次郎坊伝15 利権争い

文聞亭笑一

物語では「徳政令」を出すか出さぬかで今川と揉めていますが、トラブルの根っこにあるのは経済的な利権の問題です。これに政治権力が絡んで紛糾し、武力衝突になります。

井伊谷の経済規模は2万5千石ほどです。それほど大きくもありませんが、かと言って無視できるほど小さくもありません。しかも東海道の脇往還である姫街道が通りますから、それを通過する商品の物流や荷捌きなどの仕事もあって、商人にとっては魅力的な場所であったものと思われます。

物語では瀬戸方久は流れ者・・・と云う扱いですが、別の本によれば瀬戸村の名主の出であるということになっています。松井平兵衛というのが元々の名で、瀬戸村の名をとって瀬戸を名乗り、雅号というか通称として方久を名乗ったとあります。名主であった時代から利にさとく、村の特産などを商い小銭を貯めていたようですね。

しかし、井伊谷の御用商人というか、経済の中核を担っていたのは祝田村にある蜂前神社で、その禰宜(神職)が商業利権の総てを管理監督していました。この祝田禰宜と結託していたのが小野家です。

古来、商業というのは神社との結びつきが強く、物によっては専売権も与えられています。井伊谷での商いは祝田禰宜が一括管理していましたから、瀬戸方久などは・・・闇商人といった位置づけになります。表に出るわけにはいきません。ただ、戦場で拾ってきた中古武器、武具などは闇取引の市場に流れます。正規の商売になる商品ではありません。こういう物ほど儲かります。瀬戸方久が瞬く間に巨万の金を手にし、闇金融でさらに膨らんで行ったというのも、闇市場なるが由縁でしょう。

小野政次にとっては、親の代から付き合いのある旧勢力・祝田禰宜の立場を守らなくてはなりません。祝田禰宜の稼ぎの一部は小野家の財源なのです。徳政令を出すと、対抗馬である瀬戸方久が困ります。資金が回らなくなります。そうなれば、相対的に祝田禰宜の利益が増える方向に流れます。

瀬戸方久と組んだ直虎、そして祝田禰宜と小野政次・・・互いに商業利権を巡るライバルです。

瀬戸方久の今川接近

瀬戸方久は僅かな期間で富を蓄えるほどのやり手ですから、直虎にべったりで運命共同体になるなどというバカなことはしません。ソフトバンクが巨額投資でトランプさんにすり寄りましたが、べったりになる気などさらさらないでしょう。同じことです。

瀬戸方久は直虎には内緒で、今川家にすり寄っています。各種の寄進や賄賂などをフル活用して氏真に近づき、井伊谷で手に入れた土地や屋敷の「安堵状」を手に入れています。安堵状とは権利書のようなもので、たとえ徳政令が出ても取り上げられることはありません。元の持ち主に返却する必要もありません。直虎にすり寄って武士、領地という権利をもらい、今川にすり寄って土地の権利書をもらっておく、何とも強かです。こういう工作をするための時間を稼いでくれただけ、直虎は有難い領主だったでしょうね。瀬戸方久から取るものが少ないですから…甘い領主とも言えますけれど……。仕方ありませんね。寺という学校で哲学などの勉強をしていた学生が、政治・経済を取り仕切ります。海千山千のやり手商人と対等な契約交渉などは無理です。相談相手としている南渓和尚にしても、経済にまでは知恵が及ばなかったと思いますね。井伊一門全体が、なんとなく古風な百姓で、経済オンチなのです。だからこそ小野家を切って捨てることができないのではないでしょうか。

方久は安堵状と引き換えに、刑部(おさかべ)城と堀川城の備蓄倉庫の建設を命じられていますが、貰った権利に比べれば安いものです。

今川の事情

今川家の財政も火の車です。駿河、遠江、三河の三国から税収がありましたが、桶狭間の戦で敗れて後、三河の松平が独立してしまいました。松平だけなら10万石規模でしたが、織田と手を組んで三河一国を奪いとっていきます。その分、50万石規模に相当する財源を失いました。さらに遠江も不安定です。離反したり、租税を滞納したりする領主が続出します。

もっと影響が大きいのが、東の北条、北の武田などが経済封鎖というか…交流が減ったことですね。

三国同盟が成立した頃の経済規模に比較して、半分、またはそれ以下に萎んでいます。商工業者から入る冥加金などの現金収入の減少です。それに追い討ちをかけたのが北条から要求されて飲んでしまった塩止めで、甲斐、信濃に向けての最大、最高の高付加価値商品である塩の商いが停まってしまいました。

今川氏真としては「武田を経済封鎖する」と言ったつもりだったのでしょうが、最大の輸出商品を自ら放棄してしまったことで、かえって自らの体力を弱めてしまいました。

北朝鮮に対する経済封鎖に中国が非協力的なのも、それに似た背景があるのでしょう。食料、エネルギーである石炭・石油・・・これを停めると、中国東北部の経済が破たんするのかもしれません。北朝鮮が崩壊した時の難民の流入もそうですが、陸続きの隣国の経済封鎖は難しいですね。ロシアの煮え切らない態度も、中国同様に国境を接しているからでしょう。北朝鮮問題は同族の韓国の対応次第のところがありますね。国民が一体となって、ドイツ統一と同じ覚悟をすればまだしも、僅かなスキャンダルで大統領を罷免するような平和ボケ、セコイ感覚では韓国内部の意志統一の方が先でしょう。

おっと、他国のことは言えません。日本でも、森友のようなセコイ話で国会が騒いでいます。

信玄の矛先(ほこさき)

塩止めの話が出ました。いつの放映で取り上げるのか、ネタ本が切れましたから見当がつきませんが、武田と今川の縁切りの話です。信玄は桶狭間以後、三国同盟からの離脱を決めていたと思われます。

北の上杉謙信は手ごわい。川中島での抗争を続ければお互いが消耗して、かつ、得るものが少ない。

ならば矛先を南に取り、義元亡き後の駿河を手にしてしまおう。南の海を手に入れよう。

こう考えるのが当然です。水は高い所から、低い方に流れます。信玄の戦略は大胆かつ緻密です。

既に手に入れていた信濃の伊那谷、飯田から三河、遠江に抜ける街道筋に、調略の手を伸ばします。

木曽谷からの出口に当たる美濃方面にも、同様に手を回します。進撃路を幾つか想定し、そのそれぞれの調査と兵糧などの手配を始めています。地域の領主ばかりでなく、郷士たちの動静や、今川への忠誠心なども、入念に調査を進めていました。こういうところが「静かなること林の如し」でしょうね。目だった軍事作戦は一切取りませんが、すでに軍事行動は始まっていたのです。

さらに、三河の松平改め徳川にも手を回します。

「今川崩壊後、駿河は武田に、遠江は徳川に」

こういう密約があったのか、なかったのか・・・歴史家は証拠を探しますが、証拠がないから密約なのでしょう。約束しようがしまいが、互いに連絡を取り合っていたことは間違いないでしょう。

この動きに反対したのが信玄の息子・義信ですが、委細構わず今川から来た義信の嫁を国許に送り返し、息子・義信は切腹させてしまっています。父を追いだし、息子を処罰しと、信玄という人は家族に情の薄い人でしたね。その反動が信玄亡き後に現れます。身内への情の薄さが、身内の離反を招き、武田家滅亡の導火線になったのかもしれません。

ともかく、三国同盟は破綻し、塩止めという政策で、武田と今川は敵対関係になりました。

北条の事情

北条にとっても今川の弱体化はチャンスです。が、足元の関東がふらついています。とりわけ北関東、上野(群馬)下野(栃木)といったあたりが上杉、武田の調略を受けて安定しません。上野は三強による三すくみといった状況です。少しでも兵を減らせば、すぐに付け入られるといった状況で、伊豆から駿河に向けて兵を揃える余裕がありません。

ただ、攻撃の余力はなくとも、今川から後方を脅かされる心配は全くありません。北関東の安定に全力を投入できます。ただ、武田信玄が虎視眈々と駿河への攻撃を準備しているということに気が付いていませんでした。氏康が隠居して氏政の時代に入っていますが、代が変わるごとに北条も貴族化していきましたね。常在戦場という初代早雲の志は薄まっていきます。

売り家と 唐様で書く 三代目

という狂歌、川柳がありますが、為政者は代を重ねるごとに政治感覚が鈍くなります。企業でもそうですが、会社が安定するにつけて経営者は現場感覚が鈍くなります。ましてや現代のように情報通信機能が発達すると、居ながらにして、リアルタイムに現場情報が検索できます。ですから自分の足で動き回らなくても会社の状況は分かったつもりになりますが・・・わかっていませんね。どんなに優れた情報システムを準備しても、それに向き合う経営者の感性が現場と乖離していたら「見れども見えず」です。

東芝さんはじめ企業の不祥事が世を騒がせますが、経営者が現場を見ていないんです。数字を確認し、報告を聞いているだけで、自分が現場に出なくなります。これは経営者だけの罪ではないと思いますね。事業の責任者が、嘘を隠すために経営者を意図的に騙していますね。たとえ経営者が希望しても、現場に連れて行かないのです。

我々もネット、スマホと情報化満載の時代に生きていますが、電線や電波を伝わってくる情報を鵜呑みにすると危ないですねぇ。足で稼がないと…事業売却、資産売却の憂き目に遭いそうです。

家康は今

井伊家にとって、結果から見たら家康こそが救世主です。その家康を描くのに、ドラマの作者は実に…ぞんざいですね。金ぴかの鎧をまとい、碁盤の前で一人碁を打っている…頼りない男で登場させます。

しかし、桶狭間のチャンスに今川の報復というリスクを背負いながら独立を決断し、敵対してきた織田信長と同盟を結び、しかも、三河の主だった者たちを説得して味方に引き入れてしまった政治力は凡庸な男にできることではありません。家康と言えば小太りなイメージですが「しかみ図」という肖像画では痩せた男に描かれています。この絵は信玄に敗けた三方が原の戦の後の絵ですから、若い頃は痩せていたと見るべきではないでしょうか。神経をすり減らしながら内政、外交に苦心していたと思います。

三河一向一揆という家臣団の反乱に手を焼きましたが、各個撃破しつつ安定を取り戻しつつあります。雨降って地固まる・・・の喩え通り、身内の異分子が去り、求心力を増してきたころです。その動静を見極めたからこそ、信玄が「今川領分割提案」を持ち込んだのでしょう。見込みなし…と思えば、挨拶なしに好き勝手をするはずです。

直虎は駿府に行ったのか?

知る限り、調べる限りでは…どこにもそういう記録はありません。行かなかったという記録もありません。ですから「行った」という想定をしても間違いではありませんが、身軽に過ぎます。しかも、直親が呼びだされて、だまし討ちにあった直後です。

まぁ、女城主の大先輩・寿桂尼との直接対決の場を作りたかったのでしょう。