいませんね。どちらかの性格が出てしまいます。自分の性格がどちらに向いているかで活躍の場が違うのですが、この性格をしっかり目利きしてくれる上司にめぐり合えば幸運、性格と逆の場面ばかりに使われたら…不運な人生ということになります。

この後に登場するであろう西郷隆盛なども、典型的な戦時型の人だったようですね。

「ユッサ(戦)好きのセゴ(西郷)ドン」と言われたのが彼の本質で、平時は浴衣がけに犬を引いた上野の山の銅像、昼行燈とも呼ばれるほどに無為無策が似合う人だったようです。幕府の方では、勝海舟なども戦時派でしょうね。物語のこの時期は咸臨丸でアメリカに渡る遠洋航海の真っ只中ですが、江戸城の無血開城を終え明治政府になってからは昼行燈でしたね。

久坂は松陰の門下生を集めて松下村塾の再開を策したり、京の志士たちと連携をとるなど忙しく立ち働いていますが、晋作は新婚の妻・お雅を相手にグータラ亭主を決め込みます。「俺の出る幕じゃねぇや」と言ったところでしょう。お雅は「萩一の美人」と評判の妻だったようですが、女郎屋の玄人女相手に遊蕩にふけっていた晋作には幼く見えすぎたようで、飾り物の人形ように扱っていたようです。

幕府が開国方針に沿って、咸臨丸を米国に派遣します。同時期に清国へ視察団を派遣します。

晋作はその機会をとらえ、志願してこの使節団に参加します。ここで見た清国人の惨状が晋作の心に火を点けます。欧米列強の傲慢さ、強欲さ、無慈悲さ…、そういったものに日本国の明日の姿を重ね、激しい憤りとなって激しい行動に駆り立てますが…もう少し後の話でしょうか。

現実認識からすれば、毛利元就以来の長州藩の「勤皇」というのは、多分に儀礼的なものであった。さらには家名を装飾するためのものにすぎなかったが、しかしそれをそう考えず、この儀礼的事実を革命思想にまで大転換させたのが吉田松陰という青年であった。

思想とは、一つの巨大な虚構であろう。

事実認識の合理精神からは革命は生まれない。「思想を維持する精神は、狂気でなければならぬ」と松陰は思想の本質を語った。思想という虚構は、正気のままでは単なる幻想であり、大嘘にしか過ぎないが、それを狂気によって維持する時、初めて世を動かす実体になりうる。

攘夷運動に「尊皇」という冠をかぶせたのが、藤田東湖を引き継ぐ水戸藩の攘夷志士たちでした。

それが、京都を中心に「勤皇」と言う言葉に変わってきます。勤皇を言いだしたのは久坂を中心とする長州の松下村塾門下生たちでした。

言葉と同時に、攘夷運動の中核となる者たちも水戸浪士から長州藩士などに主役が交代していきます。これは、密勅事件、井伊大老暗殺事件などで水戸浪士たちが処分されたり、水戸藩内の内紛に勢力をそがれて京での活動が鈍化したからでしょう。

以前にも書きましたが、毛利家は鎌倉幕府の執政・大江広元を家祖とします。関が原の後もその伝統を引き継ぎ、朝廷へ直接貢物を届けることを幕府から認められていました。その伝手がありますから朝廷の公家衆とは親密な関係にあります。

尊皇は「天皇を敬う」という…精神的な色彩が強いのに対し「勤皇」は「天皇家のために働く」という意味合いですから行動的になります。より積極性が出てきます。

古い付き合いと豊富な献金・・・これが長州藩の京での人気の源でした。

思想、狂気、革命、幻想、大嘘、……

オーム真理教の麻原を思い浮かべてみたり、共産主義を標榜したスターリンや北のデブ将軍の顔を思い出したり、合理主義に浸かった理系の文聞亭には「嘘」「幻想」の言葉に頷いてしまいます。思想、宗教には入れそうにありませんねぇ。

正論というものほど、時にとって妙なものはない。

この時期、長州藩の公的代表である長井雅楽の意見ほど、正論はなかったであろう。彼の「航海遠略策」は、開国か鎖国攘夷かの両論で混乱しきっている時勢に対し、これほど卓越した鎮静剤はなかった。更にこの策は、日本の将来を展望して、それをバラ色に予想して見せたが、志士たちには不満であった。

攘夷か開国か…「戦争か平和か」という話ですね。白か黒か、YesかNoか…という⒈次元の話で中間的落としどころがありません。この・・・数学でいうX軸に、国力というY軸を立てたのが長井雅楽で、開国攘夷という概念を生み出します。幕府でも開明派の者たちは、佐久間象山や勝海舟なども同様な意見を持っていました。双方が合意できそうな落としどころです。

その長井雅楽の航海遠略策とは、要約すれば

日本はこの機会に開国し、積極的勇気を持って攻勢に出、艦船を増やし、五大州に航海し、貿易し、それによって五大州をして日本の威に服さしめ、異国から貢物を持って来なければ許さぬというところまでの大方針を決めるべきである。

ということです。

随分と大上段に振りかぶっていますが、「開国させられる」のではなく、こちらから「開国する」のだ、という点が武士階級の、とりわけ上士たちの間では大人気を博しました。これは長州藩にとどまらず、全国の諸藩でも「これこそ正論」と認められ始めます。この案では士農工商の社会構造は、全く幕府体制のままです。

さらに、横浜、函館などは既に開港して貿易が始まっていますが、そこで得られる関税はすべて幕府が独占し、諸藩にとっては実入りになりません。このままで開国すれば、幕府の財政力がますます強化され、社会秩序は旧体制が堅固になってしまいます。

更に、開国によって生糸を中心に物価が暴騰し、それが引き金になって米、麦などを始め猛烈なインフラが起き、それが社会を混乱させています。

志士たちが気に入らないのはその点です。政治の中央に躍り出た自分たちの出る幕がありません。旧体制が温存され、自分たちの役割は消耗品としての兵士か船乗りか…そんなところです。

久坂たちのグループでは「世を乱す曲事を藩主に吹き込む長井を殺してしまえ」という、過激な意見が飛び交います。こういう動きは長州藩だけにとどまらず、長井と同意見だった土佐藩の吉田東洋は、武市半平太などの攘夷派によって暗殺されてしまいました。

一方、清国の惨状を直接見てきた高杉は、「古い制度のままではこの国は保たない。松陰の言う草莽崛起(そうもうくっき)…民兵による暴力革命しかない」と、奇兵隊という私設軍事組織の編成にかかります。武士による正規軍に対し、百姓、町人で組織する軍隊ですから奇兵です。